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“2000年代の日本の科学技術コミュニケーションが「生ぬるい」と述べた理由の一つは、この問題意識の欠如なのです” 「3.11以降の科学技術コミュニケーションの課題」 平川秀幸 『もうダマされないための「科学」講義 (光文社新書)』 SYNODOS編 光文社

もうダマされないための「科学」講義 (光文社新書)

もうダマされないための「科学」講義 (光文社新書)

1章 科学と科学ではないもの 菊池誠
2章 科学の拡大と科学哲学の使い道 伊勢田哲治
3章 報道はどのように科学をゆがめるのか 松永和紀
4章 3.11以降の科学技術コミュニケーションの課題 −日本版「信頼の危機」とその応答 平川秀幸
付録 放射性物質をめぐるあやしい情報と不安に付け込む人たち 片瀬久美子
上記書の第4章 3.11以降の科学技術コミュニケーションの課題 −日本版「信頼の危機」とその応答 から

P.152

あの瞬間から社会のムードは一変し、「困難」「有事」「見えない敵」「後方支援」といった大きく政治的な言葉が、まったく違和感なく日常的に飛び交う、極めて緊迫度の高い言説空間が構築されていた。その喧騒の模様は非常に多面的だった。たとえば無関心の付和雷同状態から「転向」した者が、たまたま手にした「エビデンスのようなもの」をベースに、「御用学者」などの「戦犯」を糾弾する様を訝しがることもできれば、突如として塗り替えられた社会秩序に対して、「市民」が試行錯誤をしながらも科学的事実を模索し、「反省」をベースに政治的な前進に身を乗りださんとする様として活写することもできる。他の総括も多々あり得る。だが実態としては、いずれかのリアリティのみで一枚岩で括ることなどできないような、カオスな模索状態に誰もがいた。「お上の誤り」のみならず(「安全厨/危険厨」といった言葉が繰り返されたところからもわかるように)、「隣の市民の振る舞い」に対しても不信ベースの懐疑的言説が飛び交う状況で、メタ視点で「整理」できる当事者などいなかった。
 科学的知識をいかに共有するか。あるいは、科学をいかにして共に創り上げていくか。科学ガバナンス論を専門とする平川秀幸氏は、こうした聞いと格闘してきた第一人者。その歴史を振り返ったうえで、「失敗」を経由して以降の、これからの「科学をめぐるコミュニケーション」のあり方を提示する。本章は、私たちが現在と、そして未来へと向き合うための、確かな手がかりになるはずだ。(荻上チキ)

P.157

今回の原発事故が、科学技術と社会・人間との関わり方や、それを体現する科学技術コミュニケーションに与えるであろう影響とは、どんなものになるのでしょうか。
 それを特徴づける最大のキーワードは「信頼の危機」であると考えています。これは2000年の2月に、イギリスの議会上院科学技術特別委員会がまとめた「科学と社会:第3報告書(Science and Society:The third report)」で使われた言葉です。

P.159

このような政策の致命的な誤りによって、政府に対する国民の信頼は大きく失われました。しかし失われたのはそれだけではありません。政府の決定が根拠にしていた「BSEが人に感染する可能性は非常に小さい」という科学の結論そのものが間違っていたため、科学者あるいは科学自体に対する信頼も大きく失われてしまったのです。この政治と科学に対するこ重の不信の広がりこそが、「信頼の危機」なのです。

P.161

信頼の危機が訪れる以前の伝統的な科学技術コミュニケーションは、「一般市民の科学理解(PUS = Public Understandings of Science)」と呼ばれるものが主流でした。これは85年にイギリスの権威ある学術組織、ロイヤルソサエティが発表した同名の報告書に由来する呼び名で、日本では「科学技術理解増進活動」といいます。
(略)
ほかにも、リスクが懸念される新しい科学技術を社会に受容してもらうために、人々に当該の科学技術についての科学的理解を促す、いわゆる「社会的受容(PA = Public Acceptance)」の活動として、PUSの活動が行われることも少なくありません。

P.166

そこからわかるのは、信頼の危機で問われたのは、単に信頼をいかに取り戻すかではなく、「科学技術に関する意思決定を、誰がどうやって行うのがよいか」というガパナンスの「正統性(lgitimacy)」の問題だったということです。それが求めたのは、新しいガパナンスの形へと、科学技術と社会の関わり方を作り直すことであり、その結果が、理解増進(PUS)中心から公共的関与へ、という変化だったのです。

P.173

けれども、より広く科学技術コミュニケーションの活動全体から見ると、このような公共的関与型のコミュニケーションは、相当にマイナーなものに留まっているのが現状です。「科学技術コミュニケーションの推進を!」というかけ声のもと、2000年代半ば以降に広がったのは、実は昔ながらの、もっぱら科学の楽しさ・面白さの共有や科学リテラシlの醸成をうたった「理解増進系」(英国流にいえばPUS) の活動だったのです

P.174

重要なのは、専門家の話題提供がカフェの中心になるのではなく、議論と意見交換が中心となることである。参加者は研究者や学生ではなく、一般市民である必要がある。サイエンスカフェの目的は、科学的事実を伝えることではなく、聞いを提示することであるべきだ。たとえば、「この研究は私たちにとってどんな意味があるのか?」、「影響をこうむるのは誰なのか?」、「私たちにはいかなる変化がもたらされるのか?」、「なぜわざわざそんなことに注意を向けなければならないのか?」といった聞いである。すなわち、本物のカフェの中核に据えられるべきなのは、社会的・倫理的・文化的・政治的な問題であり、場合によっては宗教的な問題なのであって、たんなる技術的な問題ではないのである。(中村征樹「サイエンスカフエーー現状と課題」、『科学技術社会論研究』第5号、より引用)

P.179 *2000年代の科学コミュニケーションの「生ぬるさ」

それがこの時期の科学技術コミュニケーションの「偏り」、あるいはこういってよければ「生ぬるさ」の主因だったといえるでしょう。またその背景には、日本社会全体に漂う政治音痴ともいうべき政治感覚の欠如、あるいは政治や公共的問題に関与することに対する忌避意識があるのだろうと思います。

P.180

たとえば日本学術会議が「社会との対話に向けて」と題した声明で、科学者と社会との「対話」の目的を「子どもたちの科学への夢を育てること」としか書かないのは、我が国の学術界を代表する機関の見識として、あまりに一面的ではないでしょうか。そこには、95年問題=信頼の危機への応答という問題意識は見えません。2000年代の日本の科学技術コミュニケーションが「生ぬるい」と述べた理由の一つは、この問題意識の欠如なのです。

P.185

トランスサイエンスとは、72年に米国の核物理学者アルヴィン・ワインパーグが提唱した概念です。「科学に問うことはできるが、科学では答えを出せない問題群」を扱う領域だとされています。科学知識の不確実性が大きく、政治的・経済的利害関係や倫理的問題と深く関わっているため、一見すると科学で答えが出せそうでも、実は答えが出せない問題、あるいは出そうとしてはならない問題を扱うのがトランスサイエンスである、というわけです。

【関連読書日誌】

  • (URL)“多くの場合「強い相対主義」は単に思想的敗北のような気がします。区別のつかない領域があったとしても、はっきり区別できる両端はあるはずです” 「科学と科学ではないもの」 菊池誠 『もうダマされないための「科学」講義  (光文社新書) 』 SYNODOS編 光文社

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