“商業演劇と小劇場を行き来しようとして批判される理由もわからなかった。人とは少し違う場所から“演劇”を見通していただけなのに” 『蜷川幸雄 人生に乾杯 26』 中村千晶 週刊朝日 2012年9月21日号

週刊朝日のインタビューシリーズ,今回は蜷川幸雄.蜷川の名前を知ったのは,英国で好評を博して,まさに世界の蜷川になった頃,1980年代だったろう.だから,既に,蜷川は,私にとって,大家であり,大御所になっていた.ところが,最近になって,蜷川の芝居をいくつか観て感じるのは,色濃くでる「アングラ」の匂いである.それに惹かれて蜷川演出を観てみようと思うことがおおい.あたりもあれば,はずれもあった.これを読んで,なるほど,これが蜷川のルーツかと納得した.もちろん,演劇に詳しい人にとっては周知のことだろう.メディアから知る蜷川(世界の!)のイメージとは大きく違うのである.
サブタイトルに

僕の芝居は「観客の人気ベスト1」で
「批評家のワースト1」だった

メンコとは嫌い.子どものころから周りの子と違っていた。
高校で落第、東京芸大に不合格.2度の挫折を経て俳優に。
演出家に転進を図ったが、当時の演劇界には受け入れられなかった。
一方、自分は世界レベルで仕事をしていると、妄想に近い自信はあった。
その通り、海外に出て評価され、「世界のニナガワ」となった。

川口市出身で中学高校は開成.青俳に入団するも役者をあきらめ,演出家へ転進.30の頃.「男は夢がないと生きていけないんだよね。いいわ,養うから」という妻(女優真山知子)のセリフいい.最初は小劇場からスタート.東宝の中根公夫プロデューサーと出会い,商業演劇へ.

 しかし最初はね、闘争ですよ。まず俳優がセリフを覚えてこない。なめられてるんですよ。(略)
 そりゃ灰皿も飛ばすし、物もぶつけますよ。そのくらい当時の演出家は俳優にとって地位が低かった。僕が物投げた翌日には、森繁久弥さんの劇団でも「なんか新宿からきた若い演出家がはりきっているらしいぞ」とうわさになっていた。

「王女メディア」で国際的評価を得るのは,1983年以降.50歳に近い頃.

闘う相手は常に自分だった。新宿時代も、一歩先に時代の終わりが見えていた。商業演劇と小劇場を行き来しようとして批判される理由もわからなかった。人とは少し違う場所から“演劇”を見通していただけなのに。

新作「騒音歌舞伎 ボクの四谷怪談」は,76年に橋本治が書いた戯曲を36年ぶりに“発掘”したものだ。

 今回は尊敬するプロデューサーから依頼されて、よし、やってみようか、と。演出家にとってプロデューサーとの出会いは大きいですよ。「身毒丸(しんとくまる)」で藤原竜也を起用したのも、ホリプロのプロデューサーと出会ったから。それで自分が違う場所に行けたし、自分が活性化し始めた。
 僕は自己模倣だけは絶対にしたくない。でも自分一人じゃ変えられないし、自分の能力の限界も骨身に染みてわかっているんだ。そういうときに彼らプロデューサーは、僕に違う場を用意してくれるんですよ。

【関連読書日誌】

  • (URL)瞬発力と集中力と持続力を身につけて、知性と品性と感性を磨く。磨いて、磨いて、磨きつづける。あるとき、ふっと深い霧が晴れるように、何かが少しだけ見えてくる” 『私 デザイン』 石岡瑛子 講談社
  • (URL)生きていくことは、 後悔と溜め息を重ねていくこと。 それでも、生きていくことを、 自分からは辞めてはいけない。” 『深呼吸する惑星』 鴻上尚史 第三舞台 封印解除&解散公演パンフレット
  • (URL)男にも女にもいろんな生き方があり、いろんな幸せがあるのだということが、この国の常識になるのはいったいいつの日だろう” 『如月小春は広場だった―六〇人が語る如月小春 』 『如月小春は広場だった』編集委員会(西堂行人+外岡尚美+渡辺弘+楫屋一之) 新宿書房

【読んだきっかけ】
【一緒に手に取る本】

身毒丸 大竹しのぶ・矢野聖人 [DVD]

身毒丸 大竹しのぶ・矢野聖人 [DVD]

蜷川幸雄の劇世界

蜷川幸雄の劇世界

蜷川幸雄と「さいたまゴールド・シアター」の500日―平均年齢67歳の挑戦 (平凡社新書)

蜷川幸雄と「さいたまゴールド・シアター」の500日―平均年齢67歳の挑戦 (平凡社新書)

演劇ほど面白いものはない 非日常の世界へ (100年インタビュー)

演劇ほど面白いものはない 非日常の世界へ (100年インタビュー)