“微小ながら自分も例外でない歴史としての人間とその来し方行く末を考える時、「無名戦士」をいとおしんだ尾崎一雄の目と耳は、「有名戦士」よりも「無名戦士」の圧倒的に多い現象の事実に即して公平であり、その公平さは作品鑑賞の基本でもある” 『山川登美子』 竹西寛子 講談社

山川登美子―「明星」の歌人

山川登美子―「明星」の歌人

山川登美子(やまかわとみこ).与謝野晶子と恋を,歌を争い,夭折した歌人という,ステレオタイプ的な印象が強いが,そうした先入観を取り払い,創作した歌から改めて登美子の足跡を追う
第一章 大阪へ
P.35

 明治33年(1900)の11月、「明星」第八号にのった、
   それとなく紅き花みな友にゆづりそむきて泣きて忘れ草つむ
とか、34年1月同誌第十号掲戦の、
   画筆うばひ歌筆折らせ子の幸と御親のなさけ嗚呼あなかしこ
などから、この結婚に際しての登美子の上向かぬ心、というよりも、むしろ下降してゆく心を読むことは出来る。ただ前の歌では、「それとなく」一語を見過してはいけないと思うし、後の「画筆うばひ」の歌では、さきには絵筆を奪い、今又結婚のために歌筆を折らせたのsは父親
だったにしても、登美子は、画筆を奪われ通したようには歌筆を折らせたままではなかったということを考え合せる必要がある。
 登美子は、父親に絵の道を遮られたから歌人として成熟したのではなかったろう。実るべきものが必ずしも順調にではなく実ったまでであって、もし彼女の才能と資質が絵画に適して潤沢であれば、上田敏ほどの論客ではなくても、いつかはおのずからのあらわれを見たはずである。そのすじにかけては一度の阻止で萎える程度のものだったと見られても仕方がない。

P.38

 旧式の結婚による師友と歌とのひとまずの別れを、だから私は登美子の悲劇だとは思っていない。それほど大袈裟に彩るほどのことではない。本当の悲劇はもっと後にくる。「それとなく」は、ある時は虚実を混同し、ある時は虚実のさかいを往き来して、歌を恋し、彼我を恋し始めた者が、さめて現実に足を着けた時の偽りのない事実認識であったろうと思うし、一連の作品にあからさまな、歌と師友と恋を得た歓びにしても、それを失なう嘆きにしても、また軽い妬みにしても、これ又王朝の恋の贈答の儀礼的強調に通じるものをも多分に見るからである。晶子も登美子も、古歌には通じている。儀礼的強調に遊び乍ら感情を育てることも、自他の本心を覗くことも彼女達の発明ではなかった。

P.45

 程度は違ぅ。しかし、優越感も、自己陶酔も、目に見えない敵に歯向かっているような気負いも、また、時に意識的であり、時に無意識的な遊びの精神も、この三人には共通だった。それが即ち「明星」の性格であったと言うまでの自信はない。ただ注意を要するのは、程度の違う三様の遊びのうちにも、三人の本心を見失わないことであり、儀礼の衣と重なり合っている遊びの衣を通さないで、本心を見た、と錯覚しないことだと思う。儀礼の衣と遊びの衣とが、程よく重なり合ったり、ずれたり乱れたりしているやまと歌の歴史は、これまた三人が三様に早くから学び、馴染んできたはずのものでもある。

P.57

 晶子の歌の中でも、水を詠んでいる歌に非凡の印象を強くもった一時期が私にはあった。それは、晶子だけでなく、水の描写、水の表現にすぐれた詩人•作家に私が惹かれていた時期でもあって、ヴァージニア•ウルフも、キャサリン.マンスフィールドも、その点では晶子と同じ環に繋いで読んでいた。
   いさり火は身も世も無げに瞬きぬ陸は海より悲しきものを (草の夢)
   ほととぎす嵯峨は一里京へ三里水の清滝夜の明けやすき (みだれ髪)
   ほととぎす東雲ときの乱声に湖水は白き波立つらしも (同右)
  高き家に君とのぼれば春の国河遠白し朝の鐘なる (舞姫
 私が初めて小浜の町を訪ね、湾のほとりの国民宿舎で最後の夜を過そうとした時、沖の漁火を見て反射的に思い浮べていたのが晶子の「いさり火」の歌だった。「陸は海より悲しきものを」。そのいさり火の歌が、陸の病床で、
   ながらへばさびしいたまし千斤のくさりにからみ海に沈まむ 明治四十一年四月「明星」第九十四号
と声を絞った登美子を私の中に呼び、
   後世(ごせ)は猶今生だにも願はざるわがふところにさくら来てちる 同年五月「明星」第九十五号
とも詠んだ登美子を呼んで、その夜はなかなか寝つけなかったのもつい先頃のことのように思われる。

P.62

...、少なくとも結婚で「明星」を一時遠ざかるまでの登美子の歌は、晶子の歌と並称できる次元のものではなく、この時期の歌を、男女関係への興味から事あるごとに晶子の歌と並称するのは、歌人山川登美子に対する過大評価であり、歌を享受する者としての目の公平を疑われても仕方がないだろう。「明星」
とその周辺にはそうさせるような雰囲気があり、貴任のなにがしかは、むろん演出家であった鉄幹自身にもある。
 だが登美子は、ゆっくりと自分を見定めてゆく。気がついてみたら、確かに一つの恋の敗者になっていた。その時点から、地道な自分の対象化が始まる。自分の生きる場が、生きられそうな場が見定められてゆく。

第二章 最初の挽歌――夫を送る
P.93 

 しかし、寡婦となった登美子が復籍して、日本女子大学の英文科生となることを知った時から、鉄幹の正式な妻であり、歌集「みだれ髪」の著者として、賛否両論の渦の中で動かしようもない斯界の席を与えられていた晶子は、それにもかかわらず今度は登美子と鉄幹の問に不安を抱く立場に立たされる。晶子の、登美子に対する本当の嫉妬は、明治三十七年(一九〇四)の登美子の上京に始まったと思われる。

第三章 「恋衣」という寄合世带
P.101 

 「みだれ髮」の著者を雑誌の主力とした功績に匹敵すると言ってもいい一つのことだけを挙げる。のちに「海潮音」としてまとまる上田敏の、伊、英、独、仏などの高踏派、象徴派詩人の作品紹介つまり訳詩は、ほぼ一年間にわたって「明星」に連載されたものである。以後、私達は、他ならぬ上田敏の日本語の海を泳ぎながら、敏の詩心に宿った西欧の言葉の海をもあわせて泳ぐことになるのである。

P.130

男と女の別れを促す暁の鶏嗚に抱く殺意は、根は日常世界に下している言葉の世界の事実として読む時初めて生気を帯びる。結婚してまだ三日という日の後朝に、男が「しののめにおきける空は思ほえであやしく露と消えかへりつる」と詠みかけ、女が、「さだめなく消えかへりつる露よりも空頼めするわれは何なり」と返す日記の中の贈答も、ともに儀礼的な強調を見なければ、男と女二様の媚態は消えてしまう。哀願にも猜疑や嫉妬にも発展する可能性を消してしまうことになる。戯れを承知で嫉妬し合い、孤独のさびしさをはかなみ合う歌も王朝では数多く詠まれた。今の日常の感觉をもってすれば、大袈裟とか大仰としか言いようのない哀願や猜疑、嫉妬の強調、更には陶酔、法悦、絶望の拡大さえも、王朝の宮廷貴族にとっては、恋情表現の当然の手続きであり、必然性のある挨拶なのであった。

第四草 第二の挽歌――父を送る
P.183

 晩年の登美子のもっとも近くにいて、もっとも長い時を共に過したはずの大ノートは、登美子のうちつけた孤独の悲嗚と懐旧の甘美、やがて入って行く土の底への不安と憧憬を宿して、生身の登美子以上に、私には山川登美子であった。

第五章 第三の挽歌――自らを送る
P.193

 ニ年三力月の在京は、長かったと言ってみても、短かかったと言ってみても登美子の歌の読みには直接役立たない。ただここで一つ見落せないのは、「恋衣」を出版した直後、三十八年二月に「明星」第五十六号に発表した「花がくれ」一二首を、そのぅちの四首だけを除いてあとは全部、「恋衣」重版の際に、初版の歌とのさしかえに当てていることである。
 さしかえに当てた歌だけ読んでみる。( )は「恋衣」所収に際しての改めである。
   君に来し天の使のたかぶりに翅(つばさ)に似たる袖振りにけり   こ・あめ
   はやてする雲の色みてうらわかき海女がひとみは燃えぬ咎むな   あま
   わが息に玉あたためしそればかり梅の蕾はほのめきにけり   つぼみ
   春ならぬ皷(鼓)しらぶるわがおもひ世に何(なに)ものを恋ひて拊つべき    う
   うたがはず怖ぢず我(われ)知る君ひとり賜へいのちのおくに栖ませむ
   覚(さ)めますな御夢うばひてわれ(春)死なむさくらがもとのうたたねの君
   袖は京の桜にかざすよその上と紅のあたひも知らずて老いぬ   べに
   歌やいのち涙やいのち力あるいたみを胸は秘めて悶えぬ
 
 「花がくれ」という一括しての題は、意味を汲もうとすればなかなか聞き捨てならぬ題である。ことに、「君に来し」「わが息に」「うたがはず」「覚めますな」「歌やいのち」などを繰り返し読んでいると、与謝野晶子の公私の立場をはっきり認めた上で自分の立場にも一線を劃し、一歩引き退った地点で虛構としての歌を詠むのに何の憚るところがあろうかと誰に向ってでもなく声をあげている登美子が傍に居るような気がしてくる。

 「わが息に」の詠も、読みようによってはぎくっとさせる要素をもってきているし、「うたがはず」にいたっては、ただ見守るほかはないと思わせる歌にまでなっているが、さきの隐す、隠れるの原理を逆手にとれば、こういう大胆の自由は、日常の次元での否応なしの見切りと引き換えに、手に入れられるものだとも言い得よう。しかしいずれにしても、登美子の歌詠むひととしての腰の据わりようは明らかで、「覚めますな」一首にも、似たような世界を詠んでいた以前の歌と迫ってふつ切れた感じがあるので、読んでいてそわそわしない。照れくさくない。

P.207

 山川登美子の歌と生涯に近づいては遠ざかり、又近づいては私の登美子を確めようとする作業が、今とりあえずの一段落を迎えたところで、改めて登美子の歌一ニ首を選んでみうおうと思う。自分の好みだけには拠っていないつもりであるが、私にうつった登美子の登美子らしさが生きていて、なお日本の女歌の歴史から外されたくないものというほどの選びである。

   鳥籠をしづ枝にかけて永き日を桃の花かずかぞへてぞ見る
   待つにあらず待たぬにあらぬ夕かげに人の御車ただなつかしむ
   あたらしくひらきましたる詩の道に君が名讚へ死なむとぞ思ふ
   大原女のものうるこゑや京の町ねむりさそひて花に雨ふる
   しら珠の珠数屋町とはいづかたぞ中京こえて人に問はまし
   わが死なむ日にも斯く降れ京の山しら雪たかし黒谷の塔
   いま残るこの半生(はんしょう)はわれと我が葬(ほふ)る土ほる日かずなるかな
   御輿(みこし)舁(か)く白きころもの丁(よぼろ)たち藁靴はきぬいかがとどめむ
   ながらへばさびしいたまし千斤のくさりにからみ海に沈まむ  
   後世(ごせ)は猶今生(こんじょう)だにも願はざるわがふところにさくら来てちる
   わが柩まもる人なく行く野辺のさびしさ見えつ霞たなびく
   父君に召されていなむとこしへの春あたゝかき蓬萊のしま
私が「はじめに」の中であげた愛誦歌とは大分違ってきてはいるものの、歩いて紆余曲折を経た今は、この変化も自然と肯う(うべなう)気持になっている。

P.212

 登美子の歌を、無理矢理晶子の歌にひきつける必要はない。並べて褒め上げる必要もない。登美子には登美子の生まれながらのものがあって、それがどのように育てられ、養われていったかを辿ることのほうが大切である。人はそれぞれの生を全うするように運命づけられているのだから、と書く私には、忘れられない尾崎一雄の文章があって、それはこの稿を書きついでいる間の支えの一つでもあった。広津和郎の自伝「年月のあしおと」と並称される尾崎一雄の「あの日この日」の「あとがき」で、著者は、功成り名遂げた文学者に対する以上に、「無名戦士」に,温い視線を注いできた自分をはっきりと示している。著者の、人間と文学に対する姿勢をよく現していると思うが、微小ながら自分も例外でない歴史としての人間とその来し方行く末を考える時、「無名戦士」をいとおしん尾崎一雄の目と耳は、「有名戦士」よりも「無名戦士」の圧倒的に多い現象の事実に即して公平であり、その公平さは作品鑑賞の基本でもあると
ころから、思い返しては反省し、また勇気づけられもすることしばしばであった

【関連読書日誌】

  • (URL)“それにしても呟きのひとつ、囁きのような物言いさえ、自分と世界との関係を決める行為であると気づくまでに一体どれほどの歳月を要したことか” 『 言葉を恃む』 竹西寛子 岩波書店
  • (URL)“単純ではない平易な文章が望まれるとすれば、その平易は、自分に即して生まれた必然性のある平易に限り有効である” 『「やさしい古典案内」のこと』 耳目抄310 竹西寛子 ユリイカ 2013年6月

【読んだきっかけ】『言葉を恃む』竹西寛子が,その足跡を直接たずねてみようと思った数少ない文学者の一人だと言う.何故か.
図書館から単行本初刷りを借りだして読む.歌集を読んでみようか
【一緒に手に取る本】

白百合の崖(キシ)―山川登美子・歌と恋

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山川登美子歌集 (岩波文庫)

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恋衣

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