“今こそ、私たちの来し方を振り返り、戦後の再スタートの土台に据えた精神を思いおこすべきだろう” 『チンチン電車と女学生』 堀川惠子, 小笠原信之  日本評論社

チンチン電車と女学生

チンチン電車と女学生

第二次世界大戦前,広島に,「広島電鉄家政女学校」があった.忘れられかけていた幻の女学校を発掘した記録が本書である.広島のチンチン電車の車掌養成学校でもあったこの学校の女学生は,男子が戦争にとられていくなか,在学中から電車の運転を任されるようになる.女学生が運転に奮闘していく過程,そして,原爆投下と,その後の彼女たちの人生を追う.
堀川によるドキュメンタリーを観たり,ノンフィクションを読んだりして強く感じるのは,取材される側と取材する側との関係性である.真実を語ろうとする側と,聞き出そうとする側との間に生まれる緊張感,そして,取材する堀川から取材される側に向けられる視線.そこには,厳しいなかにも人間に対する基本的な信頼,ヒューマニズムと言っても良いものが感じられる.取材の材料との出会いもそうした姿勢から生まれるのかもしれない.
帯から

8時15分、そのとき
路面電車を運転していたのは
十代の少女たちです。
原爆とともに散った幼い命が
今、私たちの心に甦ります。

吉永小百合

男たちは戦場へ行った。
少女たちがチンチン電車を運転した。
そして8月6日の朝がやってきた。
いまよみがえる「チンチン電車被爆秘話」。

第一章 「幻の女学校」との出会い
第二章 広島電鉄家政女学校開校
第三章 女学生運転士の誕生
第四章 青春の日々
第五章 軍都・広島とチンチン電車

 だが、無差別爆撃は米軍の専売特許ではない。その先例は、ほかならぬ日本軍自体にあるのだ。軍事評論家の前田哲男氏こう指摘している。

 人員疎開でこれら都市の民間人を地方に分散・避難させるとともに、建物疎開で空襲にあっても火災が広がないよう密集地の建物を強制的に壊して消防道路や防火帯を作ったのである。

 隣の呉市周辺では空襲がどんどんはげしくなるのと対照的に、広島市にまったく空襲がなかったのには、大きな理由があった。当の米軍が、広島市に対して通常爆撃を禁止する命令を出していたからである。

選定した四市のうち、京都については陸軍長官が強く反対したため、京都が長崎に差し替えられることになった。

第六章 八月六日午後八時十五分
第七章 地獄絵のなかを
第八章 復旧電車が走る

復旧一番電車が走る
そうして、被爆からわずか3日後の八月九日には、己斐―西天満町間のチンチン電車が復旧したのだ。距離にして1・数キロ、電停の数にしてったった四つの間を単線で折り返し運転するだけだったが、驚異的な立ち直りだった。そして、チンチン電車が走る姿は、広島市民に大きなはげましとなった。>>

突然の廃校宣言
九月になって、廃墟となった広島をもう一つ、大災害が襲った。九月十七日の枕崎台風である。

台風の目が通った広島県は,死者1229人に及んだという.

罹災者名簿が語る被爆状況
原爆による広島市の死者は、一九四五年(昭和一〇年)一二月末までで約一四万人と推定される。当時の広島市の全人口が三五万人といわれるので、実に4割が被爆死したことになる。疎開などで広島市を離れていた人がかなりの数にのぼるので、それを割り引くと死亡率はもっと高くなる。

第九章 女学生たちの六〇年

 話を聞いてみなければ、「喫茶店を守っている、ふつうのおばあちゃん」としか見えないことだろう。小さな町の小さな喫茶店で、被爆体験が語られる。だが、日常のこんなありふれた風景のなかでこうした話が聞けるのも、あと何年くらいなのだろう。

 「私、生まれ変わったら、また運転士になりたい。案外簡単なのですよ、電車の運転ってね。」
 この笑顔が、広島のチンチン電車を走らせていたのだ。今七七歳のおばあちゃんが一七歳の少女だったとき、チンチン電車のなかに少女運転士たちの青春があった。そして、原爆がその短い青春を根こそぎ奪ったのだ。〈この笑顔を伝えたい。原爆で奪われたものを伝えなくてはいけない〉。堀川はそう思った。

生き延びたことの意味
 だが,堀川が藤井さんご本人から聞くのをためらっていたことが、一つある。
(略)
藤井さんがテレビ取材に応じ、みずからの思いを語りだした背後には、罪悪感と自責の念があった。

エピローグ

イラク自衛隊を派遣し、憲法九条の改定が政治のテーブルに乗せられようとしている今こそ、私たちの来し方を振り返り、戦後の再スタートの土台に据えた精神を思いおこすべきだろう。「歴史の風化」をけっしてゆるしてはならない。
 闇に埋もれかかった「チンチン電車と女学生」の歴史を掘り起こし、当事者の体験を最大限を最大限リアルに再現し、記録すること。そして、その体験を次の世代にも伝えつづけること―。本書で私たちが意図したことは、その一言に尽きる。

私たちが彼女たちから託された思いを、こんなメッセージにして伝えたい。

もうすぐ「六〇年目の夏」がやってくる。
世界は今なお、暴力と悲しみに覆われている。
でも、どうか忘れないでほしい。
あの日、少女たちが流した涙を。
二度と同じ悲しみをくりかえさないために。

【関連読書日誌】
“私たちは当たり前のように享受しているこの「戦後」を、二度と「戦前」に引き戻してはならない” 『日本の戦争 BC級戦犯 60年目の遺書』 田原総一朗監修 田中日淳編 堀川惠子聞き手 アスコム
“罪を犯すような事態に、自分だけは陥らないと考える人は多いかもしれません。しかし、入生の明暗を分けるその境界線は非常に脆いものです。” 『裁かれた命 死刑囚から届いた手紙』 堀川惠子 講談社
“たった一人でもいい、真剣に、本気で、自分を愛してくれる人がいれば、その人は救われる。それが父や母であればよいけれど、それが叶わないこともあるだろう。” 『死刑の基準―「永山裁判」が遺したもの』 堀川惠子 日本評論社
【読んだきっかけ】
『裁かれた命 死刑囚から届いた手紙』の読書日誌に記したように,NHKのドキュメンタリーをきっかけに堀川惠子の名前を知る.以後,堀川の著作はすべて読む.本書は,その最後に,今春読了.
【一緒に手に取る本】

裁かれた命 死刑囚から届いた手紙

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