“とるに足らぬ人生などというものは存在しない。ただ照明が当てられるかどうかが問題なのだ。あの日、照明器具は、一九四一年同様、不良品だった。” 『密告』 ピエールア・スリーヌ 白井成雄訳 作品社

密告

密告

これは小説.そういう意味では,フィクションだが,自身の驚くべき体験を,そのままでは語れないが故に,小説という形をとっただけであって,実質的にはドキュメンタリーに近い.家族や民族の経験したあまりに悲惨な体験は,その悲惨さ故に,1世代,1世代過ぎても,容易に触れることができないことがある.当事者,あるいはそれに近いから,と言う場合もあるし,第三者であっても容易には触れられない.時間をかけて世代をまたいで,浄化していくのかもしれない.これは,放射能の除染に似ているかも.
見返しから

ある日偶然,著者は、
自分の親戚一家をアウシュビッツに送り込んだ
「密告」の手紙を発見した。
それを書いたのは、
近所の人のよい老婦人だった…
    ◎
真実を追い求め世界で高い評価を得ている伝記作家が、
ノンフィクションとしては書けない事実にぶつかってしまった。
そして、初めて小説として書き上げたのが本書である。
舞台は、パリ15区の一角。
3軒の商店と1軒のビストロ、そして教会と1台のバスの中だけ。
彼の追究は、占領下パリの「亡霊」を呼び起こし、
平安に暮らす人々の過去の傷口をえぐりだしてゆく…

日本の読者の皆さんへ,より

 過去つてみると、ドゴール派の歴史書が、フラソス人はみなレジスタンスに参加したと信じ込ませた時代がありました。ついで映画『悲しみと哀れみ』[マルセル・オフュルス監督、一九七一年、ヴィシー時代に何があったのかを、仏中部の都市の市民の証言をまとめたドキュメンタリー映画、フランス人の対独協力の実態が明らかにされ、レジスタンス神話を崩すきっかけになった。]の時代が来て、全員が「対独協力者」だったということになりました。こうした両極端を体験したおかげで、現在、私たちは。バランスの取れた状況に到達しつつあります。歴史がこのバランスを保つように作用するだろう、と私は思っています。

p.57

自分を顧みて、眠れない夜が幾日もつづいた。ある朝、私は伝記作家であることを恥じた。自分のぶしつけを恥じた。もの書きであるという信用を利用して、証言者のもとを訪ね、彼らが決して明かすまいと誓っていた想い出を盗み出すことを恥じた。たとえ、より大事な真実のためとはいえ、彼らの信頼を裏切ったことを恥じた。個人の記録資料に介入し、彼らの私生活の細かい嚢のなかに分け入ることを可能にした、忍耐と駆け引きの入り交じった、熟練のテクニックを恥じた。関係者の意見を聞くこともなく、家族の秘密を分け持つことを恥じた。この警官と密告者の手口を恥じた。汚物を探しまわる精神こそ一流の伝記作者の隠れた美徳なのだと、いつも確認していたことを恥じた。ごみ箱に手を突っ込み、そこからわずかな手懸かりを引き出して逸楽を感じることを恥じた。プライヴェートな病気を詳細に記入してある医者の処方箋、貧乏人のはった見栄を打ち消す銀行口座の明細表、処分されてしかるべきだったラブレター、解読されることなど予想だにしていなかった草稿類、こうしたものを読むことを恥じた。これらすべてが実りをもたらす方法だと思っていたことを恥じた。他人の過去ばかりを語って自分の過去は言挙げしないことを恥じた。他人の人生を自分の人生の飯の種にしていることを恥じた。自分自身を恥じた。
(中略)
 私は“悪の本性”というものに大いに関心があります。他人からこうむった悪と、自分の犯した悪を区別する哲学者たちは、ポール・リクール[一九一三年生まれ、現代フランスを代表する哲学者。代表作の一つ「意思の哲学」の中で「悪の象徴論」を論じている。]のように、同一人物の中に悪のこの二つの側面を同時に見出すことは稀だと考えています。その意味では、本書に出てくる女性は例外的存在でしょう。ほかの登場人物に関して言えば、私の関心を惹くのは、彼らに見られるジレンマであり,曖昧さです。

P.77

もし彼らの倫理が、ときどきの利害に応じて変わるようなものでなければ、ボイコットすべきは個々の商品ではなく、フランス全体であろう。なぜなら根本のところで彼らが恨んでいたのは、まさしくフラソスそれ自体だったのだから。少なくとも、ヒトラーのドイッは常に旗色を鮮明にしていた。ヒトラー・ドイッに裏切られたわけではなかった。そうではなく、フラソス国家が共和制を棚上げにしてしまって、誰にも予告しないで、魂を悪魔に売り渡したのだ。

P.125

時代の風潮というものは、あらゆる問題にかんして、コソセンサスから生まれるものであるが、あの頃の時代の風潮は、戦争中の問題にかんし、彼らの及び腰を助長するものだった。けれど、彼ら一人ひとりの人生と言えども、やはり伝記を書かれるに値いするものなのだ。とるに足らぬ人生などというものは存在しない。ただ照明が当てられるかどうかが問題なのだ。あの日、照明器具は、一九四一年同様、不良品だった。

訳者あとがきは,この時の時代背景を知る上で大変参考になる.
訳者あとがき,より

だが、そうした主張を声高にする者のうちには、遅れてレジスタソスに参加したうしろめたさから、「自分の身の潔白を証明するために、密告者を告発する」ことに人一倍躍起となった者も混じっていたのである。

またこの悲劇をユダヤ人独自の悲劇とはせず、これを普遍化して捉えようとするグリュンベールやアスリーヌの意識であるが、ここには戦後世代のユダヤ系作家が、親の世代の悲劇を正しく記憶伝達することは基本的に当然としながらも、この悲劇に寄りかかる形で、あるいは囚われる形で生きることを拒否している面があるのかもしれない。

だがこの「一般化・普遍化」の問題で想い出されるのは、アルベール・メンミがその名著『あるユダヤ人の肖像』(一九六二年作。法政大学出版局)、『ユダヤ人の解放』(邦題『イスラエルの神話』一九六八年作。新評論)で繰り返し熱っぽく説いているところである。メンミによれば、数千年の抑圧の歴史を持つユダヤ人は、己れに加えられた抑圧を己れの名において告発する伝統を持たず、その抑圧を一般化・普遍化する形でしか口にしえないのだという。戦後の新しい世代のユダヤ人にも、こうした悲劇の歴史の名残りをなおも見るべきなのであろうか。われわれには容易に口出しできない複雑さを秘めている問題であろう。

なお、このやっかいな問題に取り組むにあたって、アスリーヌは初めて己れの仮面を脱ぎ捨て、自己が傷つくことを顧みなかった。『レクスプレス』誌は次のように述べている。「シムノン、ガリマールなどについて、じつに見事に物語ってくれた著者にとって、他者の過去を解明することは、自分の過去を明かさない一つの方法であった。密度の高い心理的スリラーである『密告』において、他者の調査は、悪魔のようなブーメラン効果により、自己への探求となる。作者も仮面を脱がざるを得ず、初めて自己を曝けだすのだが、その姿は強迫観念に取り愚かれた狂気の状態と境を接している」。そしてこのような危険を犯したからこそ、先の「ピエール・アスリーヌは傷つき、ひとまわり大きくなってそこから帰還した」との評も生まれるのであろう。

【関連読書日誌】

【読んだきっかけ】
2000年の2刷りを購入している.動機は不明.当時すぐに読んだ本.
【一緒に手に取る本】

カーンワイラー―画商・出版人・作家

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ガストン・ガリマール―フランス出版の半世紀

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上記の他にも,伝記作家として,フランス航空機産業の育ての親『マルセル・ダッソー』,20世紀フランス出版界の王者『ガストン・ガリマール』,ヴィシー政府首相のラヴァルの右腕として活躍し,戦後のフランス政財界においても隠然たる実力を持っていた『ジャン・ジャルダン』,現代絵画の世界を裏から支え,支配し続けた大画商『カーンワイラー』,今世紀前半のもっとも著名なジャーナリスト『アルベール・ロンドル』,推理作家『シムノン』,漫画主人公タンタンの生みの親『エルジェ』フォトジャーナリスト『カルチェ・ブレッソン』などの著作があるとのこと.最後のものは翻訳が出れば読んでみたい.
ウィキペディア革命―そこで何が起きているのか?

ウィキペディア革命―そこで何が起きているのか?

  • 作者: ピエールアスリーヌ,フロランスオクリ,ベアトリスロマン=アマ,デルフィーヌスーラ,ピエールグルデン,Pierre Assouline,B´eatrice Roman‐Amat,Delphine Soulas,Florence O’Kelly,Pierre Gourdain,佐々木勉
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2008/07/25
  • メディア: 単行本
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このアスリーヌも同一人物か.