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“駆けだしの研究者であったころ、自分の研究の意味と価値を世間に説明するのは無用で不純だと思っていた” 『発見術としての学問――モンテーニュ、デカルト、パスカル』 塩川徹也 岩波書店

発見術としての学問――モンテーニュ、デカルト、パスカル

発見術としての学問――モンテーニュ、デカルト、パスカル

久しぶりに,堅いがっちりとした本と向き合った感がある.
「発見術としての学問」という魅力的なタイトルに惹かれて手に取るわけだが,そもそも文科系の学問において「発見」とはどういうことだろう,というのがそもそも謎であった.
 帯から

なぜ、学問は
面白いのだろう

「考える葦」、
それは自分の考えを
制御できない〈わたし〉のこと。
一語一文の読みかえが、
常識を破り、
知らなかった思想の風景を
発見させる。
「考えること」の達人たちにきく、
いきいきと生きるための発見術。

 これを読んで,モンテーニュパスカルをまじめに読んでみたくなった.「パンセ」とは,パスカルが書き残した断章の集まりで,死後に編纂されたものというのも,恥ずかしながら初めて知る.
目次は,

序章 言葉への愛 ―発見術としての学問―
第一章 モラリストの知恵 ―古典に学ぶ人間学―
第二章 文献学者と知識人 ―日本におけるフランス文学研究―
間奏の章
 『パンセ』を読む
 「レトリックなき哲学者」の美文 ―デカルト二〇歳の未公刊論文の発見―
  アンリ・グイエ先生のこと
 読んだことのない本について考える
 自己充足の夢
第三章 良識はどうして公平に分配されているのか ― bon sens と誤謬論―
 1.問題の所在
 2.モンテーニュの「分別」とデカルトの「良識」
 3.良識と理性
第四章 パスカルにとって〈パンセ〉とはなんであったか
 1.『パンセ』という題名 ―その意味と作者の意図―
 2.〈パンセ〉は人間の尊厳の根拠か ―「考える葦」をめぐって
 3.〈パンセ〉とその担い手
 4.〈パンセ〉の伝達と説得
第五章 ひとは今を生きることができるか
 1.科学の時間と歴史の時間
 2.体験される時間
 3.時間意識の諸相 ―〈賭〉と〈気晴らし〉
あとがき

著者が言うところの「エッセイと研究が互いを支えるハイブリツドな書物」である.だから読み通せたとも言える.パスカルデカルトモンテーニュについては,本書を再読するとして,学問とは何かに関するところから引用.

序章より
p.2

それぞれの学問には、それを修得するために必要な基礎知識とそれを運用する技能、そして目標達成のための手段である方法の複合体―それがディシプリンであろう―があるという見方は、自然科学や社会科学にとっては自明の理であろう。人文学、とくにその中でも文学研究においては、ディシプリンの輪郭と内容が明確でない場合が多いが、それでも職人的な訓練という意味合いでなら、どの学科においてもディシプリンを欠かすことはできない。
しかし翻って、若者がある学問に憧れを抱き、その道を志す地点に立ち戻ってみると、ディシプリン自体の魅力が彼を引きつけることはむしろ少ないのではないか。未来の数学者を夢見る少年は、未解決の―もっとも解決されてしまったらしいが―〈フェルマーの大定理〉や、決闘で
命を落とす前の晩に友人に宛てて自らの発見を書き送ったガロアの話に胸を躍らせたことがきっとあるに違いない。学問の出発点には、たいていの場合、探究の対象となる問題やテーマ、興味あるいは崇拝の対象となる人間、さらには感動の源泉となる作品等、漠然としてはいても、手触りの感じられる〈やりたいこと〉があるのではないか。それに比べれば、ディシプリンはむしろ〈やりたいこと〉の実現を可能にする手段の側面が強いことは否定できないだろう。
ただし、〈やりたいこと〉とディシプリンの関係は一筋縄ではいかない。あらかじめ関係が予測できて、その予測が的中するのは、むしろ幸福な例外ではあるまいか。いかなる研究も結局は同じことかもしれないが、とにかくパスカル研究は、その点、複雑で困難な事情を抱えている。

P.7

しかしそれが〈言葉への愛〉に促されて、ある人間の体験と思想を、彼の書き残したテクストに即してよみがえらせようとする試みである限り、文献学は、他者としての他者の尊重、端的にいえば他者への愛に通じている。対象への愛情なしに、いったいだれが、残されたテクストを書き手の意図に寄りそって読み解くなどという七面倒くさい作業を続けられるだろう。だがその結果、よみがえったかに見えた対象のメッセージは、しばしば読み手の意表を突く。自分に引き寄せて、愛していたつもりの対象が、異形の姿を現すのである。それが対象に対する興味を失わせることもあろう。しかし他者のうちに自分と同質のものしか読みとらない愛情、いわば自分を投影するに過ぎない愛情は、研究においても、トートロジーしか生み出さない。対象に対する違和感は、愛情と並んで文献学のもう一つの原動力なのである。しかし翻って考えてみれば、愛情と違和感は、だれにでも身に覚えのある表裏一体の感情ではないか。この意味で文献学は、その対象領域においても、またその動機においても、万入に関わる普遍的な営みなのである。

第二章 文献学者と知識人 ―日本におけるフランス文学研究― より
P.33

次に、わが国のフランス文学研究者は何をしているのでしょうか。この問いは、日本で行われているフランス文学研究がいかなるものであるか、という問いに帰着します。ここでまず注意していただきたいのは、わが国には二種類のフランス文学研究が共存しており、それが相亙にまったく異質なことです。

P.36

わが国のユマニスト的なフランス文学研究者たちは文献学に強い愛と尊敬を抱いていますが、その起源はおそらく江戸時代に発達した漢学つまり中国古典学の伝統のうちにあるように思われます。

P.41

もう一つ付け加えれば、二種類のフランス文学研究は通約不可能であり、文献学的なフランス文学研究は文学テクストのレトリック的側面を捨象してコミュニケーションを拒んでいる、という本章の主張はあまりに悲観的だという批判が、発表の当初から寄せられた。それは甘受せざるを得ないが、一見自閉的な日本のフランス文学研究のありかたを説明し擁護する本章は、フランスばかりでなく世界各国の研究者を前にフランス語で行われた口頭発表、すなわち弁論に基づいている。そのかぎりで本章は、レトリックのジャンルに属するテクストなのである。

あとがき,より

 駆けだしの研究者であったころ、自分の研究の意味と価値を世間に説明するのは無用で不純だと思っていた。高校時代にパスカルを読んで心を揺さぶられ、研究を志したときには、古めかしい言い方をすれば、人生観上の煩悶があったはずだが、大学院の途中でフランスに留学してみると、本場のパスカル研究は建築中の大伽藍にも比すべき学問であった。そこで要求されるのは石積みに参加することであり、そのためには、これまでの研究では何が未解決の問題であるかを、学習を通じて理解し、その解明に力を注ぐことであった。最初は外国人にそんなことができるかどうか半信半疑であったが、おのれの普遍性を確信するフランス文化は、それが外国人に原理的に閉ざされているとは考えない。現実のハンディキャップはとてつもなく大きかったが、ささやかな発見があれば、それは石組みの要素として受け入れられた。発見が人文学においても重要な役割を果たすことに目覚め、学問の醍醐味を味わった。
 こうして学問の内部に身を置いているかぎり、研究の意味と価値を問う必要はないし、また問わないほうが、円滑に研究を進めることができる。しかし日本に帰って、自分の研究成果を日本の学界に披露し始めてつくづく感じたのは、学問上の業績はそれぞれのディシプリンの体系と現況を背景として初めて意味と価値をもつのであり、それだけを切り離しては価値を主張できないことであった。

【関連ブログ】
著者の言う「日本には二種類のフランス文学研究がある」というのは,かつて,加藤恭子氏が,アメリカの大学では,フランス文学の授業がフランス語で行われていることに驚き,中島義道氏が,ウイーンの日本文学教授の完璧な日本語会話力に驚いたこととも関係があろう.
“過去五十年、欧米人と議論や口論になった場面で、私は負けたことがない” 『言葉でたたかう技術』 加藤 恭子 文藝春秋
“問題は、その完璧な会話能力である” 『ウィーン愛憎―ヨーロッパ精神との格闘  (中公新書)』 中島義道 中央公論社
【読んだきっかけ】
京都駅の本屋にて.7月末,金沢行き特急の中で立ち読み.
【一緒に手に取る本】

パンセ〈1〉 (中公クラシックス)

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エセー〈1〉人間とはなにか (中公クラシックス)

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モンテーニュエセー抄 (大人の本棚)

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