“歴史をみれば明らかだが、つねに新しい世代が思わぬ展開を拓くのである。だから受け継ぐべきは学説でぱなく、精神なのである。” 『職業としての科学 (岩波新書)』 佐藤文隆 岩波書店
- 作者: 佐藤文隆
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2011/01/21
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社会と科学技術とをつなぐごと,そのこと自体の重要性は,もう何十年も前から言われ続けていることではあるが,限られた市民運動の中に留まってしまっていた.昨今,あらためて,社会と科学技術を仲介するための活動,あるいは,専門家とマスメディアをつなぐための仕掛け作り,などが盛んになりつつあり,こうした中から若い専門家が育ってくるのを待ちたい.
本書を通じて議論されるべきことはあまりに多く,また議論のために準備しておくべきことも多岐にわたろう.以下の引用は,あくまでも個人的な理由によって選んだごく一部である.
前書きより
「職業としての」科学,と聞いて考えられる3つの反応
- 科学は主体的な活動であって,サラリーをもうらうために他からいわれた作業をやっているのではない
- 薬害や環境問題など,科学の影響はまわりにまわって必ず社会に及ぶのだから,世の中のまっとうな職業として完結するようにしてほしい
- (近年,科学者への道に入った人たちの)職業の選択しとしてはあまりにリスキーだ
マックス・ウェーバーが第一次大戦後の混沌とした世情に翻弄される若者に向かって語った『職業としての学問』の論点と、「職業としての科学」のそれとは、重なる点も重ならない点もある。この関係には第3章でふれるが、ウェーバーのポイントを一言でいえば、学問を自己の魂の救済と重ねて群がる若者に対して、管制として制度化された大学の学問はそういうものではないと冷水を浴びせたものである。
興味も関心もない者まで「巻き込まれる」科学の強力な威光とは、生活・兼好への影響だけでなく、新技術による産業構造転換の駆動力をもつゆえである。光子やDNAが、発見から数十年でビジネス界を破壊的に革新したように、まったくの知的興味を動機として得られた科学の知識も巨大な威力をもちうることを、二十世紀は演出してみせた。
この経験はまた,「基礎/応用」「役立つ/役立たない」などという区別は単に,「何年のスケール(尺度)では」という条件の差にすぎないことを痛感させる。
現在、日本の科学技術はすでに巨大な社会的資源である。科学技術の世界はもともと専門家の自治に任されていたから、この公共財が本来もつべき社会的役割と、そこに従事する専門家の気風や精神との間には、さまざまな乖離が生じている。
本書の考察は、理念的というよりは、ひたすら歴史に執着する。その理由の一つは、科学をメタ理論的に論じようとした試みが必ずしも成功していないとみるからである。もう一つの理由は、制度としての科学はまだ若々しい過疎的な段階にあると考えるからである。
第1章 転換期にある科学という制度
第2章 知的自由としての科学―啓蒙・ロマン・専門
P.31
啓蒙からロマンへ
貴族や政治家といった既成権威のパトロンの傘のもとで発足した第二段階初期の科学が、単純に拡大して第三段階の科学に飛躍したのではない。十八世紀末から十九世紀初めにかけての西欧社会の文化動向を支配したロマン主義が、科学や技術の発見・発明と共鳴した時期の存在を見落としてはならない。パトロンから、新しく社会の表舞台に登場した市民層に科学が飛び火したのである。
ロマン主義科学は、科学上の新知識や行為を追究する人々を英雄視したり、自然の活力と科学の知識でつながろうとする思潮を生み出したことで、増加しつつあった“知識を生みだす人”たちの存在を大衆的に顕在化させた。
王立協会発足時の第二段階初期が、開明的な支配層を取り込みつつ、知の世界での脱宗教を掲げ、新思想の担い手として科学が活動した啓蒙時代であったとすれば、第二段階後期のロマン主義科学は、民衆に科学の時代の到来を体感的に知らせたのである。
第3章 科学者精神とはーマッハ対プランク
P.78
すなわち「役立つ」とは、普遍的、統一論的、数学的、……といった特性を必然的に要請するので、それを「自然の美」に求める合理論と結果的には同じになる。ただし合理論ではそれは「そうである」からなのであり、経験論では「そうなると便利」という目標の結果である。
P.79
それに対して経験論では、発見、発明、工作といった創造はすべて人間のなす業である。立派な業をなすために、身体も脳も含めて人間を磨く必要がある、というのが西洋文明に受け継がれている「ギリシャ的」の意味合いである。合理論では知識発見は窮極に達して終結するが、経験論では芸術や工芸の創造のように終わりはない。経験論を「聖地の明け渡し」のように受け取るのは、人間という存在の見方が貧しいのだと思う。
P.83
初等中等教育だけでなく高等教育においても、あるいは市民教育においても、科学の教育とは単に科学の成果や業界の情報を覚えることではない。筆者は事あるごとに昔から「宇宙がビッグバシではじまったなどという知識は二束三文の価値もない」といっている。「価値があるのはなぜそう考えられているか」である。自分の頭での推論が肪に落ちる科学知識にこそ意味があるのである。
第4章 制度科学のエートス
第5章 理の系譜―日本文化の中の科学
第6章 知的爽快―国家・教育・アカウンタビリティ
第7章 科学制度の規模―食っていけるのは何人か
P.180
科学技術界の意味の拡大を
「飽和」や「天井感」をいいだすと、すぐに産児制限的な適正な数という議論を連想されるかもしれないが、本書で筆者が思考を広げようとしている「職業としての科学」というのは、数の制限ではなく、意味の拡大である。
第8章 科学技術エンタープライズで雇用拡大を
P.195
現代では、「そんな片手間では専門的に深まらない」と職業的専門家から一蹴されそうだが、次のような二つのことを想起する必要がある。一つは研究のある部分の処理を自動的に行う便利なツールが揃うと、このブラックボックスをマッハの思惟経済的に使いこなすことで、かけもち人間の研究処理力向上になる。もう一つは、こちらがより重要だが、かけもち人間は職業的専門家にない問題意識をもっていることである。「自然の知識」といっても「人間社会にとっての自然の知識」であって、自然と向き合うだけで得られるものではないからである。
P.203
持続可能な継承
科学技術エンタープライズに大事なことは、科学や技術に取り組む精神を次世代に受け継ぐことである。過去半世紀の、研究をめぐる環境変化の奔流の中、研究者はゴールを自分の生涯に合わせて考える習性に囚われている。しかし、歴史をみれば明らかだが、つねに新しい世代が思わぬ展開を拓くのである。だから受け継ぐべきは学説でぱなく、精神なのである。
P.214
研究の話になると急に天才が生きていくための制度が語られるが、科学の制度は常人の職業として持続可能であることが肝要なのである。天才には制度論などは不要なのである。
【関連読書日誌】
“科学(者)への信頼は,何が確実に言えて,何が言えないか,それを科学者自身が明確に述べるところに成り立つといえる。科学とは,まずなによりも《限界》の知であるはずである” 『見えないもの,そして見えているのにだれも見ていないもの』 鷲田清一 科学 2011年 07月号 岩波書店
“科学技術が社会に深く組み込まれるようになった現在,科学が不確実な知識しか生み出せず,しかも価値観が関与し,社会的意思決定が求められるような事例が増えている” 『みんんが選ぶ1冊』 「科学技術と社会の相互作用」 第2回シンポジウム配付資料 (1/4)
【読んだきっかけ】
2011年春のある会合で,N先生から「これなかなか面白いですよ」と薦められる.私は,鷲田先生「科学」の小文を話題にした.すると反対側のS先生が,私は今これを読んでいるんですといって,鞄の中からウェーバーの「職業としての科学」の拡大コピーが出てきた!
【一緒に手に取る本】
- 作者: マックスウェーバー,Max Weber,尾高邦雄
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- 発売日: 1980/11
- メディア: 文庫
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- 作者: カール・J.シンダーマン,山崎昶
- 出版社/メーカー: 学会出版センター
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- メディア: 単行本
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- 作者: カール・J.シンダーマン,山本祐靖,小林俊一
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