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“日本の国民にはわからないけれど、北朝鮮、韓国、中園、ロシアとは本当に仲良くしておかなければ、将来日本の国は危ない” 『聞き書 野中広務回顧録』 御厨貴, 牧原出 岩波書店

聞き書 野中広務回顧録

聞き書 野中広務回顧録

抜群に面白い.一人の政治家の思いが,時代の流れに沿って,回想という形で語られる.聞き手,というより聞き出し手がいることによって,適切な形で誘導と整理が行われる.いわゆる,オーラルヒストリ―の一冊.こうした書物の魅力は,いわゆるノンフィクションとは一線を画し,事実として起こったことを確認しつつ,その時,当事者として何を感じ,何を考えたかを聞き出すこと,そして,普通の取材では記事にならないような,そのひとやその周りの人の人間性に触れるような知られざるエピソードを聞き出されていることであろう.
牧原出氏による「オーラルヒストリーを終えて」より

今回新たに野中さんにオーラル・ヒストリーに臨んでいただくにあたって、これまでの記録とは別の新しい聞き取りでなければならないし、毎回野中さんの闘争心をかきたてるようなやりとりになってもいけない。いかにして史料的価値のある聞き取りを進められるかを考えつつ、ささやかではあるが次のような工夫を試みた。第一に、主として三十代の若手研究者による聞き取りとした。(略)第二に,国会の議事運営,選挙運動の実際、派閥の運営,自民党の役職の意味など、マスコミの政治記者を含めた広い意味での政界の常識と思われることについて,一つ一つ野中さんの考えを尋ねていった。

目次

第一章 国政に出るまで
第二章 創政会の旗揚げとの誕生
第三章 竹下・宇野・海部内閣時代
第四章 「政界の狙撃手」
第五章 「野党・自民党」の闘い
第六章 「自社さ」村山内閣の誕生
第七章 「戦後五十年」と危機管理ー自治大臣国家公安委員長として
第八章 橋本内閣を支えて
第九章 普天間問題と橋本行革
第10章 悪魔にひれ伏してでもー小湖内閣官房長官時代
第11章 小渕首相、倒れる
第12章 神の国発言・加藤の乱えひめ丸事故―森内閣の退陣まで
第13章 小泉内閣時代と政界引退

第七章 「戦後五十年」と危機管理

公安委員会も、破防法を適用すべきだということで申請したんですが、公安審査会が、オウム真理教は再び立ち上がることはないからこれを適用する必要はないということで、残念ながら破防法は適用されませんでした。いま顧みて、破防法を適用しなかった傷跡が、いまなお多くの犠牲者の上に残っていると思って、残念に思っています。
 ―破防法適用というのは、警察庁の官僚、警察官たちが考えたのでしょうか。
いや、これは僕が言い出したんです。

野中は,国鉄出身である.但し,国鉄官僚でもなければ,いわゆる組合出身でもない.

一番苦しんだことは、戦争で引き揚げてきた三百万人のうち、当時の国鉄が二十八万人の引揚者を引き受けたことです。華中、華北、朝鮮、満鉄、タイからミャンマーに入っていく泰緬鉄道、これは国鉄職員として採用されながら向こうに行かされた連中ですが、そこから帰ってきた人が相当あったと思います。あのとき国鉄が引き受けていなかったら、とてもその後の日本の発展はなかっただろう。特に三十九年のオリンピックで、新幹線・高速道路(東京大阪間)を走らせるようなことはできなかっただろうと私はいまでも思っています。

第八章 橋本内閣を支えて 橋本龍太郎元首相について

だけどね、何のときか思い出せないんだけれど、橋本さんが僕に「君は橋本というのは味も素っ気もない冷酷な男だと思っているだろう」と言う。「そう思っている」と僕が言ったら、「こんなのは言い触らす話じゃないけどな、野中さん、あんたはな、俺によくいやなことをズパッと言ってくれるから、聞いてくれよ」と言って、「いま入院している母親は、俺の母じゃないんだ。大二郎の母なんだ。だから親父が、お母さんと呼べ、と言うけれど、俺は絶対に頑固に呼ばなかった。六っかそこらになったときに、いっぺん自分で腹を決めて、「お母さん」と言った。聞いた母親がびっくりして、仏壇の位牌と写真を指して、「あんたのお母さんはあそこにおる」と言った。そのときに、何を言いやがると思った。自分は呼ぶのがいやでいやでおったのを、父親がそこまで一言うからと思って言ったのに、あんたのお母さんはそこにおると位牌と写真を指されたときから、本当に俺は人聞が変わった。そして生意気な、いけずっぽい言い方をする人間になってしまったんだ」と、やや涙ぐんで僕に話したことがあります。
 その話を聞いてからは、本当に彼を助けてやろうという気になりました。僕が最後になってこの人に惚れたのは、そういう問題があったからですね。意外なところがあるな、と思った。

野中は沖縄とのつきあいも古い.京都府町村会長のころ

京都府の各団体、市町村、京都府商工会議所、その他京都新聞社もおりましたが、それらが寄って、沖縄の摩文仁の丘に慰霊塔をつくろうということが始まった時期です。京都の犠牲者もおるので、慰霊塔をつくろうじゃないかということになりまして、「若いあんたがいっぺん先に行って見てきてくれよ」というので、私が行きました。
 そして聞いたら、二五00名余りの京都の人がかたまって、最初に米軍が上陸してきた宜野湾の嘉数の丘で全員が死んだんです。だから摩文仁の丘より、京都の人が喜ぶのは宜野湾の嘉数の丘でしょうというので、タクシーに乗って、宜野湾の嘉数の丘まで行ったんです。
 行きがけに、宜野湾の町に入ってしばらくしたら、運転手がグツと止まって俯いて、ハンドルを持って身体を震わせているんです。「なんだ、運転手さん」と言ったら、「あ、あそこのサトウキビ畑のあの畦道でうちの妹が殺されたんです。それがアメリカ軍じゃないんです」と言って、涙をバーッと出して泣くんだ。僕はびっくりして茫然として、四、五十分経ったでしょう。その人が「お客さん、すいませんでした」と言うので、「いやいや、大変気の毒な話を聞いたけれど、やられたのが日本軍だったというのを聞いて僕は愕然とした。大変な犠牲になったけれど、頑張って残された人たちでやってくださいよ」と言って、宜野湾の山の下まで連れて行ってもらった。

僕は一緒におったから。機が熟したアメリカの戦略であったかもしれないけれど、しかしいったん基地にしたのを返すというのは大変なことだ。しかし、辺野古というところがあれぐらい難しいところだとは僕らも思わなかった。それからたびたび行くようになって、辺野古にも行き、辺野古の民情にも触れた。陸上を使うものと、ちょっとしたところを埋め立てるのと、海上に不沈船みたいな船を浮かべるのと、計画がパlッと出て来たんですね。それが三分して運動になった。僕は辺野古に行って見てみようと思って調べたら、大手のそれぞれの業者から、辺野古の在所に全部金が打たれている。だから三つの反対派ができているんです。

第九章 普天間問題と橋本行革

あのとき、私が安易に東西に分けたらいいなと言ったのは、あんまり巨大な組織はよくないと思ったからそう一言ったんだけれど、NTTの現状を見ていると、やはり東西に分けたのはよくなかったんじゃないかな、一つで置いておいたほうがよかったんじゃないかな、という思いが、いまはしています。

沖縄をずっと心配して押さえてきたのは、この当時は鈴木さんでしたからね。北海道、北方領土と沖縄をきちんとやっていこうということですね。
 ― 野中さんのこれまでのお話では、あまり沖縄をきちんと見る本土側の国会議員はいなかったということですが。
いなかった。本当に情けなかった。
 ― 鈴木宗男さんは例外というか、北海道だから、ということもあるんでしょうか。
それと、沖縄に後援会まであった。あれは下地幹郎君がつくったんだと思う。

しかし、いま検証しておったら、当時二人の男が三塚さんのところに行って、アメリカ政府の意向として、「郵政の改革は二年後でいい、それより郵貯の運用を変えてくれ」と一言って、OKを取っるんだな。一人はもう死んだけれど、一人は現職で郵政反対の先頭に立っている。いま現職で、よくあんな顔をしておるな、と思う。しかしアメリカで勉強してきたやつは危ないな、と思ったね。

第10章 悪魔にひれ伏してでもー小湖内閣官房長官時代

一番困ったのは沖縄ですね。小測さんの沖縄への思いも強い。それは早稲田の学生の頃からですからね。私も沖縄にはずっと当選以来関わってきた人間ですから、沖縄には思いがありました。関係各省がプロジェクトをつくって、サミットに名乗りを上げていた八カ所について点をつけて持ってきました。私と小測さんが預かって見たら、沖縄は八位なんですね。何から見ても沖縄は無理という状況だった。外務省以下、その通りに出してきたけれど、私は「総理、二人で相談しましょう」と言って相談しました。小測さんは、「順位はつけてあるけれど、決めることはできるんだから、沖縄でどうだい」と言われた

とにかく参議院がこんなことではしょうがないということですね。そういう点では僕は、安倍、福田から麻生までの時代、三分の二の議席を持っているんだから大丈夫なんだ、参議院で否決されようが大丈夫なんだ、という自民党の思い上がりが、今日のこの状態を招いたんだな、という気はしていますね。
(略)
ずいぶんやりましたよ。また、難しいんだ。小沢さんの独創的なところもある。あの人は細かい政策については言わない。ところが、国家の有り様とか、防衛の在り方とか、そんなことよく言うな、というようなことを言ってくるわけです。例えば日韓議連で合意した外国人参政権の問題なんかは、小沢さんも合意して法案として出て来たのに、途中で引き上げてつぶしてしまったりしている。でも、いまそれを民主党のマニフエストに入れておるでしょう。まあ、変わる人だな、と思って僕は眺めているんだけれど。僕は、あの人は政局に強いと思うが、政策には一貫性がない。どう考えているのかわからんのです。

第11章 小渕首相、倒れる

そのときに、東海村のJCO臨界事故が起きたんだ(一九九九年九月三十日)。科技庁が、昼から三時頃になったら落ち着く予定ですと一言っていたのが、二時頃になって、またひどくなってきましたという。「お前ら、いつ技術者を遣ったんだ」と言ったら、「先ほど列車で遣りました」と一言うから、「馬鹿野郎!」と僕は怒った。「なんでそんなことを言わんのだ。警察であろうが防衛庁であろうが、どこでもヘリを飛ばして技術者を送れるじゃないか。なんでそんなことを言わないんだ」といって僕は怒った。

第12章 神の国発言・加藤の乱えひめ丸事故―森内閣の退陣まで

それは僕に出ろと言ったときから、地方の議員がもっと出てくるようにしろ、ということですね。このまま二世、三世ばかりが出るようになったら(自分も結果的には弟を出したけれど)、やがて日本はおかしな固になってしまう。もっと地方のことを知った人間でなければいかん。選挙区事情に慣れて親の跡を継ぐのならいいが、そうでないのは駄目だ、と一言っていた。地元の島根県でも竹下登を見る目と竹下亘を見る目はやはり違いますね。

加藤の乱

あれについて、僕が情報社会になってきて一番心配するのは、「加藤の乱」と同じことがこれからも起きるのではないか、ということですね。インターネットの書き込みを見ていると、書いた人の名前はわからんけれど、憎々しくてしょうがないという人と、{寸らなければならないという人と両方に分かれていますね。これは一人でいくつでも出せる。そういうものを見ると、これからの情報社会は、ここに何かラインを引いておかなければ危ないな、という気がしてならない。それが加藤さんが最初におかしくなった原因ですね。加藤さんに、「いま頃、おまえは何を言、っとるんだ」と言ったら、「おまえは知らんのか。
このごろのインターネットの書き込みを見てみろ。俺のところだけでも何万と来る」と言う。「そんなことで物事を決められるか。おまえのところにどんなに書き込みが来たといっても、回でも書けるんだ。何をいっているんだ」と僕は言ったことがある。

第13章 小泉内閣時代と政界引退

三カ月ほどしたときに、歴代幹事長会議というのがあったんですね。平成十三一(二OO二年七月の参議院選挙の前でしたか。そのとき私は小泉さんに、「あなたは、改革を一言うなら、いまやりかかっている神戸空港の工事をやめなさい。それから、実施しようという計画の静岡空港をやめなさい。そうしたら本当の改革だ」と言ったんです。そうしたら、「神戸で空港をつくっているのか?」と一言う。「知らんのか。神戸ではもう埋め立てをやっているんだ」と言ったら、「おかしい」と一言っていた。「あそこは物流拠点としてなんぼでも利用できる。伊丹だけでも今は閑散としていて、しかも関西空港の足を引っ張っておるのに、あんなところに空港をつくったら、そんなもの、絶対に駄目だ」と言ったら、「そんなことは知らなかった。静岡とは何だ」と言っていた。全般的にはそれほど深みのある視野を広げていないのだな、ということを感じました

そのあと、私は中国の士口林に行ったときに初めて知ったのですが、このときに北朝鮮と交わした覚書がほとんど履行されていないことがわかった。米は何トン送る、医薬品はどれだけ送る、とずっと細かく書いて、国交回復をしたときの金額まで書いたものを、政府関係者が向こうの高官と調印しているんです。これを小泉氏は隠して言わない。日朝間の現在のこじれの始まりはそこにある

北朝鮮はものすごく外交に長けた固です。何もない中であそこまで生き抜いてきた国だけに、したたかなものです。僕は平成二(一九九O)年に行ってから、平成十一(一九九九)年の村山訪朝まで八回行きました。日本の国民にはわからないけれど、北朝鮮、韓国、中園、ロシアとは本当に仲良くしておかなければ、将来日本の国は危ない。一極にダーッと流れていく日本人のこの民族性は危ないと思って、北朝鮮とはなんとか仲良くしておきたいと思ってやったけれども、駄目でした。

― どうして小泉さんが日本の総理大臣として初めて北朝鮮に行くことになったんでしょうか。
あんなに恐がりで脅える人聞があそこまでちゃんとやろうとしたのは、よほどの土俵がつくってあったからだと思うな。

ー 竹中平蔵さんについておうかがいします。内閣発足以前に竹中さんはご存知でしたか。
知りません。政府の会議などで自分の論法をガンガンやっていた人、という印象です。
ー その後有名になるわけですが、小泉構造改革の中心的な人ですね。
そうです。
― そういう竹中さんを、野中さんはどういうふうにご覧になっていましたか。やはり、けしからん、ということになるわけですか。
野中国をあやうくすると思っていました。またオリックスにも同じことを感じました。
― 宮内義彦さんですね。内閣が始まった当初はまだそういう印象はありませんでしたか。
それまでにもう委員をしていましたからね。
(略)
それと、ォリックスとかが具体的にやっていくビジネスが一つずつ政策として現われてくる。自分たちの利益に結びつくような規制緩和をやっていく。こちらから見ているとそうなっている。政策がそういう個人の姿に変わっていく。そこに私は憎しみを持っておった。正義の味方みたいに一人でふる舞っていながら、裏ではこういうことを考えているんだと。

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【読んだきっかけ】
【一緒に手に取る本】

野中広務 差別と権力 (講談社文庫)

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老兵は死なず―野中広務全回顧録 (文春文庫)

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野中広務 権力の興亡 90年代の証言

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