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“ほんの少し掘り返すだけで、土地は意外なほどに様々な問いを投げかけてくる” 『オオカミの護符』 小倉美惠子 新潮社

オオカミの護符

オオカミの護符

著者は,自分の育った土地の古い習慣や,しきたり,信仰を記録に残すことをはじめる.何より驚くのは,神奈川県川崎市にような都会(!?)でも,そういうものが残っているところ(土橋)があるいということである.著者は,「土橋の行事や芸能を片っ端からビデオに収めること」をはじめる.冒頭,「地元の子どもたちへの手紙」でこの本は始まる.これがたいへんいい.
 -ニホンオオカミが最後に確認されたのは,明治38年(1905年)東吉野村で捕獲された若雄のニホンオオカミ.我が家の次女は,子供のころオオカミが怖かったらしく,オオカミ絶滅の事実を知って,心の底からほっとしたらしい.
 -NHK ETV特集「見狼記 〜神獣 ニホンオオカミ〜」(URL)

今から100年以上前に絶滅したとされるニホンオオカミという獣に、今なお特別な思いを抱き、それに呼びかけ続ける人たちを描きます。

ニホンオオカミ復活の試みは驚いた.
さて,本書では,
地元の子どもたちへの手紙
P.13

最初から数えて七年間、ひたすら記録を続けてわかったことは、『お百姓」の家に生まれながら、『お百姓』の暮らしをきちんと理解できていなかったということでした。私はお百姓どは田んぼや畑でお米や野菜を作る人だと考えていたのです。(略)。ところがお百姓どは、とてもスゴイ人たちだったのです。何がスゴイかというと、今は道路や家を作るのは専門の業者さんに頼みますが、かつてのお百姓さんはその土地にある木や草や土や石を使って、自分たちの暮らしに必要なものを自分たちの手で作ってきたのです。

第一章 三つ子の魂百まで
P.32 タケノコ

土橋のタケノコは、想像を絶する丹念な作業を繰り返す、独特の栽培法によってその品質が保たれてきた.
 栽培は幕末の頃に始まり、大正から昭和三〇年代にかけて最盛期を迎えたようだが、古老の誰もが「東京の目黒から伝わったものだ」と教えてくれた。
 目黒と言えば、今や大都市東京の中心部と言っても過言ではないが、その目黒区碑文谷(ひもんや)には、かつてタケノコの名産地であった頃の名残りをとどめる「すずめのお宿緑地公園」がある。その目黒から伝えられたタケノコの栽培法は「目黒式栽培法」といわれ、土橋では「駅埋け」と呼び習わされてきた。
 古老たちは一様に「根埋けしたタケノコを一度でも口にしたら、他のは食えやしねえ」と口々に言う。「根埋け」と呼ばれるその作業には、土橋のお百姓の誇りと思いが詰まっている。

P.35 肥え引き

近年、江戸文化が注目され、江戸が優れたリサイクル都市であり、清潔に保たれてきたことが知られるようになった。そこには近郊農家の肥え引きが大きな役割を果たしたと多くの研究者や専門家から指摘されている。みじめな「肥え引き」が評価されるようになったのだ。

P.44

記録にある昭和のことで言えば、一軒につき二五円を借り受け、翌年に利子を足して三〇円にして返すという助け合いの仕組みについて触れている.この原資を提供したのは、今も「講元」を務める大久保家だと記録されている。講元」とは、最初にこの村に御巌講を取り入れ、その世話人をしてきた家だと思われ、村で一番古く、また由緒ある家が務めた。
 「土橋御嶺講」は、信仰に基づいた組織であるとともに、銀行や協同組合のような役割も果たしてきたのだった。
 経済的に豊かになった今でも、この二五円の金額はそのままだ。今どき、子供の小遣いにすらならないが、それが先人の思いを忘れないための行為のように思えて温かい気持ちになる.

第二章 武蔵の國へ
P.49 川崎市に飛び地が多いのが以前から気になっていたが,謎が解けた.

 川崎と奥多摩を結びつけるものとして、まず思い浮ぶのは「多摩川」の存在、だ。
 川崎市内には、「布田、宿河原、宇奈根、等々力」など、多摩川をはさんで向こう岸の東京都と同じ地名を持つ町がいくつもある。元は同じ村であったものが、多摩川が氾濫するたびにその流れが大きく変わったことから、分断され、泣き別れになった土地だそうだ。

P.54

まず、中国の学生が「河は上から下に流れるのではなく、西から東へ流れるものですよ」と言った。なるほど、永々と続く平原を蛇行して海に注ぐ中国の大河は上も下もわからないほど緩やかに流れる.だから中国の河は黄色く濁ってもいるのだ.大陸出身の学生たちは「高い山から駆け降り、すぐに海に達してしまう島国の川は、もはや川ではなく滝だ」と言った。

P.59

相州大山は別名「雨降山(アフリヤマ)」とも言い、山頂の「阿夫利神社」は「雨降り神社」とも呼ばれる。夏の日照りが続く頃になると、海に近い大山方面からもくもくと白い入道雲が湧きおこってくる。するとしばらくののち、ザーっと恵みの雨が降るのだ。
 土橋には大山詣でとともに「雨乞い」の儀式が伝えられてきた。。日照りが続き、作物の実りが危ぶまれると見るや、村の若い男衆はすぐさまリレ1方式で大山に走り、山頂の滝から「お水」をいただいてくる.

第三章 オイヌさまの源流
第四章 山奥の秘儀
P.77

ひとつの物事を追っていくと、予期せぬ話を聞き、ものに出会う。「太占」もその一つだった。
 ある日、山中荘の拝殿で風変わりな「お札」を見かけた。「太占」と書いてある。「太占?古代に獣の骨を町いて占つたというあの太占? いや、まさか・・・・・・」
 太占とは横長のお札で、ずらりと農作物の名が並べられ、その下に数字が書き込まれている。山中荘の御師・服部喜助さんによれば、太占は農作物の作柄予想が書き込まれた作況表だという。

P.78

武蔵御巌神社に伝わる太占は、あきる野の阿伎留(あきる)神社から伝えられたもののようだが、日本列島の中で今なお太占の神事を伝えているのは、群馬県富岡市の貫前(きぬさき)神社(上野國一ノ宮)とこの武蔵御巌神社の二社のみという。
 「フトマニ」という、なんとも歴史の深い古層から湧きあがってくるような言葉の響きに、宝物を掘りあてたような心躍る心地だった。
 この貴重な太占の神事の様子を記録したいと喜助さんに伝えたところ「これは門外不出の秘儀ですから、取材を許可することはできないんです」という答えが返ってきた。世の中のタブーがどんどん破られる中で「門外不出」のものがあること自体に感銘を受けた。その後、世の中に「門外不出」が数多くあることに何度も驚くことになるのだが:::。

P.88

ここ三芳町には、柳沢吉保(万治元年/一六五八〜正徳四年/一七一四)の新田開発で有名な「上富、中富、下富」から成る「三富新田」で知られる「上富」がある。江戸時代中ごろまで人の住まなかった入会地の原野を、開拓したのが武蔵野だ。「この原野を拓くとき、まず木を伐り出し、その根を掘り起こし、草を刈って火を入れて、養分のないその土地に最初に蒔いたのが蕎麦であったろう」と、この土地で蕎麦の栽培が始まった理由を船津さんが教えてくれた。
 三芳町に隣接する新座市には、武蔵野で野焼きが行われていたことが偲ばれる「野火止(のびどめ)」という地名が残る。野焼きは、切り拓いた原野が再ぴ元に戻るのを防ぎ、耕作を維持するために行われた。その方法は「焼畑」と相通ずるものがあり、林野を切り拓いたばかりで養分がない土地にまず蒔くのが蕎麦。その次の年に豆や大根を蒔いて徐々に地力を上げ、また次の年にはそれぞれの土地に合う作物を植えて、根気よく畑地として整えてきた。

第五章 「黒い獣」の正体
P.95

宮司自身が幼い頃、おじいさんから「この山にはオオカミが棲む」と間かされ、オオカミと覚しき遠吠えを聞いたとも話してくれた。実際、この御岳山を含む関東の山々にはニホンオオカミが多く棲息していた。オオカミは各地の山村で今、まさに大きな問題となっているイノシシやシカなど獣害を引き起こす動物たちを捕食し、農作物を守ってくれたのだという。このことからお百姓に神と崇められてきたのではないかと金井宮司は続けた。

P.106

静岡県浜松市天竜区にある「山住(やまずみ)神社」や「春埜(はるの)山大光寺(さんだいこうじ)」が中心となっているようで、いずれも「オオカミの護符」を発行している。同じ天竜川の上流には、オオカミの子と伝えられる「早太郎伝説」で知られる光前寺(長野県駒ケ根市)もある。

第六章 関東一円をめぐる
P.128

幸田露伴が明治四四年に書いた『侠客の種類』という随筆が収録されている。
「(前略)博徒は最も多く関東に居り、関東でも甲州、上州、野州常州などいふ国は、侠客や博徒の名に連れて必ず呼び出されるのは余程面白いことである」と書き、博徒と関東の山々との関係について述べている。

P.132

諸国の人々が通る山の峠は、さまざまな物語も生んだ。前述の幸田露伴はまた、「山は上代にあっては所謂擢歌(かがい)や歌垣(うたがき)で、若い男女の縁結の役目を勤めて居たもの」と書いていることも、山という場の持つ役割と意味を思わせる。
 若い男女が心を寄せる場とは、すなわち時代の熱を最も敏感に発してきた場と考えても差し支えないだろう。
「山」は、信仰の場として山の神のもとに人々が集い、日常の規範や関係性から解かれ、治外法権とも呼べる「無礼講」が許された世界でもあったことがうかがえる。

第七章 オオカミ信仰
P.152

この幻の「赤もろこし」のおかげで、私はお百姓の知恵を聞き出す「尋ね方」を学んだ。「イネ科の赤い実が生る雑穀を知りませんか?」と聞き回っても、お百姓は首をかしげるだけだったが、「ホウキに使った雑穀」と聞けば、もっと早くに手がかりをつかめていたはずだ。お百姓は、植物の詳しい名前や分類は知らないが、「どのように使うか」は、良く心得ている。

第八章 神々の山へ
P.168

ついでに手元にあった柳田園男の『山の人生』という著作に久々に目を通してみると、なんとそこには、私が求めていた「御産立」の話が紹介されているではないか。大正一五年初版というから、それ以前に三峰の近在で採集した話なのだろう。まさに神事の背景には人と野生、人と自然の関わり合いがあるという証しが描き出されていた。

P.186

こちらでは、夏の火入れのことを「おう焼き」、秋に刈り、春に火を入れることを「秋ぶせ」と呼ぶことも教えていただいた。ひと口に「焼畑」といっても、気候風土、地形によってさまざまなやり方があり、呼ぴ名があることを知った。「焼畑」と、十把ひとからげのび名で括ってしまうと、細やかな配慮を見落としてしまう危険性がある。秩父には、そういう土地ならではの言葉がたくさんあるように思った。

第九章 神々の居場所
P.193

神々は、どこにでも杷られていたわけではない。土橋の百姓に経済的な恩恵をもたらした「竹薮」に神々を杷る嗣はない。それでは、なぜ「ベlら山」に嗣が記られてきたのだろう。
 これを解くカギとして、哲学者の内山節さんが語る「稼ぎ」と「仕事」の話が脳裏に浮かんだ。百姓を志して山の村に移り住んだ内山さんは、村の暮らしに触れるうちにあることに気づいた。村では労働を「稼ぎ」と「仕事」とに使い分けているということに。「稼ぎ」とは、生活に必要な現金を得るための労働であり、他にもっと良い収入が得られれば、ただちに乗り替えても構わない。それに対し「仕事」とは、世代を越えて暮らしを、水続的につないでいくためのもの。

あとがき

ほんの少し掘り返すだけで、土地は意外なほどに様々な問いを投げかけてくる。そして、その聞いの答えを求めるうちに、人と出会い、縁ある地を訪ね歩いて、深く広い沃野へと導き出されるだろう。

【関連読書日誌】
【読んだきっかけ】
書評でいろいろ取り上げられました.
【一緒に手に取る本】

狼の民俗学―人獣交渉史の研究

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日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか (講談社現代新書)

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遠野物語・山の人生 (岩波文庫)

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