“のちにサイエンティフィック・アメリカン誌が「情報時代のマグナカルタ」と呼んだこの論文『通信の数学的理論』は、特定の事柄というより、一般法則や共通概念に関するものだった。「シャノンは常に深奥で本質的な関係性を求めていた」” 『世界の技術を支配する ベル研究所の興亡』 ジョン・ガートナー 訳: 土方奈美 文藝春秋

世界の技術を支配する ベル研究所の興亡

世界の技術を支配する ベル研究所の興亡

タイトルのとおり,今は亡きベル研究所の興隆と衰退の歴史を浩瀚な取材をもとに書き下ろした書.解説で成毛眞氏も指摘しているように,膨大な原注と参考図書を削除することなく訳出していうことで,翻訳書としての価値を高めている.
 見事なノンフィクション,10年がかりの著作にして,処女作.以下は,その前半,第一部「天才たちのイノベーション」から
P.15

それでもやはり科学の歴史を振り返ることには意義がある。ビル•ゲイツはかつてトランジスタの発明を念頭に、こう語った。「タィムマシンに乗ることがあったら、最初に降りるのは一九四七年一二月のベル研究所だ」と。良い選択だと思う。ベル研究所はもちろん完璧ではない。あらゆるエリート組織につきものの、個性のぶつかり合い、組織としての思いあがり、そして(特に末期に顕著であった)戦略的ミスに悩まされた。

P.16

昨今の評論家は、二一世紀のイノべーションは激しい市場競争に身をさらす、目端が利き、利益追求に余念がないひとにぎりの起業家だけが生み出せる、と主張する。過去のアイデア工場やそこで働いていたとびきり才能あふれるスタッフなどから、今日の複雑化した世界に生きるわれわれが学ぶものは何もない、というわけだ。あまりに単純な発想である。ベル研究所の歴史を振り返り、目に見えない、今は消え去った“製造ライン”の仕組みを解明することは、大きな紺織の秘める可能性に目を向けることにほかならない。

第一章 主役は科学者たちだった
P.21

エジソンに富と名声をもたらしたのは蓄音機や電球用フィラメントだが、それほど知られていない発明のなかにも、現代文明への寄与という点では両者に匹敵するものがある。その一つが圧縮炭素“ボタン”の新たな用途開発だ。一八七七年、エジソンはこのボタンを電話の送話ロの中に埋め込むことで、音声の品質と伝送強度を劇的に高められることを発見した。

第二章 トップレベルの頭脳をスカウトする
P.38

言葉を換えれば、科学研究は未知の世界の扉を開くものだった。アーノルドは後年、研究部門についてこう語っている。「われわれの成果として重視されたのは発明だったが、それは計画したり、強制することが不可能なものだった」。研究部門の意義は〈天才にふさわしい活動の場を与えること〉にあった。ア―ノルドが言わんとしていたのは、天才も技術者と同じように確実に会社の事業に貢献するということである。だが天才は予測不可能なものだ。それでも開花する余地をあたえなければならない。

P.44

ただ、より大きな意味での目標は明確だった。ベル研究所の社員は人間のコミュニケーションにわずかでも関係のあることなら何でも研究する、ということだ。有線、無線、録音された音声、画像など何であろうとかまわない。
(中略)
ベル研究所は、集団(特に学際的な集団)としての科学者が、個人もしくは少人数のチームより優れていることを証明する、というのだ。さらにべル研究所の科学者は「優れたアィデア」を懸命に探している、という世間一般の認識も否定している。まもなくケリーやデビソンらは、世の中には優れたアィデアはあふれている、ありあまっているほどだ、とロぐちに語るようになった。
 彼らが探し求めていたのは、優れた問題であった。

P.48

ニューヨークのべル研究所に集まってきた人材には、興味深い共通点がある。ほとんがMIT、シカゴ大学カルテックなど一流の大学院で教育を受けており、そこで物理学、化学、もしくは工学の教授の目に留まり、ケリーやフレッチャーなどべル研究所の関係者にひそかに推挙されていた。ただ、彼らの多くはチカシャ(ウールリッジの出身地)、クエー力ーネック、ぺトスきーなどだれも聞いたことのないようなちつぽけな町の出身だった。ケリーの故郷ギャラティンと同じような片田舎の前近代的な町で、父親は果物農家や小売店主、あるいはしがない弁護士だった。そして例外なく、そうした境遇から脱出する機会に恵まれていた。それをもたらしたのは、たいてい高校時代の教師だった。彼らの才能――たとえば稀に見る数学センスや電気学に対する飽くなき興味など――に気づき畑や店を切り盛りして一生を送ることのないように、なんとか地元の大学に送ってやろうと特別な宿題を出したり、放課後に個人授業をしたのだ(若者たちが恩師のこうした好意に気づいたのは、たいていずっと後のことだつた)。

第三章 産業界の巨人AT&Tの膝元で
P.63

発明は一瞬の出来事だと思われがちだ。孤独な発明家の頭に突然、何か驚くようなアイデアがひらめくというわけだ。だが実際には、大きな技術的進歩が起きた瞬間を正確に言い当てるのは難しい。人材やアイデアが集まって初めて、発明につながるエネルギIが動き出す。それから何力月、何年(もしくは何十年)か経つうちに、ようやくはっきりとした形や勢いが出てきたり、さらに人材やアイデアが集まってきたりする。運やタイミングも重要だ。優れた課題に、適切な人材、解決策、場所が偶然結びつかなければ何も始まらない。そしてときには大きな発想の飛躍も必要だ。後から思えば当然のことのようでも、思いつくのはなかなか難しい。一九三八年、世界最高の物理学者アインシュタインとともに研究をしていたニルス•ボ―アは、ウラン原子を分裂させると莫大なエネルギーが生まれると初めて耳にしたとき、頭を叩いてこう叫んだとされる。「まったく、俺たちはなんてバカだったん」

P.69

研究員はノートを破ることを許されておらず、別の紙に何かを書きこんでノー卜に張り付けることも認められていなかった。
(中略)ノートにはすベて番号が振られて誰が持ち主かわかるょぅになっており、スーパーバィザーや研究所の弁護士が管理していた。誰が何をしたのかが確実にわかるようにしていたのは、ノ ―トが特許を申請する際の証拠として使われていたためだ。

第四章 戦争は発明の母である
第五章 シリコンかゲルマニウム
第六章 トランジスタの発明
P.127

 ケリーを除けば、ベル研究所の科学者でモートンほどイノベーションプロセスについて考え抜いた人間はいないだろう。イノベーションは単なる行為ではなく、相互に関連する多くの行為を含む「総合杓なプロセス」である、と彼は考えた。「イノベーションは、新しい現象を発見することではない。新たな製品や製造技術の開発でもなければ、新たな市場を創造することでもない。むしろ共通の産業的目標に向かって、こうした行為のすべてを融合させることだ」と後に書いている。
 ベル研究所の開発部門でモートンの薫陶を受けた科学者の一人、ユ―ジーン•ゴ―ドンは、イノベーションに関するモートンの考えには二つの結論があったという。一つは大量生産に成功するまではイノベーションが完成したとは言えない、ということ。もう一つは新たな製品の市場を見つけるまでは、イノべーションが完成したとは言えない、ということだ。とはいえ、モートンがこうした結論に達したのは、もっと後のことである。ケリーにトランジスタ製造のロ ードマップを作れと命じられてからのニ九日間を、モートンは恐怖におののいて過ごした。そして三〇日目に、ようやく開発計画がまとまった。

第七章 すべての情報は0と1で表せる
P.136

少なくともそれまでの一〇年間に、この静かで礼儀正しい若者に出会った人々はおしなべて同じような印象を抱いたようだ。シャノンは引っ込み思案な変わり者として知られていた。だがそれ以上に、彼は特別な人間だと思われていた。「まちがいなく型にはまらない若者だ」。MITでシャノンのアドバィザーを務めた工学部長のバネバー・ブッシュは、その一〇年前にこう語っている。「内気で人好きのする若者で、きわめて慎重に扱うべき人材だった」
(略)
むしろブッシュをはじめ,一九三〇年代末にシャノンに出会った何人かの数学者は、彼は単なる“とびぬけて優秀な学生”ではない、と考えたようだ。なにか次元の違う存在だった。当時シャノンが飛行機の操縦免許を取ろうとしていると聞いたあるMITの教授は、科学界が不慮の飛行機事故で貴重な人材を失うことがないように、やめさせることを考えたという。つまりMITの教授陣の間には、シャノンのようなまれにみる逸材は何としても守らなければならない、という暗黙の了解があったのだ。

P.140

ニューヨーク州のコールドスプリング・ハーバ一にうってつけの研究所があったので(もちろん力ーネギー協会の関係先である)、ブッシュはシャノンにそこで博士課程の研究をしたらどうかと勧めた。シャノンはそれに従った。数力月後、シャノンはブッシュに手紙を出している。「コ―ルドスプリングハーバーのパークス博士のもとで遺伝学代数の研究に取り組み、大変すばらしい夏を過ごすことができました。この機会を与えていただい力ことに、お礼を申し上げます。非常に良い結果が出たので、MITで博士論文として受理されました」

P.149

 のちにサイエンティフィック・アメリカン誌が「情報時代のマグナカルタ」と呼んだこの論文『通信の数学的理論』は、特定の事柄というより、一般法則や共通概念に関するものだった。「シャノンは常に深奥で本質的な関係性を求めていた」と同僚のブロック.マクミランは説明する。それをまとめたのがこの論文だ。シャノンの言葉を借りれば「論文の基本的な主張の一つは『情報は質量やエネルギーのような物理量としてとらえられる』ということだった」
 もう少し現実的な話をすれば、「ある地点から別の地点へ、どれほど速く正確にメッセ―ジを送ることができるのか」という、ベルシステムが誕生して以来技術者たちを悩ませてきた問題に、シャノンは根本的な答えを提示したのだ。
 「通信の基本的な問題は、ある地点で別の地点で選択されたメッセ―ジを正確に、あるいは近似的に再生することである」。論文はこんな書き出しで始まっている。当たり前のことのようだが、シャノンはなぜそれが核心的な問題なのかを説明していった。

P.157

 ショックレーがのちに指摘したとおり、ニ〇世紀中頃までにエレクトロニクス分野のイノべーションは大きな進化を遂げ、特定のプロジュクトを実現するには様々な学問分野にまたがる膨大な専門知識が必要になった、という事情もある。
 ショックレーは現代遺伝学の基礎を築いた一九世紀の科学者メンデルについてこう語っている。
「おそらくメンデルがエンドウマメを使った実験をしていたころより、物事ははるかに複雑になった。メンデルの場合はマメをビンに入れてタネを集め、花が咲いたら覆いをかけて受粉させるだけでよかった」。一方、ソリッドステ―ト.グル―プが有効に機能するには、材料を加工する能力、化学薬品に関する知識、電気測定の能力、理論物理学の知識などが必要だった。これらすベてを一人の人間が持ち合わせていることは、まずありえないだろう。

P.158

 シャノンがベル研究所にいたころ、特許部門の弁護士が、特定の個人の生産性が他の社員より高い理由を組織論で説明できないか、研究したことがある。調査の結果、たくさんの特許を取得する社員には一つだけ共通点があることがわかった。ハリー・ナイキストという電気技師と食事をともにすることが多かったのだ。ナイキストが彼らに具体的なアイデアを与えていたわけではない。ある科学者によれば「ナイキストには人々を専門分野から引っ張りだし、モノを考えさせるところがあった」。なにより重要だったのは、ナイキストが良い質問をしたということだ。

第八章 機械仕掛けのネズミ
第九章 天才たちを働かせる方法 マービンケリーの組織論
P.179

 ケリーの考えでは「物理的に近くにいること」が何より重要だった。お互いがお互いのそばにいなければならない。電話で話すだけでは不十分だ。ベル研究所の科学者たちが、自分たちの開発の成果を製造部門に引き渡すプ口セスに深く関与できるょぅに、ケリーはウエスタン•エレクトリックの工場内にベル研究所の分室まで作ったほどだ。

P.184

「給料は一日のうち職場で過ごす七時間半の対価として支払われている」。ケリーは新入社員の入社初日こよくこう語った。「だが昇給や昇進は、残りの一六時間半で何をするかにかかっている」。

P.186

 なぜケリ―はホワイトハウスで働くことにそれほど魅力を感じなかったのか。一つには、すでに軍事、政策レベルで相当に影響力のある立場にいたからだ。アメリカ軍とひとにぎりの企業との密接な関係――一〇年後、アィゼンハワー大統領が退任演説の中で「軍産複合体」と呼んだもの――は、すでにAT&Tに莫大な収入をもたらすようになっており、傘下のベル研究所や製造部門のウエスタ・エレクトリックは陸海空軍のための幅広い秘密装備の設計と製造を依頼された。仕事の大部分はレ―ダ―や通信設備に関するもので、国防上きわめて重要視されていた。

第10章 脚光を浴びるシリコン
P.203

 産業科学の世界では、技術的には優れていても実用性に欠ける発明を「課題の発生を待つ解決策」と呼ぶことがある。シリコン太陽電池は、当時は想像もつかないような新たな課題が発生するのを待っていた。

第11章 ベル帝国の完成
P.218

 べッロは、トランジスタとシャノンの情報理論の力が合わさることで未来の扉が開く、と力説した。シャノンとショックレーはそれぞれ偉大な発明をした時点で、互いの仕事がどのように結びつくのかはわかっていなかっただろう。だが 一◦年も経たないうちに両者のアィデアは結びついた。べッロが書いたとおり「トランジスタによって、シャノンの理論を実践するのに大量に必要となる、小さく安価で省電力かつ永久に動きつづける装置をつくることが可能になった」のだ。
 ベル研究所の幹部はまちがいなく、この指摘に賛同しただろう。だが、少なからぬ数のベル研究所OBが、シャノンとショックレ―の業績はベル研究所のクビを絞めることにつながった部分もある、と語る。一九五五年に音響部門に採用され、最終的に音響.行動科学研究部門長となったマックス・マシュユーズもその一人だ。多くの点において、ニ〇世紀前半には電話会社の独占体制は合理的だった、とマシュユーズは語る。アナログ信号(電話信号を伝えるアナログ波)は非常にもろい。「音を室くまで送るには、五〇個もの筯幅器が必要になる」。大西洋横断ケーブルが良い例だ。「それをうまく機能させるには、ルート上の増幅器を単一の会社、すなわちAT&Tに設計•運用させるしかない。そこでは自然独占が成立したわけだ。たくさんの会社が関与しようとすれば、アナログシステム全体が機能しなくなる」
(略)
 「シャノンの理論は、ベルシステム解体の数学的論拠となった」とマシュユーズは語る。そうだとすれば、ショックレーの発明はベルシステム解体の技術的論拠といえるだろう。特許はいまやだれでも使えるようになった。その後の展開を見るかぎり、イノべーシヨンに関するケリ―のおおざっぱな定義には、必然的な結論があったようだ。ある会社の最大の成功は、後から振り返るとその衰退の始まりてなつていることもある、と。

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