“こうした公界に生きる人たちは、あらゆる分野と階層のなかで、表面的には武家政権に逆らうことなく平和に活動しながら、禁裏御用を務める自由民であったのだ” 『口伝解禁 近松門左衛門の真実』 近松洋男 中央公論新社

口伝解禁 近松門左衛門の真実

口伝解禁 近松門左衛門の真実

帯びに「三百年の禁を破って,九代目が明かす,近松家の謎」と,やや扇動的な文言があって,ちょっと要注意かなと,ちょっと読みかけて放ってあった.子孫であるが故の,思い入れや,思い込みもあるに違いないし,一般読者の関心とはちがうところで,熱くなる部分もあるだろう.ひょっとして「とんでも本」かもという危惧も持ちつつ,しばらくおいておいた次第.
 映画「浪花の恋の物語」を観たのをきっかけに,あらためて手にとり,読み通したのだが,これがなかなか面白い.近松の生涯は数々の謎が残っていて,長い間議論の対象であったらしい.ただ,ネット検索してみる限りにおいて,本書の内容には異論も多数あるらしい.「口伝」に内容は,そもそも学問の対象にならない,ということで学会からは本書は無視されている,という記述もある.
 ともあれ,近松赤穂藩と関係,近松とスペインの関係など興味深い.それだけでなく,長らく京都に在住していた(と思われる)著者だからこそかける京都の深い風土に関わる記述も興味深かった.京都独特の風土,文化,因習をうかがわせる部分,は,網野善彦著作を思い起こさせる.
P.16

なぜ近松家では、近松門左衛門の子孫であることが「口外無用」とされてきたのであろうか。理由は大きく二つあると思う。詳しい経緯は後述することになるが、一つには、赤穂義士近松勘六の二人の遺児(文四郎当歳、げん七歳)を養子としたのが、その当時の政治的状況から「極秘」にせざるをえなかったことに尽きる。義士の遺児に対する処分は厳しく、もし発覚した場合は、お各めを受けることが必定だった。そのため、世間に向け、近松文四郎の出自は口外無用が家訓となったのであろう(22ページ参照)。
 もう一つの理由は、明治維新の前夜、公武合体運動の密議の場として勤皇志士が出入りしていた京都近江屋(近松安兵衛が館主)に対して、釈際組や思酌組からの有形無形の圧力は強く、近江安の本館は放火によって全焼させられてしまった(204ページ参照)。

P.23

いまは鯖江市に編入されている吉江をあとにした杉森一家は、京都への途上、新庄村の菩提寺に逗留し、一家の身の振り方を住職と話し合った。兄智義と弟一抱は母方の祖父岡本為竹の世話で医者修業と決まり、次郎吉は不罵奔放な性格で医者には不向きであり、武士としての道を歩ませるべく、為竹の親友であった近松伊看の許へ養子として出すとの結論になった。次郎吉十二歳、養家にはいる前に元服し、やがて近松門左衛門となる近松平馬が誕生した。

P.32

とりわけ門左が驚嘆したのは、禁裏方のすべてにわたって裏から大きく支えている不可思議な世界の存在に気づかされたことである。天皇家をお守りしているのは、皇族方や公家衆だけではなく、武家によって支配されている土地所有者や農民以外の人々のなかに、御所に出入りする町衆、職人、僧侶、医師、神職、芸能などによって形成されている「公駅」と呼ばれる世界があることを知ったのである。
 この公界に生きる人々は、「上ナシ」と称して天皇以外の権力を認めようとせず、その地の大名や豪族、領主の直接的な支配を受けないで自由な通行と自立的な活動が保証されていた。一つのの例を挙げると、鋳物師(いもじ)という職人集団は、鉄生産や鋳造技術によって、需要のある領国から領国へと居場所を転々としながら、幕藩体制の枠を超えて活動していく。そして彼らは特定の大名領国に所属することなく、天皇家へ供御する義務と権利をもっとともに、蔵人所(くろうどどころ)の燈炉供御人(とうろくごにん)ともなるわけである。
 こうした公界に生きる人たちは、あらゆる分野と階層のなかで、表面的には武家政権に逆らうことなく平和に活動しながら、禁裏御用を務める自由民であったのだ。

P.47

江戸に居を構えた徳川幕府は、上方塩に圧倒される状況を改善し、なおかつ江戸への塩供給を安定させるため、江戸川河口の行徳で塩田開拓を奨励したが、梅雨と台風のたびに流出し、紀州の湯浅から銚子へ醤油製造を移したり、摂津の依がら荒川の佃へ住民を強制移住させて佃煮を製造して成功したようなわけにはいかなかった。

P.59 このあたりは本当なのだろうか,この塾は,高観音近松寺にあったらしい.禁裏を支える裏御用が塩業だったという.

この「塩の道塾」で門左は驚くほど卓越したスペイン語の習得を為し遂げ、同時にスペイン文化の奥深くまで熟知してしまったのである。セフアルディー老師やユダヤ系カタラン人の棄教修道士によって教科書代わりに与えられたのは、スペイン・ルネッサンス詩劇集だった。スペイン語の読み書き、スペイン語原典の判読鑑賞、さらには朗々と原語で詩劇を語り、歌曲を歌い、演技さえして見せた。

P.86
赤穂義士近松勘六の子を秘かに養子としたこと,江戸期における門左の評価が有名戯作者の域にとどまっていたこと,商家となった近松家は門左以降も尊皇思想を堅持し,維新のお膳立てに参加していたこともあって,

かくして京都近松家は、初代の文四郎宝浜恭征以来二百五十年以上にわたって、門左と勘六の関係を伏せ続けて今日に至った。だからこそ、わが近松家の口伝は、抑えに抑えられていた故に、より真実そのものを伝えているのである。

P.144 江戸城刃傷事件

この事件の裏には、繁栄し、大きな収入源となっている赤穂藩の塩業に対し、将軍綱吉と吉良義央の幕府側が強引に製塩技術と塩販売の利権譲渡を要求したという、先に指摘したような知られざる事実が隠されていたのだ。

P.148 藩札の引き替え

この藩札六分替えは、赤穂浅野家のこれ以後の評判を高め、さらには翌年の吉良邸討ち入りまでの世論を有利に導く元となった。とくに大坂商人たちの評価は高く、改易になった数多くの大名家が発行した藩札や負債の処理を踏み倒す例が多かったのに比べ、赤穂浅野家は律儀にも六分替えを実施し、藩内外の迷惑を最小限度に食い止める結果となった。

P.158

これまで門左と赤穂義士の関係は『兼好法師物見車』と『碁盤太平記」を描いたという接点だけが認められており、筆者のように門左と近松家、門左と禁裏、門左と赤穂藩、門左と大石良雄、門左と勘六などを関連づけた指摘はほとんどなかった。そこで吉良邸への討ち入りにまつわる一つのエピソードを改めて披露しておきたい。

P.175 鄭成功義和団の乱から素材をとったのだ.

そうした努力の結晶ともいうべき作品が、翌正徳五(一七一五)年十一月に上演された『国性爺合戦(こくせんやかっせん)』であった。これが門左にとって時代物浄瑠璃の代表作となり、竹本座にとっても三年越しの十七カ月関連続興行という大記録を樹立する作品となったのだ

P.200

またもう一つは、弱い立場にいる人、権力や権威によって理不尽にも押し潰されようとする人たちに対する、門左の限りなく優しい視点が挙げられる。門左の「世話物」や「時代物」の主人公に、遊女や心優しい男たちが選ばれたのは、そのためである。門左の有名な世話物の『冥途の飛脚』には、次のような一節が書かれている。
  「傾城(けいせい)公界物」
  「三人寄れば公界 忠兵衛が身代の棚卸しゝてくれる忝(かたじけな)い」
 これまでにも指摘してきた「公界」という言葉を門左自身が使い、弱い立場にいる人たちも仲間であることを宣言しているのである。

【関連読書日誌】

  • (URL) なぜそのような複雑さを帯び、なぜわかりづらいのかを知ることによって、「そういうものなのだ」という、おそらく江戸期の庶民が皆抱いていたであろう納得は、我々の中にも深く落ちていく” 『浄瑠璃、大阪、新地の女』 私の読書日記 酒井順子 週刊文春 2012年9月20日号
  • (URL) 我が国においてエロスの問題、つまり色恋沙汰は、詩的関心事ではあっても、長らく宗教的な関心事ではなかった” 『神奈川芸術劇場 「杉本文楽 曾根崎心中」 上演台本+解説』 杉本博司近松門左衛門神津武男 公益財団法人小田原文化財団発行

【読んだきっかけ】
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【一緒に手に取る本】

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