“その時、若泉の耳朶にふれたのは、かつて激戦が展開された摩文仁(まぶに)の丘の戦跡を初めて訪ねた際、見知らぬ地元の男性から教えられた「むせびなく霊の声がこの丘にかすかにひゞく遠き海鳴り」という一首であった” 『「沖縄核密約」を背負って:若泉敬の生涯』 後藤乾一 岩波書店

「沖縄核密約」を背負って 若泉敬の生涯

「沖縄核密約」を背負って 若泉敬の生涯

本日8月15日は終戦記念日.それに先立つ,今年の5月15日は,沖縄返還40周年であった.その際,少しだけニュースになったり新聞記事にはなったが,沖縄に特に縁のない人たちにとっては,なにごともなかったかのように過ぎていった日々であったかも知れない.本読書日誌に記録した最初のものが本書.本書の表紙は,一人の男性がが慰霊碑の前にひざまずきひたすら祈る写真である.週刊誌の記事で,この男性の生涯を知った時の衝撃は今でも忘れられない.改めて2回に分けて,文章を引いて記録に留めておきたい.目次は,

第一章 越前の片田舎から世界へ(一九三0― 一九六0)
第二章 一九六0年代日米関係の激流へ(一九六0―一九六七)
第三章 内閣総理大臣特使として(一九六七―一九七二)
第四章 著述への決意 (一九七二ー一九九四)
第五章 余命尽きるとも(一九九四ー一九九六)

ここでは,政治学者として活躍する第三章までをとりあげる.
以下の序からは,本書の執筆意図とともに,若泉が命を賭して闘ったものが何であったかがよくわかる.

 文字どおり畢生の著となった『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』(文義春秋、一九九四年)を遣し、六六歳の早過ぎる生涯を閉じた国際政治学者若泉敬(1930―1996)が逝ってから、はや十数年が経過した。「運命のなせる業ともいうべきか、沖縄返還日米首脳交渉という敗戦後日本外交の枢機に深く関与」した経緯を「歴史の一樹への私の証言」となすべく、克明にかつ赤裸々に綴った同書は、戦後日本の最大の外交課題の一つであった沖縄返還交渉の意義づけ、国際関係(史)研究、さらには沖縄の日本外交認識、「日米同盟」をめぐる国民世論等に少なからぬ衝撃を号えつつ今日に至っている。また2009年九月、民主党政権の“劇的”な誕生と共に、日米関係における「核密約」問題が喫緊の重要争点となる中で、同書が改めて注目されているのは周知のとおりである。
 当時30代半ば、気鋭の知米派国際政治学者としてマスメディアでも広く知られた若泉敬が、「沖縄が還るまで戦後は終わらない」と宣した時の首相佐藤栄作の信を得、隠密裏に返還交渉に深く関与していたのではないかとの憶測は、アメリカ側当事者であったヘンリー・キッシンジャー大統領補佐官(後、国務長官)、U・アレクシス・ジョンソン駐日大使(後、国務次官)その他の回想録をもとに、かなり早い段階からなされていた。また日本側の学界関係、ジャーナリズムにおいてもアメリカ側文献に頻繁に登場するコード名「ヨシダ」=若泉説はかなり広く流布していた。
(中略)
 若泉敬は当時、“隠棲”の地郷里福井で『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』の執筆に沈潜していたが、その一言に自身の著作に向けての並々ならぬ決意と覚悟のほどが示されていた。事実、若泉は、回想録の類ではきわめて異例ともいえる「宣誓」および「鎮魂献詞」を冒頭に印し、そして「宣誓」では「私は、/私自身の言動と/そこで知り得た事実について/何事も隠さず/付け加えず/偽りを述べない(/=改行)と明言したのだった。
(中略)
 他方、本書を最後に「筆硯(ひっけん)を焼く」との決意で著作を世に問うた若泉は、公刊から死去までの二年二カ月の問、二つの深い思いに苛まれ続けた。
 第一は、「国事犯」として告訴されることを覚悟しつつ、「国家機密(密約)」を明るみに出すことを通して彼が訴えた“信念”が、理解されなかったとの絶望的なともいえる思いである。(中略)約言すれば、本書刊行に余命を賭けた己の心情と祈りは黙殺されたとの断腸の思いを、若泉は最後まで槻い去ることができなかった。
 第二は、近現代史上「本土」との関係でさまざまな負荷を背負わされてきた沖縄とその地に住まう人々に対する、若泉の贖罪意識のよりいっそうの先鋭化である。病魔と翻いつつ完結させた『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』公刊後も、若泉は「秘密合意議事録」が潜在的に判む“危険性”に懊悩し、沖縄県民に対する謝罪の気持ちを深めていった。最晩年のその思いは、「強迫観念」ともいえるものであったo 著作刊行後の二年余、末期ガンと闘いつつ行った四度の沖縄行きは、文字どおり鬼気迫る雰囲気を漂わせての彼なりの「償いの巡礼」であった。
(中略)
それらについては貴重な先行研究として本書でも随所で参照させていただくが、大別すると三つの類型に分けられる。
 第一は、若泉を私利私益を顧みず、沖縄返還交渉という重要な外交課題に一身を擲った「国士」として位置づける、またより積極的には「神話化」する立場である。第二はそれと対照的に、戦後日米関係を畸形的なものとした数々の密約の内、もっとも重大な一つに深く関与し、従属的「日米同盟」を民間の立場から補完的に支えてきた親米派知識人の典型とみる見方である。そして第三は、そうした正負の詳価は別にして、日米関係、ひいては国際関係における知識人の果たした役割の事例として、若泉を位置づける立場である。
 本書は、こうした三類型の先行諸著作から多大の示唆を受けつつも、いずれの立場にも軸足を置くことなく、「後期戦中派」知識人の一人である図際政治学者若泉敬の思想的、学問的、政治的足跡を辿りながら、その人間像と彼の生きた同時代史を、著者なりに描いてみたいとのささやかな思いから執筆された
ものである。『広辞苑』の言葉を借りて換言すれば、本書の基本的性格は「個人一生の事績を中心とした記録」=伝記であり、「批評をまじえながら書かれたある人物の伝記」=評伝ではない。したがって本書において、筆者は若泉敬という人物についての「価値的評価」は努めて避けることを心掛けた(ただ「歴史の聞の奥深く」に若泉を“置き去り”にしてしまうことは、現代日本にとって大きな損失であるとの思いは、筆者の中に牢固としてある)。

第一章 越前の片田舎から世界へ(一九三0ー一九六0)
P.46
>>
 敗戦後の混乱と経済的困窮を身をもって体験した世代とはいえ、アメリカからの援助、朝鮮戦争特需等によりすでに復興期に入っていた日本から来た若泉にとって、最初の強烈な印象は、何よりもインドの絶対的貧困という現実だった。<<
P.90 >> 既述のイギリス政党論においても指摘されたが、同家の安全保障という重要問題においては与野党問での見解一致が不可欠であると考える若泉は、現下の霊要争点となっている日米安全保障条約改定問題に対する社会党の代案なき反対論、彼らの社会主義陣営に傾斜しがちなその外交政策論には、氷炭相容れぬものを感じていた。次の言葉の中に、激化しつつある安保改定問題に対する若泉の基本的姿勢が見て取れる。