“グ口ーバリズムとナショナリズムに基づく主権国家間の権力政治の間の矛盾が、破局的な事態をもたらす危険性を超克するための「新しい世界秩序の創造」こそが、現代の「苦悩にみちた喫緊の人類史命題」である、と若泉は強調する”  『「沖縄核密約」を背負って:若泉敬の生涯』 後藤乾一 岩波書店

「沖縄核密約」を背負って 若泉敬の生涯

「沖縄核密約」を背負って 若泉敬の生涯

引きつづいて,四,五章よりの引用

第一章 越前の片田舎から世界へ(一九三0― 一九六0)
第二章 一九六0年代日米関係の激流へ(一九六0―一九六七)
第三章 内閣総理大臣特使として(一九六七―一九七二)
第四章 著述への決意 (一九七二ー一九九四)
第五章 余命尽きるとも(一九九四ー一九九六)

福井に隠棲したからに執筆活動などである.何よりも強く感じるのは,若泉が当時強く主張したいた,日本という国家の国家戦略,国際政治論は,いまでも決して古びていない,という点である.そうまで国に殉じた若泉のような人はそう現れないであろう.
第4章 著述への決意(1972-1994)
P.272

そうした問題設定の後、若泉はまず最初に、国際社会からしばしば発せられる日本の核武装の可能性について説き起こす。結論的にいえば若泉は、核武装に対しては拒否の姿勢を明確に打ち出す。その理由として、人口工業施設が高度に集中している島嶼国家故の核に対する脆弱性、膨大な経済的負担、中国を含む近隣アジア諸国の今なお根強い「軍国主義日本」復活の悪夢、米ソ核大関からの反対、そして日本の強聞な「平和主義」的な国民感情等々、あらゆる側両からみて核武装を可能にする条件がないことを強調する(核問題を含めた日本の安全保障政策については、Foreign affairs誌への第一論文を参照)。
 第二の論点として若泉は、日本の基本的国家目標として“巨大な経済大国は軍事大国化する”という世界の近代史の通例を打ち破らんとの「偉大な実験」を提示する。
(中略)
そして第三の提言は、「全方位平和外交」の推進である。

P.277

その具体的な現れとして、外交教書の中で「日本はわれわれにとってアジアで最も重姿な同盟国」「安定した世界の平和の建設には日本の参加が絶対必要」等の文言が強調されていることから、「間違いなく、ニクソンは日本を重視」しており、その最新例がハワイでの日米首脳会談である、と若泉は指摘する。端的にいえば、今後アメリカは、経済大国日本に「より成熟した相互主義のパートナーシップ」を「非常に厳しい態度で迫って」くるだろうと若泉は展望するのであったo。いうまでもなく、こうした若泉の認識は単なる机上の空論ではなく、ワシントンでの長年にわたる“タフ・ネゴシエーター”としての体験に裏打ちされてのものであった。

P.282

若泉敬とは一九三〇年の同年生まれで、後に三木武夫首相のブレーン、ついで社会党選出の参議院議員となる國弘正雄は、自分はハト派で若泉はタカ派だと分けつつも、「ただね、若泉さんは、同際関係を敵か味方かという冷戦構想でとらえないで、もっと文明論的な視野をもちこんでいるようです」と観察している。若泉、國弘とも「トインビー市民の会」(会長秀村欣二(ひでむらきんじ)東大教授)と深い関わりがあり、その文明論的歴史観に惹かれていた点で共通するものがあった。

P.285 1974インドネシアでの反日事件について

 第一は、この反日事件に対し、日本国内の反応が「一億総ザンゲ」的なムードに覆われていることへの警鐘である。東南アジアに対する総ザンゲ論が、相手に対する優越意識に基づいた安易な自己満足に終わってしまうことへの危棋でもあった。
 第二は、国際社会における日本人の適応性の欠如に関する指摘である。二〇代の初めからインドを皮切りに広く世界を相手としてきたと自負する若泉には、東南アジアのみならず世界各地で日本人が「その閉鎖性、排他性、利己主義、あるいは相手国の文化、国民性に対する認識不足等々について、強い批判を受けている」現実を憂い、日本人が国際感覚を蹴訴することの必要性を訴えたのだった。

P.289

 若泉は、一九七三年初めにforeign Affairs誌に発表した論文の中で、初めて全方位平和外交なる概念を国際社会に向けて提起し、これを日本外交の基本原則とすべしと提唱していた。そしてそれから約四年後の一九七六年一二月に成立した福田越夫内閣は、政権発足時に外交理念として「全方位平和外交」という言葉を前一雨に掲げた。この福田と若泉は、一九六〇年代後半以降、切っても切れない関係にあることはすでにみたとおりである。

P.290

「他策』において若泉は、一九六七年九月二九日、佐藤首相の意を受けた福田自民党幹事長から沖縄返還交渉への関与を要請された日をもって、「私の第一の人生は終り、第二の人生が始まったようなもの」と振り返るほどである。そして若泉は、内外の諸問題につき胸襟を開いて語り合える福田について「福田越夫氏との話は、いつもそうだつたが、打てば響くようなテンポで簡潔に核心を衝いてきた」と評するように(三四頁)、自民党領袖が中でもっとも高くその力量と政治センスを評価していた。
(中略)
こうした中で若泉は、全方位平和外交の基本理念を、国連憲章日本国憲法の精神に由来し平和国家に徹するものだと捉え、次のようにその特色を指摘する。
 第一は、「自国の同際的位置付けをあらゆる角度、曲面、次元から総合的に検討し、定義しようとする認識と思考の複眼性、全方位性」である。端的にいえば、いかなる国際情勢の変動に対しても「適切に対応する柔軟さとしたたかさ」をもつことだと強調する。
 第二の特色として、日本の「クレジビリテイ(信頼度)が問われる状況が起きないよう国家ととしての主体性という機軸を確立」することをあげている。その主体性とは、大国の動きに対し「できるだけ遠くかつ等距離を保」って行動するとい消極的なものではなく、日本自らの「座標軸を設定し、国家戦略を練り、一貫性をもって世界に貢献すべくダイナミックに働きかける」という能動的姿勢である。ここには青年持代からの若泉の一貫した持論、約言すれば、国際社会の一員として「永続する世界平和の枠組について、また新しい世界秩序の創造について」、日本は国家として明確な展望と青写真を構築し、提示せよという主張がある。
 全方位平和外交の第三の特色は、“八方美人”的に対応するのではなく「日本外交における優先順位をより明確化」し、それにより「外交における真の意味での柔軟性と交渉能力」を高めることを可能にせよ、ということである。
 若泉は、自らが提唱した全方位平和外交に対し、現実のパワーポリテイクスを無視した「幼稚な希望的理想論」にすぎないとの批判が出ることを想定しつつ、こう主張するのであった。
 「この政策は、権力政治における勢力均衡の考え方[若泉を含むいわゆる現実主義派の国際政治学者の基本的な考え方]を必ずしも否定せず、むしろその欠陥を克服する論理と方策を樹立しようとするもので、一見理想論のように見えて、日本の現状においてはすぐれて現実論なのである。この逆説的表現は正しい。なぜならば、現在日本は他に有効な選択肢をもっていないからである。」

P.295

 即ち現代世界は、国際関係における相互依存性が急速に高まっている時代であるというのが、若泉の基本的
認識であった。
 しかしながら、「相互依存関係の“世界システム”構築は揺盛期に入ったばかりで、公認されるべきルール」はまだ手探り状態であり、しかも現代の国際関係のアクターは国家のみでなく、トランス・ナショナルさらにはサブナショナルな視座からの複雑多様な相関関係に影響され、きわめて不安定な状況が現出している、と若泉は把握する。他方において、今なお未熟な発展段階にある国際社会は、依然として主権回家が自らの国益を追求する伝統的なパワー・ポリティクスの世界であり、しかもそのパワーは一義的には軍事力に還元される概念であるという現実である、というのであった。
 こうしたグ口ーバリズムとナショナリズムに基づく主権国家間の権力政治の間の矛盾が、破局的な事態をもたらす危険性を超克するための「新しい世界秩序の創造」こそが、現代の「苦悩にみちた喫緊の人類史命題」である、と若泉は強調する。『世界週報』に寄せた他の諸論文が、現代世界に生起している具体的な諸課題について政策論的な観点から論じているのに対し、上述の言説からも明らかなように、最終論文は国有名詞がまったく登場しないきわめて抽象的なものであり、悲観主義的な色調すら帯びている。

P.298

 その点について若泉は、自らの積年の外国体験を引きつつ、日本は経済・技術大国ではあるが、国家としていかなる意図を有しているのか判然としないとの不安感不信感が多くの外国人識者から寄せられている、そうした中で「国家意思を明確」化するには「“国家目標”の再確立」こそが不可欠であると強調する。すでに欧米先進諸国に追いついた日本は「モデルなき時代」に入りつつあるが、そうかといってただ漫然と漂流するだけでなく、「日本丸を如何にして『指針ある航海』に切り替えるか」が今後死活的に重要になるだろう、と指摘する。この提起は、『世界週報」⑫論文の趣旨を先取りした形となっている。
 またこの発言で興味をひくのは、若泉が慈父のように畏敬するトインビーの言葉を、熱を込めて援用していることである。『トインビーとの対話 未来を生きる』の文庫版を準備中(一九八二年、原本は一九七一年)ということもあったが、彼から親しく開いた「二つの忠誠心」を引き合いに出し、こう説くのだった。即ち現代世界では、人は「祖国に対する忠誠心」と「人類の生存と繁栄にたいするロイヤリティ」をいかに両立、調和させるかが何よりも求められる、これは言うは易しだが実行は非常に難しく、今後の重大な課題になるであろう、ということであった。こうした一種の二律背反は、先の若泉論文⑬でいうグローバリズムナショナリズムの間の「大矛盾」論の伏線をなすものであった。

P.300

そして京都産業大学の「教学の精神」を熟読吟味し、母校へのアイデンティティを自覚すると共に、「『我が人生いかに生くべきか』を真剣に模索することが、唯一この時期すなわち多感な大学生時代である」と“考える”ことの重要性を強調してやまない。その上で若泉は、今の社会を変革することなしには二一世紀の展望も開け得ないこと、そして青年こそがその変革の担い手たるべきだと説き、具体的に以下の「五つの心構え」「六つの実験課題」を実行するよう、新入生に訴えるのだった。
 五つの心構え―①目標をもつこと、②積極的に行動すること、③自主独立の精神で臨むこと、④自分の生き甲斐をもつこと、そして⑤理想をもて、夢をもて。
 六つの実践課題―①せめて今日一目、テレビを消して良書に親しもう、②電話の使用をやめて、ベンを執ろう、③マイカーには乗らない、④手作りの旅をしよう、⑤恋愛をしよう、⑥日付の入った手帳(備忘録)をもとう。

P.305 盟友 池田富士夫の記述

 「筆硯を焼く決意と、都落ちと、その後の十年この二十年、兄の心情に一貫して流れるものが読み取れるからである。それは沖縄百万の同胞に対する背信、兄の心の中に深かく根付いてしまった兄の心情、自責の念である。」

P.306

 車で30分ほどの郷里横住の縁戚、友人たちにも、ライフワークに専念したいから会う機会もないことを、わざわざ通知するほどであ
った。その絹介なまでの姿勢は、親類縁者をはじめ郷里の多くの人々を戸惑わせた。この間、若泉が何について書こうとしているかを知る人は、もちろん皆無であった。
 だがいつの時点かは必ずしも定かではないが――おそらく帰郷に先立ってのことと思われるがーー、妻ひなをには著作の主題と自らの関与について語っていたものと思われる。そうした若泉にとって、予想だにしなかった痛恨事は、一九八五年六月二三日、その妻を心筋梗塞で突如奪われたことであった。

P.311

この詩は、近年日本でも広く愛唱される「千の風になって」の元歌であるが、後述するように、若泉敬三回忌にあたり、マンスフィールド元駐日大使が集いの世話人末次一郎に送った詩でもある。ひなをへの献詩は「外国の友人の方より贈られた」としか記されていないが、同じマンスフィールドである可能性がきわめて高い。

P.312 日刊福井への寄稿

①「『日本丸』の進路――新船長の舵取りに望む」(一九八0年七月七日)
②「アメリカほど重要な国はない――マンスフィールド大使の来福に想う」(同年一0月六日)
③「若者よ、怒りと夢を持とう――新年を迎えるための一提言」(同年一二月二七日)
④「この世に旨い話はない――ライシャワー教授は無作法か」(一九八一年六月二ニ日)
⑤「魂をなくしたか、日本の繁栄――静かに国の将来を考えよう」(同年八月一五日)
⑥「戦争と平和ーー求められる二重の忠誠心」(一九八二年六月一一六日)
⑦「真贋を見抜く眼ーー小林秀雄氏を偲んで」(一九八三年五月一四日)
⑧「二十一世紀の日本ーー故ハーマン・カーン氏の予言に想う」(同年七月三0日)
⑨「心の安保条約を結ぼうーー故今日出海氏の提案」(一九八四年八月一八日)
⑩「読もう、書こう、考えようーー文化創造への参加」(同年一一月一二日)
⑪「“科学技術信仰”の陥穿ーー人間の英知で未来を担おう」(一九八五年一月一九日)
⑫「世界平和と日本の寄与ーー国連平和維持活動に参加を」(同 年四月六日)
⑬「国際交流と日本の役割ーーフルブライト氏からの手紙」(同年九月一四日)
⑭「誰か祖国を愛せざるーー沖縄復帰十五年に想う」(一九八七年五月一六日)
⑬「国を想う心ーー小泉信三博士の遺言」(一九八七年八月一日)
 以上一五本の評論をテーマ別にみると、日米関係を論じたもの五本(②③③⑨⑬)、日本社会・文明論六本(③⑤⑦⑩⑪)、国家外交論岡本(①⑫⑭⑮)に大別できる。また全体の中でほぼ半十分にあたる七本は、若泉が親しく謦咳に接した人物(アメリカ人四人、日本人三人)を取り上げつつ、主題を論じているのが特徴的である。以下では三つのテーマに沿って、その論点を検討しておきたい。
1.日米調係
(中略)
 それだけでなく、各同大使の間ではいつ知らず“鯖江詣で”という言葉が囁かれるほと、若泉の意見を求めて北陸の小都市を訪ねる外交官が後を絶たなかった。
2.日本社会・文明論
(中略)
「旺盛な好奇心、純粋な慧限、豊かな感受性、感動と情熱等をその特権とするはずの青年たちが、矛盾に満ちた現実に対する鋭い批判精神(怒り)を失い、瞳を輝かせて理想(夢)を語ることを止めた時、その社会と国家が如何なる命運を辿ったか、文明興亡史の教訓は明らかなように思われる。」
 このような問題関心は、一九八四年「文化の日」に寄せた⑩にも通底している。「物質的繁栄に反比例して精神的に貧困」化している日本の状況を憂いつつ若泉は、「何故われわれは衣食足りて礼節を知らず、真の生甲斐や魂の高貴さを見失い、人生や国家の理想と日標を持たず、モノ・カネ・エゴの暗き海を漂う“心貧しき大衆”に堕しつつあるのだろうか」と問いかける。
(略)
 そして基本的問題点として、若泉は(I)「人間と技術の主従関係」が破れつつある事実、(2)「何のための技術革新か」が不問に付されていること、(3)大量高速情報相会の出現は真の幸福につながるか、の三点に思いをいたすよう読者に提起する。晩年の若泉は、これまで以上に宗教に深い関心を示すようになるが、それはここで吐露された現代社会に対する根源的な疑問とも、密接に関連するものであった。
3.国家外交論
(中略)
 その一角に茫然佇みながら、『こんな戦争を二度と繰り返してはならない。これから日本はとうしたら立ち上がれるのか、そして進むべき途は…。よし、広い世界に出かけ、天下の大勢を見ながら日本の生き方をじっくり考えてみよう」と志を立てた。爾来、国際的日本人をめざし、国際政治の研究と実践に打ち込んできた次第である。」
(略)
「敗戦後米軍の直妓支配下に永年苦悩した沖縄の同胞たちが終始、“祖国”である日本への速かな復帰を巽ってきたことは疑いない。回想するに、昭和三十年代当時、最も“愛国的日本人”と言われた彼らの熱烈な根回と一体化への心情は、本土に住む我々の胸を打た
ずにはおかないものがあった。」
(略)
「復帰の初心」について若泉は、具体的には述べていないが、理念として「自由、自治、平和、民主主義、そして真の独立と祖国愛ではなかったのだろうか」とこの一文を結ぶのであった。

P.330

東眞史は、若泉が「匿名の情熱」の典型的人物としてつとに深い敬意を払っていた明治大正期の陸軍情報将校、石光眞清(まきよ)(『城下の人』著者)の直系の孫でもあった。

P.332

県の小出版社から刊行された青木新内『納棺夫日記』(桂書房、一九九六年に文春文庫に収録)である。いち早くこの本を手に入れた若泉は、いたく心を揺さぶられ、周辺の人々に一読を薦めた。
(中略)
余談であるが、晩年の若泉は、自宅のあちこちに「浪人前」と銘打った次のような一枚の墨書を貼り付けていた。
「その位に非ずともその事を行ひ自家の米塩を憂えずして国家の経綸(けいりん)に志す者は浪人なり 即ち浪人は政府又は人民より頼まるるに非ず 又一銭半銭の報を得るに非ずしての事に当る」
この言葉は、戦後保守政界で重きをなし数次にわたる吉田茂内閣の下で司法大臣、法務大臣保安庁長官等を歴任した木村健太郎が、一九七八年四月一九日、卒寿の祝賀会の折、参列者に配ったものである。

P.333

それでは一体、なぜ、若泉は『他策』の公刊を決意したのであろうか。近代日本のもっとも傑出した外政家として若泉が尊敬していた陸奥宗光の回想録『寒寒録』中の言葉を書名に選んだことそれ自体が、若泉の胸中を映し出したものといえる。「他策」とは、沖縄返還という「国民的」大義を実現するには、「有事核再持ち込み」を約束する以外に選択肢がなかったというのが本義であるが、同時に自分の志は、本書を公刊する以外に伝える術はなかったのだ、という強い思いが込められていた。
(略)
第一は、外交交渉上やむを得なかったとはいえ、沖縄の人々の願望にそむく形で「“プ代償”を支払わざるをえなかったことへの責任感」(五四五頁)から、批判はもとより覚悟の上で事実関係をありのままに記録として残しておきたいとの意識、いわば賄罪感から来る動機である。
(略)
第二の理由として若泉は、戦後半世紀の日本は短期間で世界有数の経済大国へと発展したものの、それによって精神的、道義的、文化的に“根なし草”と堕し、“愚者の楽園”と化したのではないか、との“憂国”の念を一九七〇年代頃から深めていたことである。こうした祖国日本を叱咤するかのように若泉は、日本が大国にふさわしい矜恃をもって国家目標を設定し、諸外国に出向けてそれを提示することの重要性を一貫して説いてきた。
(略)
第三は、研究者としての記録の意義づけである。沖縄返還交渉に深く関与した当事者であると共に、若泉は客観的な観点から「私自身の言動とそこで知り得た事実」(著書冒頭の「宣誓」)を記録すべき語り部であり、かつ国際政治学専攻の研究者であった。
(略)
第四は、若泉は著作刊行により国家機密の守秘義務に反する国事犯として告訴される可能性があることを、十分視野に入れていたことと関連する。公刊により少なくとも国会(予算委員会、外交委員会等)での参考人招致を想定し、その証人としての発言の想を練り、きわめて限られた、彼が「同志」と呼ぶ人々の前でそれを独演してみせた
(略)
若泉著作については事前にその概要が「文芸春秋』六月号で紹介されたこともあり、沖縄では公刊前から大きな関心を集めていた。その概要の解題を執筆した保阪正康は、その結部の見出しを「歴史の『黒子』の誇りと悲しみ」とつけ、こう記述した。
「これほど自己を減しようとする感情と、歴史に生きようと覚悟する理性が葛藤している書を私は未だ知ら
ない」。

P.337

若泉がなによりも深甚な関心を寄せたのが沖縄の世論であり、購読していた「琉球新報』『沖縄タイムス』有力二紙の報道を、注意深
く追う日々が続いた。

P.339 若泉とも親しい国際政治学者宮里政玄

こう若泉の心情に同情を寄せながらも宮里は、「核の有事持ち込み」と「非核三原則からの除外」以外には、沖縄に対する日本の「他策」はなかったのかと問い、「なかったとすれば、それは日本が支払った極めて高価な代償であり、われわれは改めて沖縄返還の意義を問わなければならない」と提起する

P.340

以上概観したように、若泉著作の公刊直前から、沖縄の世論は官民とも「密約問題」をめぐって沸騰した。これに対し、本土の主要メディアの初発の動きは、若泉著作を正面から取り上げることはほとんどなく、沖縄の大反響と著しい対照をみせた。こうした現実を前に、『沖縄タイムス』(五月一六日)は、苛立ちを隠さぬ筆致で、『朝日新聞』は若泉著作の内容には「裏付けが必安」と書き、NHKは「密約疑惑」を追求するかどうかはコメントを控えるとの態度をとっている、と批判的に報じた(NHKは、一九九五年一〇月七日、「戦後五0年その時日本は第四巻沖縄返還/列島改造」と題した番組を放映した。キッシンジャーもインタビューを受けたが、肝心の点は明かすことはなかった。また若泉は、取材そのものを拒否した)。
(略)
皮肉なことに、直後の六月三〇日にはその村山が連立政権の首相に選出され、七月二一日の衆議院本会議において、新首相として外交政策の継続性を強調しつつ、日米安保体制を堅持すること、米軍落地の存在も「屈辱的なことではない」旨の発言を行った。具体的にはふれなかったものの、村山は外交の連続性を強調することで、羽削前内閣の「密約存在せず」論を踏襲したのであった。

第五章 余命尽きるとも(1994-1996)
P.352 国会における大出昌秀の質問.首相は小泉純一郎

若泉さんは、沖縄が返還されて後、政府の沖縄基地問題に対する解決策が思わしく進展していないことに対して半ば絶望的になりまして、晩年は大変悔やまれて、毎年沖縄の国立墓苑に、戦跡公開の国立墓苑にお参りして、沖縄県民に謝罪するということをされたわけですね。これは、毎年のようにそういうことをなさったわけです。

P.362 池田

「(略)沖縄百万の同
胞は、現に生存し、米軍の大軍事碁地の中にあって、戦後五十年を経た今日、いまだに苦難な生活を強いられている。そして若泉が裏切った人々とは現存の沖縄住民であって、被災して亡くなった一般住民の九万人、或いは日米両軍を合わせての二一万の戦死者・戦没者ではない筈である。
 若泉の“沖縄に殉ずる”と言う概念規定の中には大きな誤りが二つある。その最たるものは、沖縄の概念が日米両軍を含む二十一万の戦死者・戦没者の霊に限られている点である。そして殉ずるとは殉死と理解している点である。そしてこの結果として、若泉は、沖縄に殉ずると言いながら、現在生きている百万の同胞を完全に意識の埒外に追いやっている。現実には今日も尚苦難に喘いでいる沖縄県民、百万の人々を若泉は無視・放置したままである。これが若泉の沖縄に殉ずると言う純粋な心情が創り出す大きな矛盾である。若泉、それでよかったのか!と岩泉に言いたかった。」

P.368 若泉の私信より

二、拙著の「跋」にて私が使った二つのキーワード即ち“根なし草”と“愚者の楽問”についての御所感をお伺いし、“日本の理念”の構築に関する御意見を承りたい。

P.370 若泉の私信より

「日本と世界の現状と未来展望はそのようなお方の出現を一向(ひたすら)待望しております。それに立派にお応えになられるのが貴方丈の生与(仏与)の御使命であり、“高貴なる義務(ノブレスオプリージユ)”であります。」

P.371

 すでに述べたように若泉は、著作刊行が目前となったころからーそれは同時に己の病名を知った時とも重なるがー長男耕、次男核と事実上親子の絆を自ら断ち切ろうと意を決していた。「公と私」をストイックなまでに峻別する若泉は、自分の不動産、動産等一切を公的な機関に遺贈することを大義と考えるようになった。

P.385

現代の福井県が産んだ説学白川静は、橘曙覧の本質を「思想性が非常に強烈」であり、皇室尊敬、神国世界を自分の世界の中へ採り入れた歌人だと評する(『桂東雑記IV』)。
(略)
 だが何といっても、橘曙覧と最晩年の岩泉敬との興味つきない共振性は、「あるじはと人もし問はば軒の松あらしといひて吹きかへしてよ」という橘の歌に込められた狷介ともいえる精神のほとばしりである。ここは何よりも、白川静の含蓄ある、巧みな解説に耳を傾けたい。
「主人は今居らんと言うてね、追い返してくれというんですね。これは遁世どころの騒ぎではない。現実の生活を拒否するという、非常に強烈な態度を、彼は歌うている。彼の歌への第一の道が、まず現実を拒否する、現実を否定する、現実の価値的な状況を否定するということであったんですね。その決意が「あるじはと人もし問はば軒の松あらしといひて吹きかへしてよ』、『追い返してしまえ』という、非常に強烈な、捨て人の歌とも思えないような歌ですね。静かに世を捨てることができない、ここに彼が世を捨てた一つの契機、モチーフになったあるものが、私はあるというふうに思う。」
(略)
「彼[橘曙覧]のように清貧の隠棲に入りたい。吾が策志を堅持しながら孤高の沈思黙考をめざし、己の心耳を澄ませて生死(しょうじ)を超え魂に喚びかけてくる静かな祈りの声を聴き、心限を開いて真実の世界を観たいと思う。これが、私の負う歴史への結果責任を自ら執るため私の選んだ途である。」

P.389

なお、最終校正を終えた直後の二〇〇九年一二月二二日、「核密約」版本を故佐藤首相ご遺族が保管しているとのニュースが大きく報じられた。

【関連読書日誌】

  • (URL)“その時、若泉の耳朶にふれたのは、かつて激戦が展開された摩文仁(まぶに)の丘の戦跡を初めて訪ねた際、見知らぬ地元の男性から教えられた「むせびなく霊の声がこの丘にかすかにひゞく遠き海鳴り」という一首であった” 『「沖縄核密約」を背負って:若泉敬の生涯』 後藤乾一 岩波書店
  • (URL)「『細部まで徹底的に考証してほしい』と言われました。これは『危険な書』だとも」” 『若泉敬 知られざる「密使」の苦悩 (上・下)』 諸永裕司 週刊朝日 2010年03月21日号,26日号
  • (URL)『「沖縄核密約」を背負って:若泉敬の生涯』 後藤乾一 岩波書店
  • (URL)“「戦利品」であり、今後の世界戦略の重要拠点である基地沖縄を手放す意思など、米側にはまったくなかった” 『「沖縄密約」公開外交文書を読む(上)(下)』 澤地久枝 世界 2011年12月号 2012年 01月号 岩波書店

【読んだきっかけ】
【一緒に手に取る本】
NHKのドキュメンタリーから次の二書が生まれている.

沖縄返還の代償 核と基地 密使・若泉敬の苦悩

沖縄返還の代償 核と基地 密使・若泉敬の苦悩

”核”を求めた日本 被爆国の知られざる真実

”核”を求めた日本 被爆国の知られざる真実