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“自己反省を持つ人にあっては「知ることは超えることである」ということを信じたい。そして、ふたたびかかる悲劇への道を、我々の日常の政治的決意の表現によって、閉ざさねばならないと思う” 『夜と霧――ドイツ強制収容所の体験記録』 V.E.フランクル, 霜山徳爾訳 みすず書房

夜と霧――ドイツ強制収容所の体験記録

夜と霧――ドイツ強制収容所の体験記録

この旧訳(霜山訳)は高校時代に読んだのだが,先日新訳(池田訳)を読んだ折り,高校時代は,どこにラインマーカを引いたの知りたくなり,書棚をあさるも見つからず.やむを得ず,もう一度買ってしまった.初版第1刷は1956年8月15日,新装版第1刷は,1985年1月22日,手元の本書は新装版第42刷で,2012年7月13日.読み比べてみて,確かに新訳の方が,こなれた文章で読みやすい.旧版の大きな特徴は,出版「者」による序と解説と写真が付いていることであろう.初版出版時の1956年,ドイツ強制収容所のことが,日本国内でどれくらい,どのように知られていたかは定かではないが,歴史的事実として起こった(人間がおこした)出来事を,正確かつ冷静に伝えたいという,出版者の意思が感じられる.
帯から

〈評する言葉もないほどの感動〉と絶賛
朝日新聞)された史上最大の地獄の体験
の報告。人間の偉大と悲惨さを静かに描く

出版者の序より

 我々がこの編集に当たって痛切だったのは、かかる悲惨を知る必要があるのだろうか?という問いである。しかし事態の客観的理解への要請が、これに答えた。自己反省を持つ人にあっては「知ることは超えることである」ということを信じたい。そして、ふたたびかかる悲劇への道を、我々の日常の政治的決意の表現**によって、閉ざさねばならないと思う。

「表現のところには,次のような註が付いている

** 1945年原爆の広島・長崎投下に始まる原水爆時代の相貌は新たな悲劇の可能性の展開を感じさせるに充分である。45年の事件でさえ、その目的は戦争終結よりも、むしろ大国間の冷戦の一作戦であったと理解されている。(ブラケット)新しい機会時代における技術を政治との相関は大きいので、ここに政治装置に反映する人間の意思と努力の重大な責任を思わなければならぬ。

 書店では,今でも新訳,旧訳が並べて売られている.こういうことは珍しい.
 新旧訳版で確認してみたかったおとがもう一つある.それは,旧訳だと,P. 135ページにでてくる

そしてその意味する所は、誰かが「回教徒」になっても、一直線にガスの中に連れて行かれないで、アウシュビッツへのいわゆる病人輸送が編成されて始めて連れて行かれるということであった。

ここで,新旧訳とも,訳注なしで,「回教徒」という言葉がでてくることである.少なくとも,最近まで,『アウシュヴィッツの〈回教徒〉』(柿本昭人著,春秋社)が出版されるまで,この言葉の意味を知らなかった.
【関連読書日誌】

  • (URL)“何千もの幸運な偶然によって、あるいはお望みなら神の奇跡によってと言ってもいいが、とにかく生きて帰ったわたしたちは、みなそのことを知っている。わたしたちはためらわずに言うことができる。いい人は帰ってこなかった、と” 『夜と霧 新版』 ヴィクトール・E・フランクル 池田香代子訳 みすず書房
  • (URL)心理療法には、どうしても譲ることのできない点がある。それは、人間というものは、憎しみを分かつためではなく、共生共苦の慈悲を分かつために生まれてきた、ということである” 『素足の心理療法  (始まりの本) 』 霜山徳爾, 妙木浩之[解説] みすず書房

【読んだきっかけ】
多分,朝日新聞天声人語か,既に出版されていた『深代惇郎天声人語』.当時(高校生時代だから,1977年頃)のベストセラー.
【一緒に手に取る本】
新訳はこちら

夜と霧 新版

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NHKテレビテキスト「100de名著」,解説は諸富祥彦(明治大学教授),2012年8月である.これでは,霜山訳が使われている.
フランクル『夜と霧』 2012年8月 (100分 de 名著)

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それでも人生にイエスと言う

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アウシュヴィッツの〈回教徒〉?現代社会とナチズムの反復

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