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“反省すべきは、「個の人々の痛みに寄り添うべきだった」などということではない。むしろ、科学がそのようなことは担えないということを再認識すべきであり、ヒューマニズムの衣装を纏うことこそ有害であることを知るべきだ” 『私たちはどのような未来を選ぶのか』 八代嘉美 in 『思想地図β vol.2』 東浩紀 他 コンテクチュアズ

思想地図β vol.2 震災以後

思想地図β vol.2 震災以後

東浩紀編集の『思想地図β vol.2』で,八代嘉美を知る.私自身の科学感と極めて近く,強い共感を覚える.
現状の,昨今の,科学コミュニケーションに対する批判から始まる.特に,震災以降,一部で批判があるらしい.

インターネット上では科学コミュニケーション、それを担う科学コミュニケーターと呼ばれる人々に対する違和感が随所で聞こえはじめていた。いままでにこやかに「楽しい科学」「美しい科学」「役立つ科学」を宣伝していた科学コミュニケーターは、いったいどこにいったのか。

STS科学技術社会論)が学会ができましたね.科学技術社会論学会.こうした分野の研究者が増えれば学会という社会システムを作るのは当然の流れだとは思うのですが,自らを専門化してしまうという矛盾をはらんでいるようにも感じます.つまり,STSの専門家と非専門家をつなぐ人が必要?
 「科学コミュニケーションとはなんだったのか」では,その起源から

一九八五年に王立協会のボドマー委員会が「科学の公衆理解(Public Understanding of Science: PUS)という報告書をまとめ、科学の啓蒙活動、いわゆる科学コミュニケーションの取り組みの必要性を指摘したことにある。

イギリスにおけるサイエンスカフェとは,BSE問題を背景に,科学にとってネガティブな状況で敢えて出て行く行為だったのに,振り返って日本の「科学コミュニケーション」はどうだったか,と問う.現代思想2011年12月号における,『ポスト・ノーマル・サイエンスによる「科学者の社会的責任』(塚原東吾)や,『科学技術「社会」論の新自由主義的偏向 科学技術論の再建に向けて』(木原英逸)も合わせ読みたいところ.
仕分けと,科学者によるそれに対する反対キャンペーンについて

科学がいかに有用なのか、科学縮減という方針を打ち出した政府の判断が短慮であるかを説き、縮減幅を削減させるキャンペーンを張った。(中略)
 事業仕分けという手段は科学予算にはそぐわないという意見もあったが、日本において初めて(粗雑ではあったが)非専門家による科学に対する「ガバナンス」が行使されたと考えることもできる。だが、その萌芽を刈り取ろうとするかのようなキャンペーンであり、筆者は一貫して批判的な立場を取ってきたし、現在もそれは変わらない。

八代氏のこの行動は勇気がいるものだろう.
 「科学という方法の限界」

 実際に研究に関わるものは、先端の科学に「正解」と言われるものはないことを知っている。存在するのは、その時点で、最も合理的に説明できる「共通理解」でしかなく、その理解も反証が出現すれば覆るのである。

この,「研究者」にとってはあたりまえのことが,実は,研究分野や,研究の種類(質)によっては,必ずしもあたりまえではない.というか,リアリティに粒度がことなる.さらに,今回の震災は,このあたりまえのことを,一般の人も知っておくべきである,というこれもあたりまえのことが明らかになった,

科学コミュニケーションが反省すべきは、「個の人々の痛みに寄り添うべきだった」などということではない。むしろ、科学がそのようなことは担えないということを再認識すべきであり、ヒューマニズムの衣装を纏うことこそ有害であることを知るべきだ。

 本稿で,私とって発見だったのは,中谷宇吉からの引用である.
 さらに,本稿では,サイエンス・メディア・センターの活動,北海道大学のCoSTEPというプログラムにも触れている.
 最終章「幼年期の終わり」では,

 科学コミュニケーションが反省すべきは、「個の人々の痛みに寄り添うべきだった」などということではない。むしろ、科学がそのようなことは担えないということを再認識すべきであり、ヒューマニズムの衣装を纏うことこそ有害であることを知るべきだ。一般社会からの信頼を再構築したいと望むならば、むしろ科学の限界を包み隠さず社会に提示する冷徹な役回りを演じなければならない。

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