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“ふたりに敬意を表すべきは、輝かしい業績ではなく、「自由」を得るために、長いあいだ地道に行われつづけた壮絶な「稽古」にある、と私は思うのである” 『「加藤周一」という生き方 (筑摩選書)』 鷲巣力 筑摩書房

「加藤周一」という生き方 (筑摩選書)

「加藤周一」という生き方 (筑摩選書)

日本を代表する知識人であった,加藤周一.予備校時代,国語のたいへん出来る友人がいて,彼が加藤周一に私淑していた.「羊の歌」である.以来,折に触れて,買い求め読んできた.朝日新聞に連載していた,山中人輭話は楽しみの一つであった.詩仙堂を好んで訪ねるようになったのも,「三題噺」を読んだからである.
本書は,『加藤周一を読む――「理」の人にして「情」の人』の続篇とも言える書で,読む順序が逆だったかも知れない.
何冊か並行して読むにつれ,加藤周一は情愛のに人であった,ということに気がついた.
P.48

ドイツ文学、あるいは比較文学、江戸の漢詩にも造詣が深かった富士川英郎が、「著作集」第一三巻月報に、加藤を「いつも理由のある自信にあふれた人物」と表現した。「理由のある自信」という表現は、富士川宛ての手紙に、リルケについて評した加藤の表現なのだが、富士川は加藤にもあてはまるといった。その「理由のある」という意味が、率直にいって、私にはよく分からなかった。この「ノlト」を見たとき、私の脳裡に最初にのぼったのは、「理由のある自信」という表現だった。加藤は「理由のある自信」をもっていたことを私は確信した。

第2章 相聞の詩歌を詠むとき
第3章 あり得たかもしれない三つの人生
P.93 以下は,引用されている『渋江抽斎』からの文章.森鴎外は,こんなことを書いていたのか!「要無用を問わざる期間」「研鑽は停止してしまう」

 学問はこれを身に体し、これを事に措いて、始て用をなすものである。否(しからざ)るものは死学問である。これは世間普通の見解である。しかし学藝を研鑽して造詣の深きを致さんとするものは、必ずしも直ちにこれを身に体せようとはしない。必ずしも径(ただ)ちにこれを事に措かうとはしない。その矻々(こつこつ)として年を閲(けみ)する間には、心頭姑く用と無用とを度外に置いてゐる。大いなる功績は此の如くにして始て贏ち得らるゝものである。
 この用無用を問はざる期間は、啻(ただち)に年を閲するのみでは無い。或は生を終るに至るかも知れない。或は世を累ぬるに至るかも知れない。そして此期間に於ては、学問の生活と時務の要求とが截然として二をなしてゐる。若し時務の要求が漸く増長し来って、強ひて学者の身に薄(せま)ったなら、学者が其学問生活を抛(なげう)って起つこともあらう。しかし其背面には学問のための損失がある。研鑽はこゝに停止してしまふからである。
(岩波文庫版『渋江抽斎』、一九四0年、121-122頁)

P.98

−−「繰り返すことができるのは、一言葉だけだ」ということは、言葉だけが偶然に抵抗することができるということでしょう。一回限りの経験のなかにもし永遠をみることができなければ、永遠というものはないでしょうね。一休宗純はそれを感覚的な情愛の世界にみたのでしょう。石川丈山はそれを日常生活の末端にみたのでしょう。一休の愛撫した森女の肌のぬくみと、丈山の手にした焼物の手ざわりとは、当人たちにとって同じ意味をもったはずです...

第4章 いかにして加膝周ーは「加藤周一」になったか
P.135 加藤の代表的論文の一つとなる「言葉と戦車」について

加藤は「プラハ侵攻」をたんに社会主義圏の問題とは捉えていなかった。社会主義という理想が潰える、あるいは人間の理想というものが潰えるかもしれない、という危機感を抱いていたのである。そして、遠く日本の戦後杜会の未来にも想いを馳せていたように思う。
 「さようなら、あまりに短かりしわれらが夏のきらめきよ」とボードレールを引いて、「言葉と戦車」は結ぼれる。そこからは、痛切なる無念の想いがひしひしと伝わってくる。

P.148 加藤は,晩年,キリスト教の洗礼を受け,愛していた母と妹のもとへ還る.パートナーであった,矢島翠は反対したという.矢島はキリスト者の家庭に育ち,そこから逃れることで自我を確立してきた人であったから.愛とは,信仰とは...矢島翠も2011年8月に亡くなっている.

それにしても、矢島の喪失感は大きかった。この喪失感から立ちなおることは、ついにできなかった。

第5章 談論は風発する
P.159 (「西欧と日本』NHK、一九六六年一O月一四日放送。「サルトルとの対話』人文書院、一九六七年。ちくま学芸文庫版『歴史・科学・現代』捌頁) 以下は,サルトルの発言

すなわちエキゾテイシズムは存在しない、自国の特殊性を明確に自覚した知識人たちは相互に語りあい、理解しあうことができる。そしてこうした接触を数多くすることがわれわれ全知識人の義務であると考えます。なぜならそれが、その特殊性をもったそれぞれの国を交流不能ときめつける危険のある国家的個別主義にたいしての、また人間なんて結局どこでも同じさという主張から、帝国主義と密着した一つの文化的世界を創造しようとする承認しがたい即席の普遍化にたいしての戦いに、もっとも有効な手段だからです。

P.165 鶴見俊輔氏との二重唱 鶴見氏と加藤の対談『二0世紀から』

鶴見:「村」は明治国家よりはるかに前からあるものね。ただ、明治国家からいちばん早く離脱したのは女性です。玉音放送の夜の飯をつくったのはだれか、これが重大なんです。基本は衣食住で、そこから戦後が始まった。

第7章 観客との連帯
P.217

戯曲には主人公がいる。作者が深く知っていて、強い興味を抱ける人間でなければ、主人公として描けない。加藤が強く惹かれる人聞は、後白河法皇、一休、世阿弥石川丈山新井白石、富永仲基といった人物である。彼らに共通するのは、ひとりの人間のなかに、相反するふたつの側面をもつことである。

P.225

軍靴の音の高まるなかでの築地小劇場での「連帯」の経験、あるいは大学時代に、渡辺一夫川島武宜を中心として小さな集いをもって語りあった経験が、ふたたび戦前の状況に似てきた時代のなかで、形を変えて『富永仲基異聞消えた版木』と市民たちとの談話会・読書会となって、引きつがれたのである。それはまさしく町人が学び、仲基も学んだ懐徳堂を想起させる。

第8章 読者への恋文

しかも、既存の評論集から著作を取捨選択し、あらたな評論集を編もうとするとき、往々にして、もとの「あとがき」は顧みられない。本文以上によく読まれるにかかわらず、「あとがき」は取り残され忘れられていく。このようないくつかの理由から、加藤の「あとがき集」として『加藤周一が書いた加藤周一』を編集し、刊行する意味がある、と私は考えた。

第9章 林達夫加藤周一
P.255

かたや四000枚、かたや数万枚。加藤はゆうに林の10倍の原稿を書いた。林は「読む人」にかかわらず「書かない人」で、加藤は「読む人」にして「書く人」だった。この意味は何だろうか。林は「寡作」で、加藤は「多作」だった、というようなことではない。世界と自分との関係の取りもち方にたいするふたりの違いが表れている、と私は思うのである。

P.258

 では、林はなぜ学問的著作で引用に引用を重ねた文章を書いたのだろうか。思うに、「読む」ことに徹した林は、おそらくそこに自分の解釈をさしはさむ必要性など少しも感じなかったに違いない。それよりも、どこを引用し、どこを引用しなかったかに、つまり「どのように引用したか」に、自分の「読み」を表そうとしたのではなかろうか。「引用」とは、つまるところ「読み」である。林はその「読み」を示したに違いない。

P.263

生涯で四000枚しか原稿を書かなかった林は、どのようにして暮しの糧を得ていたのだろうか。加藤と同じく林も正規に大学職員として籍を置く期間は短い。反対に、出版社に籍を置いた期間は長い。林は、岩波書庖、中央公論社、角川書居、平凡社、イタリア書房などに関わり、編集委員や顧問を務め、出版社から大なり小なり、直接的にあるいは間接的に生活の糧を得ていた。

P.272

 何のためにものを知ろうとしたのだろうか。林も加藤も、つまるところ人間の「自由」をこのうえない価値として求めた。しかし「自由」は簡単には手に入らない。ふたりに敬意を表すべきは、輝かしい業績ではなく、「自由」を得るために、長いあいだ地道に行われつづけた壮絶な「稽古」にある、と私は思うのである。

終章 「加藤周一」とは何か その基本的立場
【関連読書日誌】

【読んだきっかけ】
昨年11月,空き時間の1時間,八重洲ブックセンターへ立ち寄る.加藤周一もの3冊まとめ買い.
【一緒に手に取る本】

加藤周一を読む――「理」の人にして「情」の人

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羊の歌―わが回想 (岩波新書 青版 689)

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私にとっての二〇世紀―付 最後のメッセージ (岩波現代文庫)

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