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“たった一人でもいい、真剣に、本気で、自分を愛してくれる人がいれば、その人は救われる。それが父や母であればよいけれど、それが叶わないこともあるだろう。” 『死刑の基準―「永山裁判」が遺したもの』 堀川惠子 日本評論社

死刑の基準―「永山裁判」が遺したもの

死刑の基準―「永山裁判」が遺したもの

【読んだきっかけ】から先に述べておこう.2011年2月19日午後に,NHKETV特集・選 『「死刑裁判」 の現場 〜ある検事と死刑囚の44年〜』をたまたまみて引き込まれていった.これは,第314回 2010年5月30日(日)放送のETV特集の再放送である.これがきっかけで,著者の堀川惠子の名前を知った.詳しいいきさつは,“罪を犯すような事態に、自分だけは陥らないと考える人は多いかもしれません。しかし、入生の明暗を分けるその境界線は非常に脆いものです。” 『裁かれた命 死刑囚から届いた手紙』 堀川惠子 講談社に記した.このとき,まだ『裁かれた命』は未刊行で,まず読んだのが本書である.

ちょうど同じ頃,NHKBS
第292回 10月11日(日)死刑囚 永山則夫 〜獄中28年間の対話〜の再放送もあった.

プロローグ(帯より)

永山基準」が生まれた背景には、一人の死刑囚をめぐって、
裁く側と裁かれる側それぞれに、
言葉には言い尽くせないほどの苦悩と重い決断があった。
そして「永山基準」そのものも、運用されていくうちに
本来の意図から乖離し、変節を遂げてきた。
本書は、それら永山裁判の知られざる背景を、
未公開の資料やはじめて重い口を開いてくれた
裁いた側の貴重な証言などからたどっていく。
それは、罪を犯した人間に私たち市民が
どう関わっていくべきなのかという、
根源的な問題を問いかけるものである。

山口県光市母子殺害事件の,終身刑・死刑判決についてマスメディアが異常なまでに騒がしい中,死刑制度のあり方に一石を投じる本.本書のスクープとも言える新しい発見が三つある.一つは,永山の遺品,膨大な書簡類に目を通していること,永山の肉声を録音したテープを発見していること,そして,獄中の永山と結婚し,離婚した和美さんという女性のインタビューを実現したことである.特に,最後和美さんとの会話は,和美さんの生い立ち,永山との交流,現在の平和な生活に至るものであり,それ自体,たいへん大きなものがたりである.

第一章 おいたちから事件まで
P.32

映画監督・新藤兼人さんがみた"貧困"
この時期のことについては、映画監督の新藤兼人さんが詳しい。新藤さんは一九六九年、永山が逮捕されてすぐ、事件をテーマにした映画制作の準備にとりかかった。一九歳の少年が次々と四人を射殺した背景には、きっと何かあると直感したからだそうだ。新藤さんは、映画のシナリオハンティングのため、青森・板柳の永山の実家のすぐ近くに泊まりこみ、長屋に暮らす母・トヨに付き添って出稼ぎにも何度も同行した。
新藤さんは次のように語る。「永山君のお母さんはね、朝一番の列車に乗ってね、板柳はリンゴの町だから、安く仕入れたリンゴを"しょいこ"一杯に背負って青森に出かけて売るんです。それで今度は青森で安い魚を仕入れて、またこちらに持って帰ってきてから売ると。もともと安い品ですから、いくらもうけるということもないんですよ。それはね、本当に貧しい生活でした。僕自身も小さい頃に家が破産して、借金のかたに風呂の壁まではがされて持っていかれて、その辺にある大根をかじって生きるというような貧しい生活をしましたけどね、そんな僕でも見たことがないというほどでした。
お母さんに毎日ついて歩きながらですね、合間をみては質問をしてみるんですけど、まともに返事が返ってこないんですよ。ペラペラしゃべるような人じゃない。相手と語り合う言葉を持っていない。ただ黙々と働くだけ。そういう貧しさのなかで、子どもたちを沢山抱えて生活をしていると。この貧しさは突き詰めていくと社会の仕組みが原因を作っているんだけども、そんなことは一言もいえないわけね。ただ黙って貧乏に耐えることだけが人生観になっているんです。僕もね、そういうお母さんの姿を正面から見てね、覚悟が決まりましたね。社会が生んだ貧しさを一身に背負ったお母さんを通して、永山則夫という"犯罪"をやってみたいと思ったんです。」

第二章 一審「死刑」
P.98

"タカ派中のタカ派"
船田裁判官最初に登場するのは、船田三雄裁判官である。船田裁判官は後に、東京高等裁判所で行われた永山事件控訴審の裁判長となる人物である。船田三雄裁判官は、一九二五年(大正一四年)、山形県寒河江市に、公務員である父の五人兄弟の末っ子として生まれた。東北大学在学中の一九四七年、皆が受けるから何となく受験したという司法試験に一度の挑戦で合格した。
仙台家裁判事補からスタートし、一九六三年から七年にわたって最高裁の調査官を務め、その後、東京高裁判事に就任した。調査官時代に書いた最高裁判例解説の数は抜きんでて多い。まさに、裁判官としてのエリートコース、王道を歩んできたようだ。

第三章 二審「無期懲役
P.118

和美さんは今、日本に暮らしている。二〇〇九年の今年、五四歳になった。私が彼女にはじめて会ったのは、二〇〇九年三月、永山が遺した膨大な書簡をほぼ読み終えてからのことだった。それまではどうしても、彼女に会ってはならないような気がしていた。当時の裁判に携わった関係者からは、彼女は今、幸せな家庭を築き、新しい人生を歩んでいると聞かされていた。
彼女が背負った、余りに重すぎる死刑囚との人生に今さら踏み込んでよいのか、いくら取材とはいえ許されることなのか。正直、怖くもあった。しかし、書簡を読みこむうちに、どうしても避けられないことが分かってきた。

P.122

“どんな個人史も生きていく上で大切なもの”、“絶望があるから生きていく希望もわき出てくる――”。死刑を言い渡された人から届いたこの手紙に、和美さんは、“自分が救われた”と感じたという。

P.138

人は一人では生きていけないといわれる。人とかかわるなかでしか、生きていけない動物である。たった一人でもいい、真剣に、本気で、自分を愛してくれる人がいれば、その人は救われる。それが父や母であればよいけれど、それが叶わないこともあるだろう。

P.146

弁護人は、一審の途中から弁護にあたっていた鈴木淳二弁護士ただ一人になっていた。どうせ死刑になる事件で、金にもならない、気難しい被告人の対応に手間ばかりかかる、やっかいな裁判だと思われていた。他の弁護士は去っていった。
鈴木弁護士は、「誰も弁護しようとしない事件だからこそ、最後の一人である自分は去ってはいけない」と踏ん張っていた。鈴木弁護士の実家は、地元では名の知れた開業医で、何不自由のない裕福な家庭に生まれ育った。その対極にあったのが永山だと思った。だからこそ、自分には彼を弁護する「義務」があるのだという信念を持っていた。しかし、これほどの重大事件で弁護人一人では、現実はとても手がまわらない。弁護団としては体もなさない状態だった。そんな最中、その後タッグを組む大谷恭子弁護士が登場する。

P.153

鈴木・大谷両弁護士はいう。
「正直いって、われわれもこの裁判は、最初から結論ありきといったような感じでもあったんです。永山の主張を貫かせることに意味があるというかね。ところが逆に、船田裁判長の方が、最初から死刑だと決めてつけてこない姿勢に、本当に驚きましたね。それでわれわれ弁護団も、.賭けて見ようか"と思うようになったんです。」
「賭ける」とは、静岡事件を取り上げず、事件の事実認定も争わず、裁判所がいうように、慰籍、つまり、情状をメインに打ち立てる審理にしようということを意味する。
 弁護団にとって、この方針転換には二つの危惧があった。(後略)

P.225

 和美さんは、無期判決が言い渡されたこの日のことを、一生涯、忘れることはないだろうと話す。(かっこ内は引用者)
 「判決が出て、皆さんどんどん席を立っていかれるんです。外にはいっぱいマスコミの人が待機していて、カメラを構えてね。最後に私が法廷から出ていくと、囲まれましてね。でも私、頭を九〇度下げてお願いしたんです。『皆さんもプロのマスコミならどうか遺族の人々の心も分かって下さい。私を撮るのは止めて下さい』ってお願いしました。
生きて罪を償うということは、私たちにとって助かったっていうことじゃなかったんです。命が助かったんではなくって、より重い『ごめんなさい』の始まりだったんです。愛する息子を殺された両親たちのことを思えば、喜ぶなんてできません。無期になったから嬉しいのではなく、生きるということの意味を、どうか分かってほしいという祈りだけしか私にはありませんでした。
淡々と、淡々と与えられた命でしょう。『生きなさい』っていわれたということは、永山則夫の命じゃないですよ。与えてもらった命なのよね。それを一緒に分け合って生きるのだと思えば、何にもいえません。『ごめんなさい』があればあるほど、(船田判決は)大事なんだもの、宝なんだもの。汚したくなかった。遺族の方々に対しても、本当に汚したくなかったの。」
和美さんが単身、アメリカからやってきて、一〇ヶ月が経とうとしていた。

第四章 再び,「死刑」
P.233

当時の雑誌・新聞などに目を通しつつ、私はふと思った。これは、光市母子殺害事件の裁判で、「死刑」か「無期」かを前にしてマスコミがこぞって起こした、あの"死刑コール"の時と重なると。無期懲役判決が最高裁で差し戻され、死刑判決になるくだりも同じ構図だ。

第五章 「永山基準」とは何か
P.299

時を同じくして、世界では死刑廃止に踏み切る国々が登場していた。フランスでは一九世紀末から、死刑事件が起きるたびに死刑の存廃をめぐって何度も議論が起きていたが、世論が根強く死刑を支持していたことから、時の権力者は死刑問題にふれることをタブー視してきた。世論に押される形で、一九〇年間にわたってギロチンによる処刑が続いていた。ところが、船田判決から一ヶ月後の一九八一年九月、フィガロ紙によると国民世論の六割以上が死刑に賛成するなかで、政治決断がなされた。法務大臣死刑廃止法案を提出、国民会議の議決は圧倒的多数で死刑を廃止したのである。廃止の理由には、死刑事件において誤判の可能性が避けられないことや、死刑により犯罪を抑止する効果は望めないことなどがあげられた。

P.303

裁判員制度」の名づけ親でもある東京大学名誉教授の松尾浩也氏は、当時、この最高裁判決をめぐる議論の中で、論文を次のように結んでいる。その結論は、永山事件のみならず、今日にも続く「死刑」をめぐる議論のあり方も示しているように思える。
「死刑事件の全過程には、複雑なものがあるのがむしろ常態である。犯罪行為の場面は、しばしば『残忍』、『冷血』、『凶悪』などの形容詞を伴って語られる。公判の手続では、犯行の状況が再現され、そのもたらした深刻な結果が報告されて、社会的な憤激が再燃するとともに、犯人の同情すべき成育歴、社会環境、心身の状況なども明らかになり、人間的な理解が進行する。死刑が宣告され、やがて確定するに至ると、死に立ち向かう苦悩を通じて、犯人の心境が高められ、ときとしては凡俗をはるかに越えた境地にも達する。そして、ある日『執行』が訪れる。この全過程のどこかにかかわりを持ち、あるいは視線を注ぐかによって、死刑制度に対する人の態度は、全面的な肯定から同じく全面的な否定まで、大きく揺れ動くのである。(中略)本件を契機に、死刑の問題について本格的な議論が始まることが期待される。」
(「ジュリスト」有斐閣・一九八三年九月一五日号〔七九八号〕)

P.310

豊吉氏は最近の死刑判決やマスコミの動向には危惧を感じているという。
「最近ちょっと死刑事件が多いような気がしますね。昔はあまりアンバランスなことはなかったです。誰が裁いてもこれは死刑だというような事件が死刑になっていました。でも最近はちょっと傾向がバラバラですね。無期と思うようなものが死刑になったりしています。やはり裁判というのは制度として誰がやっても、どこで裁いても同じようにならないといけないと思うんです。今の世の中の流れでは、裁判員裁判が始まると死刑が増えるのではないかと心配しています。
マスコミにもきちんと役割を果たしてほしいですね。最近は反対のことが目立つ感じがします。刑事裁判というのはあだ討ちの場ではないのですから、被害者がこういっているから死刑どいうのはね、本来は正面からいうべきことじゃないと思うんです。国家が被害者に代わってあだ討ちをするようなことになってはいけないと思います。」

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