“恐るべきは国家の犯罪である。弾劾さるべきは、理想に名を借りて犯罪を目的化した国家のイデオロギーである。” 『カチンの森――ポーランド指導階級の抹殺』 ヴィクトル・ザスラフスキー 根岸隆夫訳 みすず書房

カチンの森――ポーランド指導階級の抹殺

カチンの森――ポーランド指導階級の抹殺

誰でも親しい人の死にはあれほど悲むのに,毎年何千,何万という人が戦争やテロで命を落とす.「どうして戦争は無くならないのか?」という子供の素朴な問いに,大人はいまだに答えられずにいる.近現代史において,時代に翻弄された国のひとつが(広い意味での)ポーランドだろう.あえて「広義の」と注釈をつけるのは,みなが勝手に「国」の定義を与え,国境線を与えようとするので,そもそもポーランドとはという問いに対する答えさえ曖昧であるからであり,だからこそ戦争が無くならないわけである.第二次大戦前後に,ポーランドに住む人におそった悲劇は,このカチンの森事件と水晶の夜に代表されるであろう.

ポーランドの歴史はユダヤ民族を抜きに語ることは出来ない.そして,「カチンの森」事件は,杉原千畝が彼の地を去ってすぐに起きた.「カチンの森」とは,第二次世界大戦中に,何万という大量のポーランド人がカチンにおいて,ソ連軍によって,虐殺され,埋められ,隠蔽されたことを指す.そして,単なる大量虐殺ではない次のような特徴を持つ.

  • ジェノサイド(民族浄化)ではなく,知識人と将校を対象とした階級浄化であったこと
  • カチンの森は当時行われた大量虐殺の氷山の一角でしかないこと
  • ソビエト政府はその事実を隠蔽し,暴露された後もドイツ軍に責任転嫁したこと
  • 戦後,アメリカも,イギリスもこの事実を明らかにしようとしなかったこと
  • グラスノスチゴルバチョフも,証拠を全面開示しなかったこと

ポーランド映画の巨匠,アンジェイ・ワイダは,2007年映画「カティンの森」(Katy〓)を製作した.1926年生まれのポーランド人で,父親をこの事件で亡くしたと言われる.彼にとって,これは,生涯のどこかで映画化しなければならないテーマであったのだろう.それでも80になるまで出来なかった重たいテーマであったのかもしれない.この映画の大事なところは,虐殺に至るまでの経緯ではない.むしろ,事件の後に起こったことの描写が重要.

わずか,200ページの薄い本であるが,人間とは何か,歴史とは何か,国家とは何かを問う,大切な本である.

まず,ソ連崩壊によって,事実の解明が進んだ.
P.4

 ソ連政府が崩壊して最初に成立したロシア連邦政権の時代は、いまでははるかに遠くなった。しかしそのころは、ソ連が崩壊してまだ一年そこそこだった。ボリス・エリツィン大統領はポーランド大統領レフ・ワレサに、一万人のポーランド人戦争捕虜の殺害と一〇万人のポーランド市民の流刑を命じたソ連共産党政治局決議文を手交した。そのおなじ年にエリツィンは、ポーランド国家が建てたカチン虐殺犠牲者の追悼記念碑に花環を供えて、「どうかわれわれを赦してほしい」と言葉少なく言ったのである。

2010年4月、ソ連主催のカティンの森事件追悼70周年記念式典に出席するため搭乗していた大統領専用機の墜落事故により、レフ・カチンスキ大統領夫妻,多数の有力政府高官と共に死亡したことは,記憶に新しい.

ポーランド人にとってカチンは氷山の一角でしかない.
P.45

  しかし今日、ポーランド将校処刑の理由を探す歴史家たちは、心理的動機や国家の安全にはらわれた考慮では満足できない。ソ連の安全のために犯罪的手段が許されるべきだとする政治局の理屈は成り立たちようがない。われわれが忘れてならないのは、ポーランド将校の銃殺がその親族−−妻、子供、老親族−−のカザフスタンへの一〇年間の追放(それは多くの人たちにとって死を意味した)と財産没収をともなったことだ。すなわち、国家の安全はソ連共産党政治局の決定 を特徴づけるほんの一面にすぎず、まして、もっとも重要な面などではなかった。

 ポーランド将校の銃殺は疑いなく悲劇的な行為だが、それより知られていないのが、独ソ不可侵条約にもとづいてソ連軍が占領した全地域でくわえられた大規模なテロである。これを歴史家は忘れてはならない。それはおぞましさにおいて将校の銃殺に劣らなかった。メモリアル協会と協力するロシアの歴史家は、ソ連政府の犯罪、とくにスターリン・テロについての資料を収集し、ポーランド人がこうむった弾圧を主題とした貴重な研究を発表した。この新しい資料は、占領ポーランド地域での大規模テロの激しさが、ソ連でのテロの激しさを上まわったことを証明している。わずか二〇カ月のあいだに東部ポーランドの人口の四パーセント、つまり四〇万人以上が投獄、追放、銃殺の憂き目にあった。

P.85

カチン事件は、ソ連秘密警察の幹部からはつねに失敵に終わった工作とみなされていた。フルシチョフの息子セルゲイは回想録に、一九四〇年にウクライナNKVDの幹部の一人で一九五四年から五八年にかけてKGB議長だつたイヴァン・セーロフの言葉を記録している。セーロフはカチンの銃殺を担当した同僚を手厳しく批判した。「かれらはこんな些事を片づけられなかった[……]。私の地域、ウクライナでは銃殺したポーランド人はもっとたくさんいた。だがだれも、

カチンは国際政治の中で封印され続けてきた.
P.70

このポーランド調査団は銃殺が一九四〇年春におこなわれたとのおなじ結論に達したが、ナチ宜伝に利用されないように、発表しないことに決めた。報告書はたった一部作成されてイギリス政府に送られ、イギリス政府はこれを最高機密文書として四五年間封印していた。この報告書が発表されたのはやっと一九八九年になってからである。

P.73

 西側政府の積極的な幇助がなかったならば、ソヴイエト指導部は半世紀ものあいだカテン膚穀の自己資任を隠しおおすことはできなかっただろう。西側政府は入手していた情報を隠蔽し、事件を握りつぶすそうと全力をつくした。アメリカ政府は一九五〇年代はじめまで、イギリス政府はソヴィエト政権の崩壊まで、この態度を変えなかった。
 ドイツによるカチンの墓穴発見後、イギリス政府は問題をどう扱うかについてジレンマに直面した。イギリスの世論では一九四三終わりまで、スターリンルーズヴェルトよりもずっと人気があったことを考慮する必要があった。イギリスの有力紙と世論指導者たちはソ連とふかく連帯していた。たとえば著名な歴史家E・H・カーは『タイムズ』紙上で、戦争の唯一の正しい現実的な結果として、東欧でのソ連の影響圏を承認するようくりかえした。

歴史的真実を語り継ぐことが,いかに大変なことか
P.80

 ナヴィール委員会のべつの委員ヴィンチェンツォ・パルミエリ教授の運命は、イタリアの政治風土をよく示していて、カチンの真相を隠蔽するソ連の宣伝を助けるイタリア共産党に役割を演ずる機会を許した。ソ連イタリア共産党に、パルミエリをつけまわし、できればパルミエリの評判を落とすよう求めた。そこでマリオ・アリカタをはじめとするイタリア共産党幹部は、このナポリ大学教授を誹誇するキャンペーンを組織する。
 甥のルイジ・パルミエリによると、「パルミエリ教授は一九四八年四月十八日の選挙が近づき、結果の予想がつくと、カチン事件の報告書と写真を密封防水した靴箱に入れて、カッシノ近くまたの自分の地所に埋めた」。そのあとすぐに掘り起こし、一九五三年の選挙後には埋め直した。一九六〇年代のはじめにナポリ市長になっていたパルミエリは、資料を守るために、自宅が火事に遭ったさいにカチン関係資料が全焼したとの噂を、一九六八年まで流していた。

P.131

  そしてその翌年、ゴルバチョフソ連の罪を認めてポーランド国民に公式に謝罪すると、イギリス外務省はつぎのばかばかしい声明を出すにとどまった。「長年われわれはこの事件を明らかにするようあらゆる方面に求めてきた。したがって今回のモスクワによる新しい事実発表を歓迎する」。世論に植えつけられた歪曲と、ソ連がイギリス外交政策にくわえた脅威を、経済的利益なるものが補って余りあるかどうかをここで分析することはできない。
いずれにしても、西側の政治家と知識人がソ連の公式路線であるドイツ有罪説をとり、そしてソ連という大国との不和を避けるために立場をはっきりさせない邪な実用主義と倫理的無関心を発揮してくれたお陰で、ソ連政府はまず偽造したうえで、今日まで真相の承認を遅らせることができたことをソ連内部資料は示している。
二十世紀後半の歴史学と世論が、カチン事件についてかたくなに沈黙したり、情報を抑えなり、調査をしなかった理由はなんだろうか。この事件には、長いあいだ欧州人の意識のなかで抑圧されたり、あるいは消去されていた多くのタブーが潜んでいるからだ。ピエルルイジ・パティスタがいみじくも言っている。「ここには他に例をみないほどいくつものタブーが凝縮されていて、そのせいでカチン頂欄の理解は今日まで妨げられてきた。それらは明らかに、不当な妨害がつづいた謎を説明している」。

P.141

 なぜ、この恐るべき事件から七〇年を経た今になって、歴史学、とくに欧州歴史学はカチンの物蹄を語りつづけ、その状況と原因と歴史的結果とを分析しつづけるべきなのか。ハンナ・アーレントは『暗い時代の人間性について』の有名な一節で書いている。「過去の克服が可能だとすれば、それは本当に起きたことを語ることにある。だがこの物語は、歴史に形をつけるけれども問題を解決しないし苦悩を和らげはしない。なにも克服されないのだ。事件の意味合いが生きているかぎり−−それは長いあいだつづくかもしれない〜過去の「克服」はくりかえし語りつが

民族浄化と階級浄化の同時進行.浄化とはおぞましい言葉だ.
P.45

  しかし今日、ポーランド将校処刑の理由を探す歴史家たちは、心理的動機や国家の安全にはらわれた考慮では満足できない。ソ連の安全のために犯罪的手段が許されるべきだとする政治局の理屈は成り立たちようがない。われわれが忘れてならないのは、ポーランド将校の銃殺がその親族−−妻、子供、老親族−−のカザフスタンへの一〇年間の追放(それは多くの人たちにとって死を意味した)と財産没収をともなったことだ。すなわち、国家の安全はソ連共産党政治局の決定 を特徴づけるほんの一面にすぎず、まして、もっとも重要な面などではなかった。

 ポーランド将校の銃殺は疑いなく悲劇的な行為だが、それより知られていないのが、独ソ不可侵条約にもとづいてソ連軍が占領した全地域でくわえられた大規模なテロである。これを歴史家は忘れてはならない。それはおぞましさにおいて将校の銃殺に劣らなかった。メモリアル協会と協力するロシアの歴史家は、ソ連政府の犯罪、とくにスターリン・テロについての資料を収集し、ポーランド人がこうむった弾圧を主題とした貴重な研究を発表した。この新しい資料は、占領ポーランド地域での大規模テロの激しさが、ソ連でのテロの激しさを上まわったことを証明している。わずか二〇カ月のあいだに東部ポーランドの人口の四パーセント、つまり四〇万人以上が投獄、追放、銃殺の憂き目にあった。

訳者あとがきより
P.154

  面積では独ソそれぞれの分割分はほぼおなじだが、人口はドイツ分割分のほうが多く、二二〇〇万 人だった。一九三九年十月にヒトラーは早くも、ドイツ系住民の多いポーランドポメラニア、ポズ ネニア、上部シュレジエン、ウジをふくむ中央部の一部をあわせて九万四〇〇〇平方キロメートル、 一〇〇〇万人をドイツ帝国に併合した。ワルシャワをふくむ残りの占領地域は、総督府としてクラク フに首都をおき、一二〇〇万人を支配した。総督フランクは宣言した、「今やポーランド民族の政治 的役割は終わった。われわれの目的はポーランド人という概念そのものを抹消することにある。共和 制であろうが、どんなかたちであろうが、ポーランド国家の再生はありえない。ポーランドは植民地 としてあつかわれ、ポーランド人はドイツ帝国において奴隷となる」。
 ドイツに併合された地域からはドイツへの強制移住が開始され、残る住民はポーランド国籍雛脱とドイツ国籍取得を強制された。総督府に住むポーランド人は、ヒトラーの言では 「広大なポーランド人労働収容所を構成する」。ユダヤ人と教育のあるポーランド人は絶滅される。アウシュヴィッツ、マイダネック、トレプリンカはポーランドだけでなく全欧州のユダヤ人の殺戮収容所になった。ヒトラーポーランド・エリートを抹殺してポーランドの独立再生の機会を絶とうとした。

P.161

 ここで特筆しなければならないのは、ポーランドの徴兵法によって大卒者はすべて予備役将校とされ、戦時には自動的に将校として招集される制度があったことだ。この制度のせいで、収容所のポーランド将枚団は現役職業軍人のほかに、応召前にはポーランド社会の各分野で指導的な役割を果たしてきた予備役将校から構成されていた。したがってここでいうポーランド将校とは、軍官民のポーランド・エリートに他ならなかった

訳者あとがきから
P.161

 ここで特筆しなければならないのは、ポーランドの徴兵法によって大卒者はすべて予備役将校とされ、戦時には自動的に将校として招集される制度があったことだ。この制度のせいで、収容所のポーランド将枚団は現役職業軍人のほかに、応召前にはポーランド社会の各分野で指導的な役割を果たしてきた予備役将校から構成されていた。したがってここでいうポーランド将校とは、軍官民のポーランド・エリートに他ならなかった

P.175

  恐るべきは国家の犯罪である。弾劾さるべきは、理想に名を借りて犯罪を目的化した国家のイデオロギーである。国家の犯罪に加担する者は勲章と金をあたえられる。カチン虐殺に参加したNKVD処刑人たちも虐殺終了後、勲章をもらい加俸された。ソ連崩壊からやがて二〇年経つが、だれ一人罪を問われていない。ロシアにとって、ソ連という過去のしがらみは重い。カチン事件の二万二〇〇〇人の死者の身元の多くも不明のままだ。

ドイツとソ連の狭間で,軍隊を組織し闘った将軍
P.43

 ヴワヂィスワフ・アンデルス(一八九二−一九七〇)。一九三九年、ポーランド騎兵旅団を率いてドイツ軍と果敢に戦い、重傷を負う。東部に退却したが、腹背からソ連軍に襲われ捕虜となり、モスクワで投獄される。一九四一年六月、独ソ戦の勃発を受けて、ソ連はロンドンの亡命ポーランド政権と外交関係を結び、ソ連強制収容所内のポーランド市民と戦争捕虜に恩赦発令(なんの罪も犯していないのだから、ソ連らしい図々しい偽善だが)、ソ連南部でアンデルス将軍揮下ポーランド軍が編成されることが決定。そのさい、多数のポーランド人将校がカチン事件のせいで姿を現わさず、アンデルスは疑惑を抱き、ソ連に真相を迫る。ソ連とはその他、方針の食い違い、装備・食料の劣悪さなどで衝突。ソ連はアンデルス軍を装備する余裕もなく、厄介者とみなした。アンデルスはチャーチルの口添えを得てスターリンと交渉し、兵四万一〇〇〇とともに、中東油田防衛を口実にソ連を脱出、カスピ海、イラン経山で、イギリス悌パレスチナでイギリス軍に合流する。この一隊には、ソ連に強制拉致されていたポーランド一般人女性子供の一部、七万四〇〇〇人もくわわった。将軍はイギリス軍に装備された第二ポーランド軍団を率いてモンテカッシーノを攻略したが、戦後、ソ逮支配下のポーランドに国籍と軍籍を剥奪され、亡命地ロンドンで客死した。

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『バナッハとポーランド数学 R.カウージャ  シュプリンガー・フェアラーク東京』
【読んだきっかけ】
【一緒に手に取る本】
アンジェイ・ワイダ監督による映画の原作

カティンの森 (集英社文庫)

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水晶の夜―ナチ第三帝国におけるユダヤ人迫害

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