“だから、一時間半ほどの長さのものが、意味を抜きにして「音」で体の中に入っている。その音が甦るたびに「ああ、こういう意味か」という再生が起こり、「なんでそうなるの?」という疑問も生まれる” 『義太夫節が体に入ってしまったので』 橋本治 波 2012年 08月号 新潮社

波 2012年 08月号 [雑誌]

波 2012年 08月号 [雑誌]

橋本治の『浄瑠璃を読もう』がついに本になった.少しずつゆっくり読もうと大切にしているのだが,これは,その著者本人による小文.文楽ファンの作家といえば,赤川次郎とこの橋本治がすぐにその名があがるが,なぜ浄瑠璃に入れ込んでいるのかは気になっていた.

 なんでそんなことになったのかというと、二十代の初め頃に義太夫節のレコードばっかり聴いていて、「大曲」と言われる『仮名手本忠臣蔵』の九段目とか『妹尾山婦女庭訓』の山の段を、勝手に諳んじてしまったからです。十代の頃にはブロードウェイミュージカルを買って、曲を覚えて勝手に歌っていたのが、義太夫に移行しただけです。
 私は、歌舞伎というものを「バカバカしいから好き」と思っていたのですが、同じ歌舞伎でも義太夫狂言はそうじゃない。見ていて眠っちゃう。これじゃだめだと文楽の公演を見に行って、それでも眠っちゃうので、「そこに没入して体を馴染ませる」という方法論を取っただけです。
 だから、一時間半ほどの長さのものが、意味を抜きにして「音」で体の中に入っている。その音が甦るたびに「ああ、こういう意味か」という再生が起こり、「なんでそうなるの?」という疑問も生まれる。二十代頃に「封建論理」でもるようなものを体に入れて、「なぜ?」という自問自答を繰り返していたので、その結果分かった「美しい論理」を述べさせて欲しいと思っただけです。

浄瑠璃が音で体に入ってくるという感覚は,何度か文楽を観にでかけていると,たいへんわかる気がする.心地よいのです.上の文章は,橋本治が,「ストレートの直叙体の文章が退屈で苦手」で「平気で文章に捻りを加えてしまい」,「テニヲハがおかしいと校正者に疑問を入れられる」理由として述べられたもの.もじどおり体に染み込んでいるのだ.文章の捻りは三味線の節付けみたいなものなんだそうである.
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