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“むしろ専門的知識や技能を棚上げにして、現場に身をさらすこと。そのときに初めて、付き添いさんの知恵というか、眼力の要となるところがおぼろげながらも見えてきます” 『語りきれないこと 危機と傷みの哲学  (角川oneテーマ21) 』 鷲田清一 角川学芸出版

語りきれないこと  危機と傷みの哲学 (角川oneテーマ21)

語りきれないこと 危機と傷みの哲学 (角川oneテーマ21)

震災後に出版された,鷲田清一氏による書物である.哲学者である鷲田氏の深い思いがつづられていて,心に染みる文章.多くのことを考えさせられる.

はじめに――区切りなきままに

この国を覆いつくすことになるでしょう。分散してゆく復興の動きのなかで、人びとが支えあう」心を再確認するために、この日付をあらためて心に刻むことはもちろん意味があります。けれども、その日を「記念」することで逆にこの苦難の意味がすり減ってしまうことはないか、そのことも併せ考えておかねばならないと思います。日々、被災地の人たちに区切りもつかずにのしかかる苦労から眼を離さないために、です。
 このたびの震災を機に、一七年前に阪神・淡路大震災に襲われた関西でも、少なからぬ人たちが激しいフラッシュパックを経験しました。からだは忘れていなかったのです。「日付とは一個の傷の経験であり、しかしこの傷はいわば経験の後に訪れる:::」。かつてジヤツク・デリダはそう語りました。被災地の人たちのからだの奥で疹いたままのこの傷、この苦痛の経験が、やがて納得のゆく言葉でかさぶたのように被われる日まで、からだの記憶は消えることはないでしょうし、また消そうとしてはならないと、つよく思います。
 震災で、津波で、原発事故で、家族を、職場を、そして故郷を奪われた人たちは、これまでおのが人生のそのまわりにとりまとめてきた軸とでも言うべきものを失い、自己の生存について一から語りなおすことを迫られています。語りなおしとは、じぶんのこれまでの経験をこれまでとは違う糸で縫いなおすということです。縫いなおせば柄も変わります。
 感情を縫いなおすのですから、針のその一刺し一刺しが、ちりちりと、ずきずきと痛むにちがいありません。被災地外の場所で、個々のわたしたちがしなければならないことは、まずはそういう語りなおしの過程に思いをはせつづけること、出来事の「記念」ではなく、きつい痛みをともなう癒えのプロセスを、そのプロセスとおなじく区切りなく「祈念」しつづけることだろうと思います。

目次は以下.本書の心がよくわかる.

はじめに―区切りなさままに
第1章 「語りなおす」ということ 語りきれないもののために
心のクッション?
「まちが突然、開いた」
語りにくさ
〈隔たり〉の増幅
〈物語〉としての自己
〈わたし〉という物語の核心(コア)をなすもの
断ち切られたアイデンティティ
傷を負いなおす
語りなおしと、その「伴走者」
語りは、訥々と
語りを奪わず、ひたすら待つこと
痛みに寄り添う日本語
「お逮夜」という喪の仕事
「死者」として生まれる
なぜわたしが生き延びたのか
理解することと、納得することの違い
時聞をあげる、ということ

第2章 命の世話 価値の遠近法
求められる、もう一つの語りなおし
危機の信号
決められないわたしたち
無力化された都市
消費の町
「命の世話」の仕組みが消えた?
快適さ(アメニテイ)の畏
労働なき町を語りなおす
ベッドタウンの中の子どもたち
絶対になくしてはならないものを見分ける
言葉は心の繊維
言葉の環境
聴くことの、もう一つの困難回
やわらかく壊れる?
ケアの断片が編みこまれた場所
幸福への問い

第3章 言葉の世話 「明日」の臨床哲学
見えないことが多すぎて
特殊な素人
見えているのに見てこなかったこと
「不寝番」の不在
倫理を問うことが倫理を遠ざける?
トランスサイエンスの時代
言葉を品定めする
口下手の信用
「自由作文」の罪?
対話の言葉、デイベートの言葉
テクストとテクスチャ
文化としてのコミュニケーション
コミュニケーションの二つの作法
カフェという集い
パブリック・オピニオンとポピュラー-センチメント
模擬患者という試み
コミュニケーション圏
コミュニケーションの場を聞くコミュニケーション
いまもとめられる対話のかたち
ワークショップは不安定でよい
インターデイペンデンス
よきフォロワーであること
責任という言葉
現場へ
哲学を汲みとる
前知性的知性
価値判断をわたしたちの手に

むすび―寄り添い、語リなおしを待つ

P.15 心のクッション

「戦地にも日常は訪れる」という文章をかつて読んだことがあります。が、それは自己の内に籠もる空間、あるいは時間があってこその話です。身を丸める、身を閉ざす、そういう〈内部〉を確保できなければ、人の害在は支点を失って、ばらけてしまいます。トイレ、寝床の問題をはじめ、避難所での生活の酷薄さも、実はそこにあったと思います。

P.27 〈物語〉としての自己

 わたしたちは誰しもが、わたしはこういう人間だという、じぶんで納得できるストーリーでみずからを組み立てています。精神科医R・D・レインが言ったように、アイデンティティとは、じぶんがじぶんに語って聞かせるストーリーのことです。
 人生というのは、ストーリーとしてのアイデンティティをじぶんに向けてたえず語りつづけ、語りなおしていくプロセスだと言える。途中でひどいダメージを受けてそれまでのストーリーが壊れるということは、人生には一度ならずある。

P.31 断ち切られたアイデンティティ 家族,家,職

子どもの場合は、とくにきつい。大人の場合なら、職業という軸が失われでも時聞はかかるけれどもまた別の仕事を新たな軸として、作っていくこともできる。しかし震災孤児の場合、ストーリーの軸とプロットをじっくり組み立てていくその前に、その最終基盤となるはずのアイデンティティを損なわれてしまったわけです。親と語り合うなかでじぶんをかたちづくっていくのがストーリーの出発点なのに、そこが十分にできていないところで、関係が断ち切られてしまった。

P.35 語りは、訥々と

震災直後の、わたしとしては最後になる大阪大学の卒業式の式辞で中井久夫さんの「コプレゼンス」という一言葉をひいてその話をしました。じっと見守ってくれる人がいる、案じてくれているという感覚は、一番の支えになる。
 けれども「がんばって」という言葉は、逆境のなかで挫けてなるものかとみずからを叱咤している人びとを後押しする言葉にはなりえても、時とともにいよいよ厚く重くのしかかる困難に、息も絶え絶えとなって、立っているだけで精いっぱいといった状況にある人には、むしろ苛酷なものとなります。

P.82 絶対になくしてはならないものを見分ける

 よく言うのですが、わたしは「教養」や「民度」ということについて、次のように考えています。なにかに直面したとき、それを以下の四つのカテゴリーのいずれかに適切に配置できる能力を備えているということです。まず、絶対に手放してはいけないもの、見失ってはいけないもの。二番目に、あったらいい、あるいはあってもいいけど、なくてもいいもの。三番目に、端的になくていいもの。なくていいのに、商売になるからあふれでいるもの。そして最後に、絶対にあってはならないこと。繰り返すと、絶対になければいけないものと、あったらいいけどなくてもいいものと、端的になくていいものと、あってはならないこと。いろんな社会的な出来事や人物に触れたときに、大体でいいから、この四つのカテゴリーに仕分けすることができているというのが、教養がある、あるいは民度が高い、ということなのです。わたしはこれを経済学者の猪木武徳さんにならって「価値の遠近法」と呼びたいのですが、本当の意味での市民としての教養とはそういうことで、そ
れが市民性があるということだと思うんです。

P.90  聴くことの、もう一つの困難
>>
 ケアというのは、コミュニケーションとしてはとても変則的で異様なものなのです。語る側は訥々としゃべる。長い沈黙による中断を挟みながら、語り切ろうとする。聴く方は、ひたすら黙って聴いている。励ましてもいけない。じぶんの方から代わりに語ってもいけない。「そうなんですね。そんなふうに思うのですね」と、ただただボールを受けることだけをする。<< 
P.100 幸福への問い

 本当に大事なことだけれど、このことを考え続けていたら、語りなおしができないから、あえて考えてはいけないこと、忘れないといけない事柄があるんです。それを教わったのは、河瀬直美さんの映画『沙羅双樹』からです。この映画には、ある日突然、子どもの姿が見えなくなったお父さんが出てきます。この人は“神隠し”だと思っているのですが、一人になったときに、「忘れていいことと、忘れたらあかんこと。それから、忘れなあかんこと」と、ぼそっとつぶやきました。頭を殴られるような思いがしました。四分法の遠近法なんていう単純なものではない。絶対大事なんだけれども、忘れないといけないことも、人間にはあるということです。
 ついでにといえばなんですが、幸福については、寺山修司が年配の風俗嬢の言葉として書いたこんな台詞を紹介します。
「ひとりで幸福になろうとしてもそれは無理よ」

P.104 見えないととが多すぎて

 驚愕ものだったのは、ニュース番組ですらすら解説している学者たちが説明の根拠にしているデータが、じつは、素人であるわたしたちにメディアをつうじて知らされているデータと同じだったということです。プロと呼ばれる人たちは、わたしたちには解読できないようなすごいデ1タを持っていて、それを分析して解説してくれるのかと思っていたら、テレビ局のアナウンサーとコメンテーターが同じデータをもとに推論し、解説していた。これにはほんとうに驚きました。

P.110  特殊な素人

 専門科学者は、他領域の科学研究、さらには社会生活の他の領域について科学的な物言いをなしえない人、つまりは「特殊な素人」(小林博司)でもあるからです。

P.115 倫理を問うことが倫理を遠ざける?

が、これが一つの指針もしくは法律として定着してしまうと、先端医療技術者の内面で「このことで、失われゆく一つの命が救われるのだからやむをえず」という苦渋はしだいに薄まって、「指針に植われているのだから問題はない」というふうに、その行為から「責めを負う」という意識が免除され、倫理について無感覚になってしまいかねません。そうしてそれは技術開発やビジネスの問題にさしたる抵抗もなくスライドしていきます。

P.116 トランスサイエンスの時代

ここで求められている判断は、それぞれの科学研究を超えるもの、今様の言い方をすれば、「トランスサイエンス」的なそれです。そこではなによりも、社会運営における価値の選択が問われます。そしてこの選択は国家・国際政策的な措置につながります。そのばあいに、政治家・官僚が科学的見識を尊重しなかったり、科学者がここからの判断は政治の領域ですと判断を放棄したり、市民が「その判断は専門家にお任せします」と言ったりすれば、問題の解決は遠のくばかりです。トランスサイエンス的な問題には専門研究者というのは存在しないからです。

P.132

デイベートと対話の違いについて、平田オリザさんに説明を受け、思わず膝を打ったことがあります。デイベートも対話も議論することには変わりはないけれども、話し合う前と後で、立場や考え方が変わったら負けになるのがディベート。一方、話す前と後で考え方が変わらなかったら意味がないのが対話。つまり対話は、変わるためにやるものだというのです。

P.137  パブリック・オピニオンとポピュラー-センチメント

 現象的にいちばん良く見て取れる理由は、わたしたちはオピニオンで動いておらず、オピニオンと思いこんでいるセンチメントで動いているということです。このことについては佐藤卓己さんが『輿論と世論』でくわしく論じています。
 ポピュラー・センチメント(民衆感情)とパブリック・オピニオン(公論)とを、わたしたちはしばしば混同してしまいます。

P.146  コミュニケーションの場を開くコミュニケーシヨン

 ただ、多くの人、とくに専門研究者が勘違いしていることがあります。サイエンス・カフェといえば、科学の世界で現在起こっていることを専門家が素人に分かりゃすく説明することだと思っている科学者は少なくありません。けれどもそうした啓蒙的な活動は、科学への信頼が成り立っていたときの話であり、方法です。
 いま問われているのは、コミュニケーション圏の聞でもはや共有する言葉がない、あるいは共有する対話の土俵がないときに必要なコミュニケーションです。一方通行の啓蒙ではなく、科学についてある種の信頼感をべlスに率直に語りあえる場をあらためて聞いていく。それがサイエンス・カフェなのです。

P.148

昔はそういうトランスレーションができる人はペダンティック(街学的)と言われ、第一線の研究者ではなく、他人の取り組む研究を一般の人に広報し、宣伝する人材ぐらいにしか思われていませんでした。しかしどうやらこの頃は逆で、教養があるという意味での本当の頭のよさということからすると、頭のよくない人が先端的な研究に携わっている、というイメージが拭えません。

P.159 よきフォロワーであること

梅樟忠夫さんはそのことを、「請われれば一差し舞える人物になれ」と言っていました。ふだんはフォロワーでいて、誰かに任せておけばいい。ただしその場合でもいつも全体をよく見ている、よきフォロワーであれ、と。

P.163  現場へ

むしろ専門的知識や技能を棚上げにして、現場に身をさらすこと。そのときに初めて、付き添いさんの知恵というか、眼力の要となるところがおぼろげながらも見えてきます。いざとなったらじぶんの専門性をいつでも棚上げできる用意ができているというのが、プロなのです。

P.166 哲学を汲み取る

 哲学はあらゆる学問の基礎づけを行う。だから哲学は、「知の知」、あるいは「理論のなかの理論」という言い方をされてきたのですが、田中さんはそうではないという。むしろそれは「技術の技術だ」と。病気を治せない医学は学問ではない。建物を建てられない建築学は学問ではない。学問とは、それで何かができて初めて学問である。そして哲学はその技術の一つではなく、それを推し進めるか否かもふくめてさまざまな技術の全体に目配りする、そういう技術だというのです。
 この、技術全体を目配りするというのは、「価値の遠近法」を身につけることと言い換えることもできるでしょう。さきにも申し上げたことですが、「価値の遠近法」というのは、ものごとの軽重を見きわめるまなざしのことです。

P.172 価値判断をわたしたちの手に

 田中美知太郎さんの言う「技術の技術」、それから鶴見俊輔さんの言う「哲学を汲みとること」。ここには、明噺判明な根拠はないけれど、ここは一つ身を預けた方がいいという判断までを含めた、より見晴らしのよい知恵があります。明噺判明とか明証性とか確実な根拠とは違う別の確かさが、わたしたちの社会生活や個人生活にはある。知識ではなく、昔から「知恵」と呼ばれてきたもの。鶴見さんが「汲みとるべき哲学」と言い、田中さんが「技術の技術」と呼んだのがまさにそれだと思うのです。
 わたしたちにいま、求められているのは、そういう知の基礎体力です。

P.176 むすび

震災直後、被災地の人たちと、被災の全貌を知ることができずに遠くから案じるだけのわたしたちのあいだには、どうしょうもない隔たりがありました。寸断された交通網も少しずつ復旧して、報道の人たちがようやく各地の被災の現場に行き、被災者の方々にインタビューする放送記者の人たちと当の被災者のあいだには、おそらくもっともっと大きな隔たりがあったと思われます。それはちょうど、介護施設でスタッフが食事のお世話をしながら「おいしい?」と訊ねることと、ユニットケアの施設や、グループホ!ムでスタッフが入所者の人たちと同じ食べ物をともに口にしながら「おいしいね」と囁きあうこととのあいだの落差のようなものではなかったかと思うのです。

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  • (URL)“科学(者)への信頼は,何が確実に言えて,何が言えないか,それを科学者自身が明確に述べるところに成り立つといえる。科学とは,まずなによりも《限界》の知であるはずである” 『見えないもの,そして見えているのにだれも見ていないもの』 鷲田清一 科学 2011年 07月号 岩波書店

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