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“若沖は絵を売って生活をする画家ではなかった。しかし、注文がひきもきらずになったとき「斗米庵」と称して、一斗の米代で売るという行為の背景に、売茶翁のすがたをうかうことは、もはや当燃のことというべきだろう” 『若冲 ――広がり続ける宇宙 Kadokawa Art Selection (角川文庫) 』 狩野博幸 角川書店

若冲ブーム仕掛け人といわれる著者による書.文庫本で読めるというのは,大変な贅沢である.
異才若冲は,巷で言われるような奇人でも変人でもなかった.その生きた時代背景とともに語られる若冲の世界.18世紀の京都,大阪の文化.
これまでの若冲像は,相国寺の大典顕常和尚が残した文章によるといわれる.
P.47

 大典のかたわらにいた人物こそ、源左衛門のすべてを決したひとだった。
 ふつうには売茶翁(ばいさおう)(一六七五−一七六三)と呼ばれる、ただの爺さまがそのひとである。“売茶”を「ばいさ」と呼ぶのか、あるいは「まいさ」とすべきなのか。その伝記をおさめる伴蒿蹊(ばんこうけい)の著『近世畸人伝』(一七九0年刊)では「ばいさ」とルピを振っているが、本人が生きていれば「そんなこと、どうでもいいさ」といりたにちがいない。
 かれはいまの佐賀県の東、肥前の蓮池に生まれた。柴山氏。蓮池は鍋島家の支藩であり、黄葉宗の龍津(りゅうしん)寺は鍋島家の庇護のもとにあったが、かれはその龍津寺の化霖(けりん)和尚に就いて得度した。僧名どしては月海元昭(げっかいげんしょう)どいう。十七世紀半ばに渡日した名僧・隠元(いんげん)によって開かれたかれた京都郊外の宇治の黄檗山(おうばくさん)萬福寺は、代々中国僧が住持を務めたため、日本のなかでもっとも中国本土と近い文化的雰囲気を保持していた空間だった。

昨年知った謎の宗教が「黄檗宗」.そのお寺が「萬福寺」.こんなところで出会うとは!.
昨年9月,文楽劇場で行われた公演「萬福寺の梵唄 〜黄檗・禅の声明〜」(URL)(出演:黄檗宗大本山萬福寺).文楽劇場を一日占有して行われた,萬福寺の梵唄とはいったい何か?
そしてまた,昨年7月九州国立博物館の館内ツアーでのこと,H23年に行われていた特別展「黄檗」(URL).長崎には黄檗宗の寺院が多いという.

 黄檗僧・月海元昭の法師・化霧は、萬福寺第四世住持を務めた独湛(どくたん)の弟子であったから、月海は幼いときから化霧とともに高福寺にのぼった。さらに二十九歳で萬福寺にのぼった月海は三十三歳のとき龍津寺に戻り、師の化霧の示寂を見届けたのちに住持となり、ちょうど五十歳を迎えたとき、法弟の大潮元皓(だいちょうげんこう)に龍津寺の住持の職を譲って、僧職を捨てる。支藩とはいえ、大名の庇護を受ける寺の住持であり続けることを、要するに拒否したのである。
 月海元昭は臨済・曹洞の二禅を極め、さらには律学をも修した当代一流の僧、知識人であった。そのかれが五十歳にして寺から出て、ひとりで生きる道を選ぶ。

  • 売茶翁(ばいさおう)

売茶翁がもと所持したものであって現存もしている茶具のひとつ、注子(水さし)。そ
の腹に詩が書かれている。
 去濁抱清 縦其灑落
 大盈若冲 君子所酌

P.73 「糸瓜群虫図」

ことに糸瓜の葉が腐れかけ虫穴まであいている様子、すなわち病葉(わくらば)が執拗に観察され、描写される。この病葉に着目したとき、若沖の絵画は大きく飛躍した。以後の若沖画において病葉は一種のトレード・マークのような役割を果たすのである。これから掲載される若沖の花鳥画においては、たとえどんなに華麗きわまる画面にも病葉が必ず登場することに気づきたい。

P.112 明治5年京都博覧会

動植綵絵」が近代のとば口にあっても、京都を代表する、象徴する作品であったことは、この事実だけでも明らかである。(中略)
日本の“新しい”門出を象徴する「京都博覧会」において、若沖の作品がかくも意識的に扱われたということは、もっと知られるべきだろう。
 大袈裟を承知でいえばいえば、われわれの“近代”は若沖を眺めわたすことから始まったのである。
 こうした事実は、薩長中心の“近代草創神話”から巧妙に消されている。

この「近代草創神話」が本書のひとつのKWでもある.
P.122

筆者は日本の近代史は、その論述に強いバイアスがかかっていると思っている。坂の上の雲を見ることができたのは、わずか薩長のひとばかり、というのが私見だ。
 「廃仏毀釈」という明治の狂気を、政府は要するにほったらかしにした。奈良の六大寺も京の五山も疲弊するにまかされた。文化というものの真の価値を知ることのできない薩長の下級武士たちによって、日本の文化的基板は壟断され、朽ち果てるにまかされた。

P.153

画家の大規模な回顧展を開催するにおいて、現存する代表的な作品を網羅することはもより、新発見のもの、行方不明のものを能う限り博捜して陳列することこそが、博物館や美術館の研究者の使命だ。もっといえば、安月給ではあっても学芸員冥利がそこにある。昨今、「アート・マネージメント」と称する研究や大学の学科が跋扈しているやに灰聞するが、愚かなことというほかない。地を這い、わずかな匂いをかぎつけて探し出す地道な捜索活動に無縁な“アート・ディレクター”をいくら育ててみても、展覧会に命を吹き込むことはできないのだ。

P.173

古美術を研究するとき売立目録を参照することが多い。明治・大但・昭和と営々と刊行された売立目録には、いま著名な作品の移動の様子、値段の異同、喪われた作品の図様などが写真付きで研究できるのだ。古い売立目録は美術史研究の宝庫でもあるのだが、博物館・美術館、大学、古美術商や個人などに分蔵されているので、それらを調査するのは実に困難を要する。ところが、美術研究者ではなく何とサルの研究で有名な都守淳夫氏によって『売立目録の書誌と全国所在一覧』(勉誠出版)が出版されていて、日本にある売立目録ののベ一万九千七百八十九冊にのぼる情報が網羅してある。都守氏はサルがどのように描かれて来たかに関心をもち、売立目録の存在に気づいたのだった。

P.179

唐獅子牡丹。このふたつが組み合されるゆえんを知って貰いたい。無敵の唐獅子にもただひとつどうにも敵わないものがある。からだに巣食うダニにような虫で、それに刺されると痒みは耐えがたい。小さいがまことに厄介だ。始末に終えない。ただひとつ、花の王である牡丹の花に生じた露がからだに落ちると、不思議や、その痒みは雲散霧消するのである。そのため唐獅子は牡丹を愛し、この両者はつきものとされて来た。

P.184

若沖は絵を売って生活をする画家ではなかった。しかし、注文がひきもきらずになったとき「斗米庵」と称して、一斗の米代で売るという行為の背景に、売茶翁のすがたをうかうことは、もはや当燃のことというべきだろう。「斗米庵」、またのちの「米斗翁(べいとおう)」の自称は売茶翁への追慕の証し以外の何物でもない。「絵を売って生活する」という行動によって、若沖は売茶翁の生き方と主張をなぞっているのである。
 若沖は、いわば売茶翁を生きるのだ。

P.192

還暦を迎えた人物が、その年以降は改元される郎ごとに一歳加算する例のあることを

P.215

 困難きわまる状況を緻密な計算と泥臭くもねばり強い忍耐力で打開した若沖の営為が、これまで知られることがなかったのはなぜか。ひとえに、若沖がそうした経緯を吹聴するような性格とはほど遠い人物であったことに尽きる。
 日頃は、隠居して作画三昧の生活に満足げな人物が、いざとなれば、“社会”を声高に論じながら実践する胆力のない輩をはるかに凌駕する行動派へと変身する。しかも、落しどころを遠くに見据えながら、慌てることなく着実に歩を進めてゆく。死を覚悟しながらも、その累が家族や他人に及ぶことも細心の注意を払って排除する。
 若沖がそういう人物であったことを知ったいま、これまで何となく見遇されて来たことが異なった色彩を帯びて見えるようになる。

【関連読書日誌】

  • (URL)ともすると社会性を欠くと思われがちな若沖のキヤラクターですが、還暦を前に錦市場の存亡をかけて懸命に立ち働いたことなどが近年の研究で判明しています 『伊藤若沖×素麺』 林綾野のべべたくなるモナリザ AERA 2012年8月27日

【読んだきっかけ】
【一緒に手に取る本】

伊藤若冲大全

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江戸絵画の不都合な真実 (筑摩選書)

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異能の画家 伊藤若冲 (とんぼの本)

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無頼の画家 曾我蕭白 (とんぼの本)

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