“『七人の侍』は、二一世紀の現在においてすら、いや現在においてこそアクチュアルなフィルムである” 『『七人の侍』と現代――黒澤明 再考』  四方田犬彦  (岩波新書)

『七人の侍』と現代――黒澤明 再考 (岩波新書)

『七人の侍』と現代――黒澤明 再考 (岩波新書)

 この本を読んで,早速,「七人の侍」のDVDを借りにTUTAYAへ行った.
あとがきより

あえていうことにしよう。黒澤明が一九五四年に監督した『七人の侍』は、二一世紀の現在においてすら、いや現在においてこそアクチュアルなフィルムである。年に失業者が溢れ、農村が疲弊の極致に達している時代。国境を越えて難民が避難所を求め、それを追うように武装集団が掠奪を欲しいままにする時代。勘兵衛や菊千代が理念のために戦い、虚無に突き当たって服喪を強いられたのは、実はそのような時代であった。黒澤明は二〇一〇年に生誕一〇〇年を迎えたが、このフィルムはどこまでも現役のフィルムであり、その意義は映画史の枠を越えた、ますます重要なものとなろうとしている。

 今年生誕100年を迎える世界的名監督,黒澤明について,私たちはどれくらい知っているだろうか.そして,どれくらい彼の映画を見ているだろうか.日本映画が映画祭で賞を獲ると「黒澤明以来」と表現されることは多いし,とりたてて映画ファンでなくても知っている海外の有名監督が黒澤明へのオマージュを示すこともある.しかし,その知名度ほどに黒澤明の映画は現代日本で観られていないのではないか.私自身,黒澤映画のうち,ちゃんと全編を観ていて,かつ深い感動の記憶があるのは,「デウス・ウザーラ」くらいである.

本書では,黒澤明の代表作である「七人の侍」は,現在,世界中の様々な場所で観られ続けていること,そして「七人の侍」のプロット,主題がいろいろな形に翻案されて多くの映画が作られているという.「七人の侍」における百姓,侍,野伏せ,という3者の構図がもつ普遍性,そして七人の侍それぞれの役割が,具体的なせりふと行為を示しながら解説されていく.そうかそんな奥深い仕掛けであったのかと納得させられ,映画が観たくなるわけである.この映画が決して娯楽映画などではなく,そこに黒澤の深い想念が込められていることを知る.だからこそ,時代と場所を超えて人の心を打つのだとわかる.

ただ一方で,非常に残念な思いがしたのは,この四方田の本がなければ,私は,この映画に込めた黒澤のメッセージを読み取ることはできなかったであろうと感じた点であり,そればかりか映画を楽しむことさえできなかったかもしれない.映画が作られた時と現在とでは,50年の隔たりがあり,字幕無しでは気をつけないとせりふも聞き落としてしまうくらいである.現代人が,漱石や鴎外を注釈無しでは読めないのと同じかも知れない.

また,この映画の公開されたとき,当時の日本人がこの映画をどう感じて,どう読み取ったかは,1954年の時代背景に対する知識があってはじめて理解されるという指摘は重要であろう.さらに,本書は決して黒澤礼賛の書ではなく,映画監督としての黒澤の限界,映画「七人の侍」の限界についても論じられている.

現在の歴史学の立場からすれば、黒澤明が設定した枠組みの狭窄ぶりは明かである。本書ではその立場からの忌憚のない批判も記すとともに、彼がいたずらに国際的に神話化されていった過程に対しても、批評的観点から論述を行なった。

【読んだきっかけ】書店で,四方田犬彦の名前に釣られて.ここ2,3年,四方田犬彦をずいぶんと読んだ.特に忘れがたいのは,『先生とわたし (新潮文庫)』と『驢馬とスープ―papers2005‐2007』.
【一緒に手に取る本】

先生とわたし (新潮文庫)

先生とわたし (新潮文庫)

驢馬とスープ―papers2005‐2007

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七人の侍 [Blu-ray]

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