“人間がやっかいなのは決して社会の腐敗のせいだけではない” 『震える山―クールー、食人、狂牛病』 ロバートクリッツマン, Robert Klitzman, 榎本真理子訳 法政大学出版局

震える山―クールー、食人、狂牛病

震える山―クールー、食人、狂牛病

ちょっと変わった本ともいえる.サイエンスものである,文化人類学ものでもあり,紀行記ともいえ,いろんな要素を兼ね備えた本であり,そこが魅力.本書の価値ほどには,日本では読まれていないのではないか.
 裏表紙より

パプアニューギニアの恐怖の風土病クールー(現地語で「震える」)は人肉食の風習から起こり,その感染源は近年世界を震撼させた狂牛病と同じ伝染性プリオンとされている.ニューギニア高地でいまなお原始時代さながらに生きる人々と正に異文化生活を共にし,厳しい自然と直面しつつクールー患者の足跡をたどる科学調査のなかで,彼らの世界観や価値観を学び,文明とは何かをも問う若き医学者の文化人類学的紀行.

 帯にある各氏による献辞

名著だ。…想像を絶するような愚行と病弊の数々にとどめを刺した

ほかの「狂牛」物の本は全部ゴミ箱に放り込むとよい。プリオンに関して、これぞ必読の書と言える。本書は、自身もまた奇妙な病を抱えているせいもあって非情に研ぎ澄まされた目を持つ著者によって語られる、胸躍る物語だ ― ローリー・ギャレット(「カミング・ブレイクの著者)

(著者は)オリヴァー・サックスを思わせる魅惑的な医療人類学とスティーヴン・キングばりのゴシック・ホラーを組みあわせ、知的かつ不気味な医学推理小説を生みだした ― ディヴィッド・ブロッツ(「ジーニアス・ファクトリーの著者)

読者は目を開かれ、たっぷり楽しみながらも、背筋の凍る思いをすること請けあいだ ― 医学博士カトリーナ・ファーリック

 医学生になりかけの著者は,研究助手としてパプアニューギニアへ行くことになる.それは異文化との強烈な出会いの連続であった.
前書きより

この本に記した私の体験はまた、科学するとはどういうことか、ことに流行疫学のフィールド・ワークと医学的文化人類学の実態―その難しさ、意外な成り行き,多岐にわたる成果,科学者や文化人類学者がどのようにして一人前になっていくのか―に光を投じることだろう。

P.25

メラネシアの伝統的社会では大人が子供と性関係を持つことは是認されているどころか、ごく普通のことである。慣習やタブーは文化によって異なり、ある文化では奨励されることが他の文化では禁止されたりするが、タブ−を犯せばどの文化でも罰を受けることになる。 

P.30

戦後になってニューギニア東部の大がかりな調査がやっと始まり、三百万の人々がいまだに石器時代さながらの生活を送っていることが判明した。深い谷と切り立った山々に囲まれ、それぞれの住民は外部世界からまったく切り離されていたし、各々完全に孤立していた。ニューギニア島では七五〇―この数字は世界中で有史以来話されてきた全言語の三分の一から二分の一に匹敵する―以上の言語が今も話されている。これらの言語は、例えばフランス語とイタリア語のように、相互に類似点を持つ方言同士のようなものではなく、ハンガリー語ハワイ語のように、それぞれまったく異なる言語なのである。

P.32

 しかしながら病原体がカニバリズムを通じて蔓延するのだということは、当時まだ証明されていなかった。現に、文化人類学者のW・アレンズは、一九七九年に出した『人食いの神話』の中で、カニバリズムの事実など世界のどこにも実在したことはない、ただ茂樹を求める西洋人がでっちあげただけだ、と論じた。

P.142

ニューギニア人たちは、白人の持ってくる積荷や品物は、もともと自分たちの祖先の霊が、自分たちのために送ってよこしたもので、秘密のまじないを知っている西洋人が横取りしたと信じていた。過去数十年にわたって「積み荷信仰」はニューギニア中に広がっていた。ニューギニア人たちは、ジャングルの中に自分たちの手で滑走路のイルミネーションを作った。そうすれば飛行機が彼らにも交易品を運んでくれると考えたのだ。

P.187

 フォレ族の文化と想像力の豊かさは、彼らの信じている手の込んだ況術と魔術の中に、とりわけはっきりと現れている。こういう信仰はなかなかすたれない。
 だが一方で、フォレの論理の一貫性と強靱さに私は感心した。彼らはいまだに科学というものを発見していないが、それをいうなら古代ギリシア・ローマだって同じだった。

P.204

誰もが自分の文化のテクノロジーのすべてを知っているニューギニア人に比べると、西洋人は専門化しすぎていることになる。

P.262

脇の方にガラパッシー・ポイントを見つけた。それが、ニューギニアにやってきた、最初の文化人類学者ゆかりの地だということを、本で読んで知っていた。その文化人類学者はミハロウチョ・マクリーというロシアの貴族で、一九世紀末にロシアのトロール漁船にここまで連れてきてもらい、数年後には連れ帰ってもらったのである。彼は、ガラパッシー・ポイントから先には進めなかったので、内陸には人が住んでいないと思ったのである。

P.307

ここは、アダムとイヴの世界ではなく、最初から物質主義の存在する世界だった。人間を原始的状態に戻せば、それほど利己的ではなくなるというマルクス主義的理論とは異なり、石器時代のようなここでの生活では、貪欲が人間の基本的な要素であった。(略)社会のいかんにかかわらず、貪欲は魂の奥深くに潜み、今なお戦わねばならぬ相手だし、おそらくずっと存在し続けるであろう。世界大戦とウォール街大恐慌を見れば、西洋が貪欲に対して免疫ができたとは言いがたい。「人間は自由に生まれついているが、あらゆるところで鎖につながれている」とルソーは書いた。一方で、人間は策略を巡らすように生まれついており、どこで生きようと変わらない、と言うことも可能だ。人間がやっかいなのは決して社会の腐敗のせいだけではない。

P.316

 パプアニューギニアでの経験は、医学でも科学でも精神医学でも、社会的文化的脈絡、暗黙の了解、そして病気と治療がどう定義され、組み立てられているかという、いまだに理論の確立されていない事項を綿密に研究することが必要だと、私に教えてくれた。病気とは所与のものではなく、文化によってそれぞれに構成されていることが分かった。(略)
 同様に医学とは、私が医学部で習ったように、ある問題に対して明確な解決がある、意思決定図表のような具合に構成されているとは限らず、たまたまの成り行き、状況、偏見、個人的な相互作用によっても形作られることを学んだ。それでいて医者はこのような要素や、その意味を無視するのである。

【関連読書日誌】
【読んだきっかけ】
2003年11月の初版を読む(原書は1998年刊).書評がきっかけか.
【一緒に手に取る本】

絶滅していく言語を救うために―ことばの死とその再生

絶滅していく言語を救うために―ことばの死とその再生

言語は1週間に一つずつ消えているという.プリオン病は未解決.上記書は,非常によくかけた科学書.
眠れない一族―食人の痕跡と殺人タンパクの謎

眠れない一族―食人の痕跡と殺人タンパクの謎

遺伝性プリオン病のノンフィクション.