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“痛烈で、敵意に満ち、挑戦的なスタイルがもてはやされている今日、あるいは常識的なことをあざ笑い、ひたすら突飛さばかりを追い求める現代文化のなかで、ここブランソンのショージ・タブチは、きわめて基本的なことを発見し、そこから成功をおさめたのだ” DUTY(デューティ)―わが父、そして原爆を落とした男の物語』 ボブグリーン, Bob Greene, 山本光伸訳 光文社 (その2)

DUTY(デューティ)―わが父、そして原爆を落とした男の物語

DUTY(デューティ)―わが父、そして原爆を落とした男の物語

ボブグリーンの本書に関する引用,第二弾.

実は,本書の忘れがたいところの一つは,最後の5章にある.彼らは,ブランソンという町で会うことを約束する.
P.286

ブランソンは、そういう行事にぴったりの場所である。ラスベガスからギャンブルときわどいショーを取り去った健全なショータウンとして売りだしている、ミズーリ南西の小都市だ。 「アメリカ中西部」というフレーズが何を意味しているにしろ、プランソンはアメリカ一のエンターテインメントの都の座を狙っている。ブランソンを訪れる観光客の平均年齢は、同様の観光地を訪れる人たちの年齢よりずっと高い。つまりここは、高齢の男女が落ち着いて楽しめる安全な町なのだ。エノラ・ゲイの一万乗員たちが、有名人として記憶され、歓待してもらえる場所があるとしたら、そここそプランソンなのである。ティベッツ、フィアビー、ヴアン・カークの三人は、この週末を肩ひじ張らずにのんびり過ごそうと楽しみにしていた。

P.287

“自分の人生の楽しみは自分で見つけたまえ、誰かが助けてくれるほど人生は甘くはないぞ”とでも言いたげな態度には、なかなかお目にかかれるものではない。

彼らはブランソンでジョージ・タブチのショーを楽しむ.ジョージ・タブチとは誰か?これが私の驚き.石川県生まれ,大阪育ち,
P.346

 カンザスへ移ったタブチは、病院のレントゲン撮影室で働きながら、夜はカントリーミュージックの店で演奏した。一九七0年代半ばまでには、あるカントリーシンガーのパックミュージシャンとしてツアーに同行するほどになり、ついにプランソンを訪れた。彼はそこに腰を落ち着けることを決意する。そして、その町の人気者になり、いつか自前のシアターを持とうと心に誓った。ブランソンを訪れた観光客は、この日本人バイオリニストのカントリーミュージック・ショーに熱狂した。そして一九九〇年、彼は座席数二千の〈ショージ・タブチ・シアターを持つに至ったのである。

HPを見てみると,今でも,毎日,このシアターで,演奏を続けている,アメリカでの有名な日本人のことを,私たちは,知らない,ことの驚き.
P.350

 熱狂する会場を見渡して、ぽくはその確信を強くした――痛烈で、敵意に満ち、挑戦的なスタイルがもてはやされている今日、あるいは常識的なことをあざ笑い、ひたすら突飛さばかりを追い求める現代文化のなかで、ここブランソンのショージ・タブチは、きわめて基本的なことを発見し、そこから成功をおさめたのだ。
 つまり、いままでほとんど相手にされてこなかった巨大な観客層に、彼は気づいたのである。その大部分は第二次世界大戦世代の人々で、彼らは昔ながらのエンターテインメント――客席の男女を紳士淑女として、礼儀正しく、丁重にもてなしてくれる娯楽を渇望していた。ずっと以前電話で母と話したときのことだ。その夜母は、友達とコロンパスの映画館へ出かけるところだった。頭に来るようなものでなくて、まともなものが観られればそれでいいのよ、と母は言っていた。
 ぼくにはその意味がわかった。そして、一度も母に会ったことがなくても、ショージ・タブチにもわかるのだ。彼は観客を下にも置かない丁重きで楽しませる――それも、ショーのあいだだけでなく、このシアターへ足を踏み入れた瞬間から。これに比べると最近のアメリカ文化――MTV(訳注=ロック音楽専門のケーブルテレビ局)Jから、いかにもきわどい連続ドラマ、あるいは目まぐるしく変化する侮蔑的なコマーシャルまで――は、ここに集まっている観客の多くにとって、いかにも理解しがたいものだろう。だが、タブチのショーは、故郷に戻ってきたような気持ちにさせてくれる。いまではなくしてしまった、懐かしい場所のような気がするのだ。

P.353

ショーの最後に、タブチは満場の観客に語りかけた。
「アメリカは永遠に、みなさん一人一人の夢を叶えてくれる国でありつづけるでしょう。今夜は本当にどうもありがとう。」

タブチとティベツが会話をかわす.
P.356

ティベツが口をひらいた。「一九五九年,わたしは自宅に大切な客人を迎えた。パールハーバー奇襲作戦の攻撃隊長,淵田美津夫雄(ふちだみつお)氏だ」
タブチはうなずいた。
「立派な人物だった」ティベッツは続けた。「軍人同士、われわれは相通ずるものを感じた」

P.359 著者の父が残したテープで,本書は終わる

 父は入隊前に勤めていた会社へ戻った。そして、ずっとその会社で働き、社長になって退職し、弟、妹、まくをもうけ、母と添い遂げることになる。 しかし、こういうことはすべて後に起こることだ。この当時は、戦争が終わり、父は帰還したばかりだった。
 父は語る。
 <このへんでテープも終わりにしよう。しかしその前に、人生のゴールについて話しておきたい。わたしは目標を定めて頑張るタイプではなかった。数多い欠点の一つであったと同時に、それがわたしなりのやり方なのかもしれないが、ずっとその場しのぎで生きてきたのだ。それがなんとかできたのも、運に恵まれていたからこそだろう。
 そうは言っても、子どもの頃から、わたしはいくつかの夢を持っていた。心優しく、聡明で美じい素晴らしい女性と幸せな結婚をして、立派な子どもたちに恵まれ、両親に孝行し、精一杯精進して大望を実現させたいと思っていたのだ。大望といっても、ささやかなものもあれば、家族の頼もしい大黒柱になるという、少しばかり覇気に富んだ夢も混じっていた…。
 人生をまっとうに思う存分に生き抜き、仕事仲間から尊敬され、つねにユーモアを失わずにいたいと思ってきた……>
 そして、父はテープの最後で、自分の人生における最初の夢を思い起こしている。少年の日、小学校の教室の窓から外をながめながら、父は実現できるかどうかわからない壮大な夢に胸をふくらませていたのだ。
 <…祖国に尽くしたいと思ってきた。そして、キング・スクールへ続くあの斜めの道を凱旋パレードするという、子ども時代の夢を実現させたいと思ってきたのだ。戦い終えた後、もっとも愛する人、おまえたちの母さんの手を取って…>

最後に,忘れがたいのは訳者あとがきである.著者ボブ・グリーンの父親,本書の主人公であるポール・ティベツ,この二人の人生に,さらに,訳者の父親の人生が重なる.

 私の父は連合艦隊司令部の機関参謀を務め、三十六歳、海軍中佐で終戦を迎えた。そして父も無口だった。今になって、、グリーン同様、父の若かりし頃のことをもっと聞いておけばよかったと悔やんでいるが、ときすでに遅しである。父の葬儀のとき、九州から駆け付けてくれたかつての戦友が、「貴君に三人もの立派な息子さんがいることをついぞ知らなかった」と述べられた。つまり、第二次大戦世代の彼らは、家族のことをぺらぺらしゃべったりしなかったのである。私はこの言葉を聞いた瞬間に、父を失ったことを腹の底から実感した。
 また、今から四十数年前に、私はAFSの交換留学生としてアメリカの高校に一年留学した。十二月になると、いろいろなクラスや会合でパールハーバーについて語るよう依頼された。私はすぐに手紙を書き、父に意見を求めた。やがて、その前にも後にもなかったことだが、父から分厚い封筒が届いたのである。私は父の意見だがと断って、それをクラスや聴衆の前で披露した。父が言ってきたのは、海軍の軍人としてもし日本軍のパールハーバー攻撃を予見できなかったとしたら、それは軍人の名に値しないというものだった。それを伝えたときに、彼らのあいだに広がった低いざわめきを私は今でもはっきりと覚えている。

【関連読書日誌】

  • (URL)第二次世界大戦世代の人聞は自分たちのことを自慢して歩かない” “第二次世界大戦の帰還兵は、スポーツの試合で起きていることと戦場での出来事を、決して混同 しない” 『DUTY(デューティ)―わが父、そして原爆を落とした男の物語』 ボブグリーン, Bob Greene, 山本光伸訳 光文社 (その1)

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