“探偵というものが生み出されたのは、ごく最近のことでだった” “ヴィクトリア朝時代の探偵は、俗世における予言者や聖職者の代役であった” 『最初の刑事: ウィッチャー警部とロード・ヒル・ハウス殺人事件』 ケイト・サマースケイル, Kate Summerscale, 日暮雅通訳 早川書房

最初の刑事: ウィッチャー警部とロード・ヒル・ハウス殺人事件

最初の刑事: ウィッチャー警部とロード・ヒル・ハウス殺人事件

大収穫の一冊.
1860年に英国で起きた幼児殺害事件の顛末を追ったノンフィクションである.
原題は,The Suspicious of Mr.Whicher; or the Murder at Road Hill House(ウィッチャー氏による嫌疑)である.ウィッチャー氏は,本件の主人公であり,「刑事」という職業が成立しつつあった時代の,まさに,最初の刑事であった.

帯に,

ジョン・ル・カレ絶賛!
サラ・ウォーターズ激賞!
イアン・ランキン没頭!
英国で50万部突破!

という評判に偽りはない.
何よりも本書の魅力は,刑事,探偵という職業の起こりと社会背景が丁寧に書き込まれていること,当時の新聞の報道や,この事件に影響を受けた有名作家(ディケンズ,ポー,ドイルなど)などがリアルに登場すること,カントリーハウスの住人という中産階級の生活が描かれていること,そして殺人事件の謎解きそのものの魅力,さらに,事件に巻き込まれた当事者であった,カントリーハウスの住人のその後の変遷の奇想天外,などにあり,満載なのである.

そもそも,本書の扉を開くと,なぜかサンゴやヒトデの水彩画である.これも終わりまで読むとその理由がわかる.

そしてノンフィクションだから,事実を証明するレファレンスが,詳細な註としてつけられている.

150年前の英国にタイムトリップした気分になって,同時代人になりきってこの事件をともに経験することになる,そいうった読書体験ができる一冊.
P.174

 英国の家庭生活は、その世紀初頭から変化していた。家庭であると同時に仕事場であった家が、独立した、内輪だけの、排他的な家庭空間になったのだ。十八世紀の“家族(family)”は、血縁関係で結ばれた“一族(kin)”という意味だったが、その主たる意味は、ひとつ世帯の使用人を除く住人ということになっていた。つまり、核家族である。一八五〇年代にはなばなしいガラス造りの温室,つまり一八五一年大博覧会のクリスタル・パレスが現れたというのに、同じ年代の英国の家庭は閉鎖的に暗くなっていき、プライバシー礼賛と肩を並べて家庭生活が礼賛された。
(中略)
プライバシーはヴィクトリア朝時代の中流階級(ミドルクラス)に欠くことのできない属性となり、中流階級ブルジョワジー)は秘密主義(secrecy)における熟練の技を獲得した(“秘密主義の〈secretive〉”という語は一八五三年に初めて記録された。)。塀をめぐらせて他人を寄せつけず、家庭の内部はほとんど見えない。例外的に開かれるのは、はなばなしく催す家庭生活ショー ― たとえば、ディナー・パーティやお茶会 ― に厳選した客を招待するときだけだ。

P.298

ジョージ・アダムスの顕微鏡(ガス灯の明かりを使うと、壁面に拡大像が投射される顕微鏡)

はじめて聞く名前.ロンドンのサイエンス・ミュージアム(Science Museum)(国立科学産業博物館(National Museum of Science and Industry)に属する科学博物館)にあるらしい。
P.306

一九世紀,人間による証言,すなわち自白や証拠の証人は主観的すぎてあてにならないという考え方が、広く受け入れられるようになっていた。たとえばジェレミー・ベンサムは『司法証拠論』(一八二五年)において、証言は物的証拠によって裏付けられなければならないと論じている。

P.377

 一九二七年、T・S・エリオットは『月長石』をエドガー・アラン・ポーアーサー・コナン・ドイルの小説と比較し、次のように書いている。
  ポーが書いた探偵小説は、チェスの問題のように専門的かつ知的だが、この英国最高の探偵小説の面白さは、数学的な面白さというよりはむしろ人間の不可解さにある…カッフ部長刑事のような英国の探偵小説に登場する最高の主人公たちは、間違いを犯すのだ。

『月長石』はウイルキー・コリンズによる小説で,最初の探偵小説とされる.この事件に題材をとったもので,カッフ刑事は,ウィッチャーがモデル.
P.379

一八六七年の冬,ウィリアムはキングス・カレッジの夜間クラスを受講し、ダーウィンたちが作り上げた“ニューサイエンス”を学んだ。当時、もっとも影響力が大きかった科学者のひとり、生物学者のトマス・ハクスリーがウィリアムの保証人になってくれたのだ。かれはウィリアムに、拡大レンズを通さなければ見えない単細胞水中細菌の浸滴虫類を研究するように勧めた。

P.383

ウィリアムはまた、タツノオトシゴが音で意思疎通をしていることも、このマンチェスター水族館で発見している。

P.401

最初の球状パールは一九〇七年に二人の日本人科学者によって作られたとされているが、最近の研究では、その技術も、おそらくは真珠そのものも、彼らより先にウィリアム・サヴィル=ケントが開発したものだろうと考えられている。

【関連読書日誌】
【読んだきっかけ】
書店の書評コーナーで発見.大正解の一冊.
【一緒に手に取る本】
ロード・ヒル・ハウス事件の影響を受けた小説を3つ.
『月長石』は,T.S.エリオットをして「英国のすべての探偵小説中,最初にして最高のもの」と言わしめた,とのこと.

月長石 (創元推理文庫 109-1)

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エドウィン・ドルードの謎 (創元推理文庫)

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ねじの回転 (新潮文庫)

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同じ著者によるもの.男装のレズビアンとしてとして有名なジョー・カーステアズの伝記で,1998年サマセット・モーム賞受賞.
ネヴァーランドの女王 (新潮クレスト・ブックス)

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The Suspicions of Mr. Whicher: Or the Murder at Road Hill House (TV Tie-In Edition)

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