“今回の大災害は、これまで通用してきたほとんどの言説を無力化させた。それだけではない。そうした言葉を弄して世の中を煽ったり誑かしたりしてきた連中の本性を暴露させた。” 『津波と原発』 佐野眞一 講談社

津波と原発

津波と原発

 大震災に次ぐ原発事故.その被災地域の広さと回復に要するであろう時間において,日本国にとって有史以来の危機と言えるかもしれない.原発の今後と放射能汚染の現状と今後について,最善の方策を選ぶためには,物理学,原子力工学,生物学(特に,放射線医学・生物学)の知識が欠かせない.確かに,原発事故対策のために,何が最善の手段かは専門家でなければならない.しかしながら,今後の原子力政策を考え,決めるのは,専門家ではなく,日本に住む私たち自身でなければならない.そのためには何が必要か.

堤未果『正社員が没落する ――「貧困スパイラル」を止めろ!  (角川oneテーマ21) 』)に倣って言えば,「試されているのは菅直人ではない.私たちだ」ということになろう.

 この災害をどう処理し,今後の日本における科学技術の真価が問われているといっても過言ではない.これには,三つの意味がある. 
 第一に,文字通り事故処理のためにわれわれが持ち合わせている科学的知識と技術は何か,ということである.先進国であるはずの日本は何ができるのか,原発を増設しようしてしていた電力会社,原発輸出を計画していた企業は何ができるのか.文字通りの本当の専門家は何が出来るのか.
 第二に,放射能に関する様々な計測データが入手できたとして,私たちはそれを的確に読み解き,議論し,最善策を決めることができるのか.マスメディアの対応やコメンテータの発言の中には,科学的なものの見方について基本的な訓練を受けていないではないか,と疑いたくなるもののある.先進国日本がそれに足るだけの科学教育を行ってきたのか,その成果はどうであったのか,問われているとも言えよう. 
 第三には,「科学」そのものが持つ根源的な価値,意義が問われているのではないか.すべてのデータと情報がでそろったところで,わたしたちは,そこから最善の方策を見受け出しうるのか.わたしたちは,出発点で誤った判断をしてしまったのではないか.そしてそくしてれを防ぐ手段を「科学」は持ち合わせていたのか.「科学」の帰結として起こるべ起こったことなのではないか.

佐野は,

今回の大災害は、これまで通用してきたほとんどの言説を無力化させた。それだけではない。そうした言葉を弄して世の中を煽ったり誑かしたりしてきた連中の本性を暴露させた。

と言う.いわゆる科学評論家やそれに類することを行ってきた人たちは,今後の原子力について,彼らなりの考えを発言すべきであろう.

 今,原子力発電について,放射能について,あまたの本が出版され,読まれている.幸い,古い本もこれを機に再刊されている.情報を収集するには最適な時期であろう.それぞれの本についての私なりの見解はあるのだが,それはおいておいて,ここでは,なぜ,佐野の本書を敢えて手に取り,ここにその記録を残すことを考えたか,記しておきたい.その理由は3つある.
 第一に,佐野のノンフィクションを読み継いできて,信頼をおいていることもあるが,読売の正力松太郎ダイエー中内功,元首相の小渕恵三小泉純一郎,都知事の石原慎太郎などの人物を扱った著作をものにしているという点である.こられの人物は,本人または関係者が存命であり,本来扱いが難しいはずである.ともすれは,一方的な批判記事か,あるいは太鼓持ちになる可能性があり,あるいはそのような批判を受けかねない.こうした危ない素材を佐野はこれまで非常にバランスよく独自の価値判断を見失うことなく扱ってきた.原子力も同様の力量を必要とする,扱いづらい素材なのである.
 第二に,佐野は.「巨怪伝」において,日本の原子力産業,原子力行政を立ち上げた経緯を記しており,その黎明期のことを幅広く取材しているはずだからである.原子力の今後を論ずるには,なぜ今こうなっているのか,を知る必要があるのである.
 第三に,佐野は,「東電OL殺人事件」という著作もある点である.無論,この殺人事件と原発事故は直接何の関係もない.しかしながら,「東京電力」という企業が象徴する何かがその両方に絡んでいる気がしてならない.そして,本書でもこの点にページが割かれている.

 本書の魅力は,佐野の人脈,経験を活かした取材対象と,現地を見ていることとであろう.例えば,新宿のゴールデン街で「ルル」というおかまバーをやっていた「キン子」と自称する名物ママ.さらに,テレビ朝日の「ニュースステーション」のキャスターなどもつとめ,定年後シニアスタッフ石巻支局長をしていた朝日新聞論説委員の高成田亨(たかなりたとおる)から紹介された地元の漁業関係者.また,日本共産党の文化部長を務めた,山下文男.彼は,知る人ぞ知る,津波の専門家であった.

 また,最終章で,佐野が取材対象,インタビュー相手として選んだのは,政治学者の原武史,ジャーナリストの森達也,そして,孫正義の3氏である.この人選には思わず唸ってしまった.

まず,本書を書いた動機について
P.66

 今回の大災害は、これまで通用してきたほとんどの言説を無力化させた。それだけではない。そうした言葉を弄して世の中を煽ったり誑かしたりしてきた連中の本性を暴露させた。
 それでもなお生き残る言葉があるとすれば、それこそが、この大災害後にも通用する本物の言葉である。三・一一以降、日本は変わった。いや変わらなければならない。
 この未曾有の大災害は、目の前で起きた悪夢のような出来事に「言葉を失う」体験をした人びとの身の上を思いやる想像力の有無を政治家や官僚、ジャーナリストをはじめとするすべての日本人に問うている。
 もし、その想像力が日本人から損なわれているとするなら、それは被災地に広がる瓦礫以上に深刻な精神の瓦礫といわなければならない。

原発労働者について
P.106

 原発労働者の言葉の貧しさは、前述した浪江農場長の吉沢正己氏や、養鶏場「花兄園」グループ取締役の平本六郎氏の感情の赴くままの激しい言葉と比較するとよくわかる。
 原発労働者は、人間で最も大切な精神活動まで去勢されてしまっているのだろうか。
 原発労働者は、産業的にはエネルギー産業従事者に分類される。だが、同じエネルギー産業に携わっていても、炭鉱労働者の世界とは根本的に違う。
 炭鉱労働も過酷な労働には違いない。だが、そこから無闇に明るい「炭坑節」が生まれた。それは、死と隣あわせの辛い労働を忘れるための破れかぶれの精神から誕生したにせよ、その唄と踊りはあっという間に全国を席巻していった。
 炭鉱労働が国民の共感を得たことは、東映ヤクザ映画に通じる「川筋者」の物語が数多く生まれたことでもわかる。その系譜は斜陽化した常磐炭鉱を再生する「フラガール」の物語までつながっている。
 だが、原発労働からは唄も物語も生まれなかった。原発と聞くと、寒々とした印象しかもてないのは、たぶんそのせいである。原発労働者はシーベルトという単位でのみ語られ、その背後の奥行きある物語は語られてこなかった。

地元出身で,『「フクシマ」論−原子力ムラはなぜ生まれたのか』を出版した東大博士課程の学生である開沼博氏へのインタビューにおいて
P.222

  • (略)原発労働者にもたくさん会ったでしょうから、お聞きしますが、同じエネルギi産業に従事しながら、炭鉱労働者には「炭坑節」が生まれたのに、原発労働者に「原発音頭」が生まれなかった。これはなぜだと思いますか。

「彼らは危険だということをわかりながら、自分を騙しているようなところがあって、その負い目が差別性につながっているような気がしますね」

P.224

  • (略)ところで、話を元に戻すと、開沼さんは"疎外された労働"そのものの肉体労働系ではない、東大出身のエリート原発労働者ともお付き合いがあると思いますが、彼らにも"疎外された労働"という意識はあるんですか。

「いや、中央制御室で働いている連中にも、事故前から、誇る言葉なんかなかったですね。ただひたすら、トラブル対策をやっているって言っていましたね。すごいリスクが前提としてある仕事なわけですよ」

福島原発の誘致のときの状況
P.158

 このうち高崎は、原子力予算を最初に提案した中曾根康弘の地元ということもあって、すさまじい誘致運動が繰り返された。原子炉から出るアイソトープを県内の公衆浴場などに無料で提供すれば、群馬は"原子力温泉"の聖地として一躍観光化される、というのが、この運動の音頭をとった中曾根の持論だった。

東京電力の企業体質について
P.203

 反対運動が盛り上がらなかったのはなぜだったと思いますか。そう尋ねると、大和田はなかなか含蓄あるとを言った。
東電がうまかったからです。第一原発を稼働させると今度は第二原発をつくる。それだけでも反対運動が拡散してしまうのに、すぐそばの浪江、小高に東北電力原発が建設されるという話になる。反対派は、第一はできてしまったから仕方なく安全にというほかなくなり、第二はこれ以上増やすな、浪江と小高は土地を売るな、と三つの活動を同時にしなきゃいけないことになった。そうこうするうちに原発でうるおう人が多くなり、反対運動ができにくくなってしまった」

P.213

「ただ、あとで調べてわかったんですが、県警も警視庁も含めてですけど、電力会社は、彼らのものすごい天下り先になっているんですよ。特に原発関係はすごいです。

P.216

 こんな男ばかりではないとは思うが、『東電OL殺人事件』の取材時に私に近づいてきたのは、そんな程度の低い連中ばかりだった。
 彼らの狙いが、本のタイトルから"東電"を外してもらうことにあることは明らかだった。私はこんな連中を初めから相手にしなかったが、彼らの懐柔策が功を奏したケースもあった。朝日新聞はあの事件が起きたとき、最初被害者の肩書を「東電OL」と明記していた。だが、その後「電力OL」と表記するようになった。そのとき私はあるコラムで「アホ、テレビの電波少年でもあるまいに」と、毒づいたことがある。

福島の今後について,『原発のある風景』の著者,柴野徹夫氏へのインタビューにおいて.
P.219

− 話は変わりますが、二〇〇七年に民主党が政権構想で、二〇三〇年までに少なくとも原発を十四機新増設し、総電力に占める原発の割合を五〇パーセントにすると発表したときには、狂気の沙汰だと思いました。福島第一原発の事故が起きて、民主党もエネルギー政策を全面的に見直すんでしょうが、この民主党のエネルギー構想を聞いたとき、どう思いましたか。
 「民主党自民党は全然違うものじゃありませんから。元はみんな自民党ですからね。というより、二世、三世の御曹司ばかりですから不勉強で、自民党より始末が悪いかもしれません」

地元出身で,東京都市大学工学部の原子力安全工学科教授の松本哲男氏へのインタビューにおいて,
P.232

− 最後になりますが、今後、あの"原発銀座"地区はどうなると思いますか。
 「住民感情は抜きにして、どうなんでしょう、あれだけの事故が起こったわけですから、核燃料サイクルの最終処分場としての使い道みたいな考えがあっても、然るべきかなと…」
− エッ、あそこを核廃棄物の最終処分場にするんですか。
 「ええ、あの地区の農産物や畜産物は風評でとてもじゃないけどダメだと思うんです。いままで原子力発電所と共生してきた地域としては、原子力エネルギがなくならないんであれば、そんな生き方もあるんじゃないかと、私は個人的には思っているんですが…」
 あらためて恐ろしいと思うのは、この意見をあながち「笑に付せないことである。
 興味深いのは、『「フクシマ」論-原子カムラはなぜ生まれたのか』書いた開沼博も同じようなことを言ったことである。


【関連読書日誌】
“試されているのはオバマではなく私たちだ” 『正社員が没落する ――「貧困スパイラル」を止めろ!  (角川oneテーマ21) 』 湯浅誠, 堤未果 角川グループパブリッシング
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『核がなくならない7つの理由  (新潮新書)』  春原剛 新潮社
『つか版 誰がために鐘は鳴る』 つかこうへい 主婦と生活社
“われわれがなすべきことは,… 贈られたものや不完全な存在者としての人間の限界に対してよりいっそう包容力のある社会体制・政治体制を創り出せるよう,最大限に努力することなのである.”  『完全な人間を目指さなくてもよい理由 遺伝子操作とエンハンスメントの倫理』 マイケル・J・サンデル ナカニシヤ出版
【読んだきっかけ】
先週の日曜に本屋で発見.あまた原子力関係書が並んでいる中,敢えてこの1冊を購入.
【一緒に手に取る本】
本書で言及されている本を中心に

原発ジプシー 増補改訂版 ―被曝下請け労働者の記録

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津波てんでんこ―近代日本の津波史

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哀史 三陸大津波---歴史の教訓に学ぶ

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明日なき原発: 『原発のある風景』増補新版

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