“回復に至る道とはどんな道か。クラィエントとセラピストが共にいて、同じ時間を過ごしなから手探りで光を探す。心の底にひそんでいた自分でさえ気づかない苦悩、悲哀にそつと手を差し伸べる。一人では恐ろしい深く暗い洞窟でも、二人なら歩いて行ける” 『セラピスト』 最相葉月 新潮社 (2/2)

セラピスト

セラピスト

 中井久夫による絵画療法を受ける。さらに、中井久夫に対して絵画療法を試みる。中井久夫とのコミュニケーションの中で、次の二つのことについて、会話がなされたかどうか、あったとすれば、どんな内容であったのか知りたい。一つは、野口英世のこと。星一は、野口のパトロンであったし、中井には、野口に関する著作がある。二つめは、霜山徳爾のこと。
第6章 砂と画用紙
P.189 1969年11月22日、第1回芸術療法研究会

この日、研究会を主宰する晴和病院の医師、徳田良仁の招きで、河合隼雄が関東の精神科医たちの前で箱庭療法を紹介することになっていた。精神医学界との接点は児童精神医学の領域にあるのみで反応が今ひとつだったところ、研究会の創設メンバーの一人であり、フランクルの『夜と霧』の翻訳者として知られる心理学者の霜山徳爾が、評判を聞きつけて河合を推薦したのである。
 芸術療法研究会は、精神医学と心理学の想根を取り払い、学派を乗り越えて、芸術の視点から人間を考えようとする人々の集まりだった。

P.190

ところが、芸術療法研究会が生まれる母胎となつた晴和病院は、都心の一角にありながら広大な緑に囲まれ、そこだけが世の動きとは無縁であるかのように穏やかな空気に包まれていた。患者を閉鎖病棟に拘束し、床に穴を開けただけのトイレに垂れ流し。そんな劣悪な精神科病院に患者を入院させることをしのびないと考えた東大教授の内村祐之が、精神科病院の改善を目指して創設した病院だつた。

P.194

ユングのいつている通りにならないのは、患者がユング心理学をちやんと勉強していないから。河合はそういって会場を笑わせるとすぐ真顔に戻り、患者がたとえ思うとおりに玩具を置いてくれなくても、われわれ治療者は理論にとらわれず、解釈するというよりは鑑賞する、そんな患者との関係性に治療の根本があるのではないかと考えていると語った。

P.199

中井が病棟を歩きながら思い描いていたのは、個別研究を通じてモデルをつくることだった。モデルとはつまり、一般化することである。夕ーゲットとしたのは、当時、まだ混沌としていた精神分裂病、現在の統合失調症だった。

P.204

中井はまず、精神医学が精神病患者の描画活動に着目してから百年あまりの歴史を見渡し、そこに、二つの問題点があると指摘している。
 第一に、臨床では、なによりも徹底した研究が不足し、一般化への指向性が希薄だったことだ。一般化への指向性が希薄であるといぅのは、特殊な一例や興味ある一例を採集するばかりで、科学的な視点に欠けるということである。
(中略)
従来の描画研究のもう一つの問題点は、この論文の直前に、一般誌「ユリイカ」に中井が寄稿した「精神分裂病者の言語と絵画」という随筆の次の一節に集約されるだろう。

精神病理学は分裂病者の言語がいかに歪められているかを記述してきた。おそらく、それが真の問題なのではない。真の問題の立て方は、分裂病の世界において言語がいかにして可能であるか、であろう。(中井久夫著作集第1巻『精神医学の経験 分裂病』)

P.210

沖縄の医療法人和泉会いずみ病院理事長、高江洲義英はそう振り返る。
当時、束京医科歯科大学にいた高江洲は、学部ニ年から四年までは大学のストライキでまともに講義が受けられなかつた世代である。五年になつてようやく島崎敏樹や宮本(忠雄)に師事し、芸術療法研究会にはこの第三回から参加していた。

P.214 中井の最初の研究発表の場は、土居が関わったワークショップ。1973年

土居は、精神分析のメッカ、アメリカのメニンガー精神医学校やサンフランシスコ精神分析協会で厳しい修業をした精神分析の大家である。留学中に「甘え」というキーワードに着目し、日本人の心理と社会構造を「甘え」とその変容をもとに読み解いた『「甘え」の構造』は、一九七一年に出版されて大べストセラーとなり、世界各国で翻訳されていた。

P.221

これは中井先生がご自身で発見されたことですが、風景構成法というのは、あいまいなものを提示して心理的特性を見出す“投影法”としての側面と、箱庭療法のように心理療法でありながら“溝成法”でもあるという側面を併せ持つんですね。

P.222

1970年三月には、朝=新聞の大熊一夫記者がアルコール依存症を装って精神科病院の潜入取材を行った「ルポ・精神病棟」の連載が始まった。
(略9
 1960年代初めに登場した抗精神病薬に懐疑的な声が上がったのもこの時期である。
(略)
そんななか、芸術療法の芽が秘かに育まれ、統合失調症は世界に類のない発展をみせた。とりわけ中井が際立っていたのは、京大ウイルス研究所に在籍しながら学術振興会の流動研究として東大伝染病研究所で研究していた頃、楡林達夫ペンネームで『日本の医者」(1963)という体制批判の本を著していること。にもかかわらず、その画期的な臨床研究から、教授陣にも一目を置かれていたことだろう。
 初期の芸術療法研究会が表現病理優先の風潮であるために外から冷ややかに眺めていた山中は、中井のこんな一言を機に参加を決断したといぅ。
「外にいていくら大声を出しても誰も振り向かないよ。むしろ内部に入つて改革していつた方がほんとうなのだよ」

第7章 黒船の到来
P.230

 サリヴァンはテープレコーダーのない時代に、患者とのやりとりを記録した初めての精神科医だったといわれる。二階の診察室から一階にいる速記者にマイクで問答を伝えて記録させ、論文にその逐語録を掲載している。カール・ロジャ―ズのように録音に基づく完全な問答を書籍として出版したわけではない。そのため日本人の目にはほとんど触れなかつたが、密室で行われる治療者と患者のやりとりを公開し、治療者が自らをも第三者の目に晒されるという点では誰よりも先んじていたことになる。

P.236

 日本語で、「精神障害の診断と統計の手引き」と訳されるDSMは、第三版以降、これまでの精神医学の分類を塗り替え、現在、世界標準として君臨している診断基準である。第三版というからには第一版、第二版があるわけだが、第三版がこれまでの版と違うのは、公式の診断基準として初めて操作的診断基準を採用したことだった。それまでの診断では、たとえば、気分が沈んでいても内分泌系の異常でなければうつ病とは診断されない。気分が沈む原因は、内分泌系以外にもいろいろ考えられるからである。
 ところが、操作的診断基準ではそうは考えない。二週間以上気分が沈んでいて、明らかにほかの病気といえない場合は、うつ病と診断する。操作的診断とは、一言でいえば、病気の原因や経過ではなく症状に着目して診断する方法といえるだろうか。多くの臨床デー夕に基づいて、たとえば、九つの症状のうち五つあてはまれば〇〇病と診断する、という具合である。

P.238
私はDSMが登場する前と登場後の過渡期を知る医師やカウンセラーに会うごとに、DSMの臨床現場への影響について訊ねてみたが、誰もがロをそろえたのは、これでようやく混乱が収まつた、ということである。優れた医師でなければ診断できないというのではなく、ある程度の教育を受けていれば誰もが診断でき、一定の水準を保てる、つまり、全体を底上げできるということである。
 だが、一方で、文化も言語も歴史も異なる国の精神疾患が同じ基準で診断できるわけがない、という批判の声も聞こえてきた。「日本人は間やあいまいさを大切にする民族なのに、DSMによつて患者ではないのに患者にさせられた人はたくさんいる」と語つた病院勤務の臨床心理士もいた。

P.247

 2013年5月、DSM―IVから十九年ぶりに新しいDSMDSM―5が発表された。改訂の最大の特徴は、「ディメンション的診断システム」といい、患者が経験しているはずのある症状をもとに系統的に評価する方法が採り入れられたことである。症状の有無だけではなく、重症度や経過による変化も評価の対象となる。自閉症アスペルガー障害といつたサブカテゴリーを含む広汎性発達障害自閉症スぺクトラムへと名称変更され、一元化されたことなどが目を引くが、日本の臨床現場で明日から基準が変わるといぅことではない、と黒木はいう。一71介されたことなどがox.を
弓くが、日本の臨床現場で明nから基準が変わるということではない、と黒木はいう。
 「一九八〇年のDSM-3の登場は、精神医学の中心がヨ― ロッバからアメリカに移ったという点で確かに大きな影響がありましたが、DSM―5は露骨にアメリカの覇権主義です。これによって日本の臨床現場が混乱するかというとそうではない。今は時代が違います。アメリカの一つの現象として捉えておけばいいでしょう。 
 もっとも、早期発見、早期介入という予防匿療、プラィマリケアにも重点が置かれているため、日本でもこれを精神科医が担うべきなのか、一般の内科医が担うのかについては、早晩、議論が起こると思います」

P.248

 中井の理想とするのは、七床あたり一人の医師である。この本が書かれた一九八ニ年の基準は、五十床に一人だった。現在はどうかというと、内科や外科などを有する百床以上の総合病院や大学病院の精神科で十六床に一人、それ以外は四十八床に一人である。医師の数は一九九八年からの十年間でニ割増え、個人クリニックの数も増加しているが、患者数の増加には到底追いつかない。看護師の数も同様である。スタッフ不足のために「薬で、患者さんにおとなしくしてもらわないと、対応できない」(朝日新聞ニ〇一三年八月二十日朝刊)といって、三種類以上の薬を投与する病院もある。薬物治療が大きく進展したとはいえ、副作用が気がかりであり、これでは患者と医師の間に信頼関係など築きようがない。

第8章 悩めない病
2000年頃から学生相談に来る学生に大きく変化があらわれたという。
 一つは、「悩めない」学生の増加。漠然と不調を訴えるものの、内面を言語化でいない。
 二つめは、「巣立てない」こと
 三つめは、「特別支援」を要する学生の増加。いわゆる発達障害
この30年の大きな変化
 対人恐怖症を訴える人の減少
P.298

学生を指導する中でも、クライエントを見ても、父・河合隼雄の時代とは明らかな違いを実感する、と河合(俊雄)はいう。
「世の中は、クライエントもセラピストも、従来の心理療法に向かない人が増えています。実習でロールプレイをやっていても、相手がしやべっているのを待っていられない。ためることができない。そんな学生が増えてきました」
 臨床心理士を目指す学生たちも、ですか。
「そうです。今は、全部が表面の世界なんです。たとえば、ツイッ夕ーにぽーんと書き込むとみんなが知っている。しかも、RT(リツイート)というかたちで他人の言葉が引用されて広がっていくので、どこからどこまでが自分の言葉かという区別もない。秘密とか、内と外の区別がない世界なので、自分にキープしておくことがなかなかできなくなつているんですね。心理療法というのは主体性があつて自分の内面と向き合える人を前提としていますから、内と外の区別のない場合は、相談に来ても自分を振り返ることが非常にむずかしいんです」

第9章 回復のかなしみ
P.314

回復に至る道とはどんな道か。たんに症状をなくせばいいというのではない。かといって、ありのままでいいということでもない。クラィエントとセラピストが共にいて、同じ時間を過ごしなから手探りで光を探す。心の底にひそんでいた自分でさえ気づかない苦悩、悲哀にそつと手を差し伸べる。一人では恐ろしい深く暗い洞窟でも、二人なら歩いて行ける。同行二人という言葉が浮かんだ。

あとがき 
P.334 最後に、
>> 
この世の中に生きる限り、私たちは心の不調とは無縁ではいられない。医療だけでなく、社会的なサポートの充実が急がれる。ただ、よき同行者とめぐり会えたとしても、最後の最後は自分の力で立ち直つていくしかない。