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“人も自然の一部である。それは人問内部にもあって生命の営みを律する厳然たる摂理であり、恵みである。科学や経済、医学や農業、あらゆる人の営みが、自然と人、人と人の和解を探る以外、我々が生き延びる道はないであろう” 『天、共に在り』 中村哲 NHK出版

天、共に在り

天、共に在り

アフガニスタンの農業復興、医療支援に、文字どおり生涯をかけている中村哲(てつ)氏の、自身による記録である。NHKの「知るを楽しむ−この人この世界」(2006年6月〜7月)のテキストを加筆修正したもの。
 本書の後半に何葉かの写真がある。上段には、砂漠の中に建設されたできたばかりの用水路の写真。下段には、それから3年後の様子。用水路の両側には木々が育ち、そのむこうの土地には麦がなる。感動的な情景である。と同時に植物の、生物のもつ生命力の強さを実感する。
 最初は、医療支援のためアフガニスタンに入る。主として、ハンセン病対策である。それだけでも凄いのだが、その後、アフガニスタンの人々にとってまず水が必要であることに気づき、井戸を掘る。あの凄まじい内戦、多国籍軍による空爆の中、現地の人を支え、プロジェクトを進める。素晴らしいリーダシップである。同時に、生き抜くための知識、知恵とは何なのかがよくわかる。現代人、都会人のなんと脆弱にみえることか。
はじめに

かつて自著の中で、「現地には、アジア世界の抱える全ての矛盾と苦悩がある」と繰り返して述べてきました。でも、ここに至って、地球温暖化による沙漠化といぅ現実に遭遇し、遠いアフガニスタンのかかえる問題が、実は「戦争と平和」と共に「環境問題」といぅ、日本の私たちに共通する課題として浮き彫りにされたような気がします。

 現地30年の体験を通して言えることは、私たちが己の分限を知り、誠実である限り、天の恵みと人のまごころは信頼に足るということです。 
 人の陥りやすい人為の世界観を超え、人に与えられた共通の恵みを嗅ぎとり、この不安と暴力が支配する世界で、本当に私たちに必要なものは何か、不要なものは何かを知り、確かなものに近づく縁(よすが)にしていただければ、これに過ぎる喜びはありません。

序章 アフガニスタン2009年
P.20

私の知り合いで、外国軍の傭兵となった者が少なからずいた。だが、敵軍の中に身内が居ることを知り、わざと的を外して派手な「銃撃戦」を展開、雇主と従軍ジャーナリストを痛く喜ばせた。そして、ちゃっかり高給とライフルを受け取ると、帰り道に「味方」の外国兵を狙撃して家に戻り、身内の「敵兵」と仲良く団欒しながらその日の「戦果」を語り合った。−−こんな話は珍しくない。外国軍は、誰が敵か味方か分からなくなり、疑心暗鬼に陥るのが普通である。最近では自分たちが育成したはずの国軍兵士から発砲される事件が急増している。

P.31 詩人・火野葦平は、著者の叔父にあたる

表向き剛毅を装い、酒に耽溺するデカダンを装い、独特のユーモアで笑わせる楽天主義者を装い、しかしそれでもなお、繊細な詩人の魂と戦争の影との相克は、彼をさいなんでいたに違いない。火野の転向や自害に対して、とかくの議論がある。しかし、およそ一つのことに命をかけた以上、器用に転進できぬ彼は、それを整理して戦争を否定するのに十年の年月がかかった。

“銃口の向きを変えるためには、おのれの肉体の消滅を賭けて、思想の変革を果たさなければならない” 『イタリア抵抗運動の遺書―1943・9・8‐1945・4・25  冨山房百科文庫 (36) 』(P・マルヴェッツィ, G・ピレッリ編 河島英昭 他訳 冨山房(URL)を思いだす。
P.65

発展途上国の現実に立脚して海外ワーカーとしての体験を分かち合い、アジアの草の根の人々と共に生きる者として……。美しい自然と人々に囲まれたアジアの山村で語らいの時を……」
白々しい文句だと思った。美しく飾られた言葉より、天を仰いで叫ぶハリマの自暴自棄の方か真実だった。
(中略)
最後通牒のよぅな「出席要請」を衝動的に引き裂いた。私は、催しものと議論ずくめの割に中身のない、このような「海外医療協力」と、この時決別したのである。

第二部 命の水を求めて 1986〜2001
第三部 緑の大地を作る 2002〜2008
P.119

 これは古くて新しい問題であった。百年も前に、渡良瀬川足尾鉱毒事件の解決に一生を捧げた田中正造翁のことばが、印象的に心を捉える。
  以上の毒野も
  うかと見れば普通の原野なり。
  涙だを以て見れば地獄の餓鬼のみ。
  気力を以て見れば竹槍、
  臆病を以て見れば疾病のみ。
 我々に足りないのは気力と涙である。PMSもまた、心ある人々の意を体して荒野に緑野を回復し、日本の良心の気力を示そうとするものであつた。

P.120 130キロの用水路を建設し、旱魃地帯に注ぐことを決意。

しかし、宣言にふさわしい力量があつたとは言えない。この時、用水路関係のワー力ーに指定した必読文献は、『後世への最大遺物』(内忖鑑三)と『日本の米』{富山和子)で、要するに挑戦の気概だけがあつた。自分からして、流量計算や流路設計の書物さえ理解できず、高校生の娘から教科書を借りて、苦手な数学を再学するありさまであつた。

P,121

圧倒的な物量と機械力、精密な測量と理論的研究を誇る日本の公共土木技術は、世界屈指のものである。それだけに、専門分化が著しくて門外漢の入る余地が少なく、医療技術と似た点がないではない。しかし、だからといって日本の土木技師がやってきても、すぐに役立つとは思えない。
 医療の場合、日本で優秀な医療技術者といえども、豊富な診療機器とふんだんに必要薬品が使える福祉社会に支えられた技術であって、診断ひとつとっても、聴診器や打腱器など人間の五感だけが頼りでは身動きがつかないことが多い。

P.150

 そもそもパキスタンアフガニスタンの国境は、一八九三年、当時の英国がロシアとの緩衝地帯を置くため、アフガン王国との間で結んた協定によるもので、デュアランド・ラィンと呼ばれる。しかし、この線が多数派民族パシュトゥン一六〇〇万人の居住地を真っ二つに分けたから、国境とするには無理があつた。

第四部 砂漠に訪れた奇跡 2009〜
P.207

里に目を向ければ、豊かな田畑が広がり、みな農作業で忙しい。用水路流域はすでに15万人が帰農し、生活は安定に向かつていた。それは座して得られたものではない。生き延びようとする健全な意欲と、良心的協力が結び合い、凄まじい努力によつて結実したからだ。

平和とは観念ではなく、実態である

かつて一夜にして開拓地を砂で埋めた砂嵐も、一瞬にして家々を呑み込んだ洪水も、広大な樹林带に護られている。幾多の旅人を葬り去った強烈な陽光もまた死の谷を恵みの谷に転じ、豊かな収穫を約束する。ニ万本の果樹の園、膨大な穀物生産、野菜畑、砂防林から得る薪や建材、多くの家畜を養う広大な草地、今や,自活は可能である。悪化の一途をたどる政情を尻目に、静かに広がる緑の大地は、もの言わずとも、無限の恵みを語る。平和とは観念ではなく、実態である。

P.228

いかに強く作るかよりも、いかに自然と折り合うかが最大の関心となった。自然は予測できない。自然の理を知るとは、人間の技術の過信を去ることから始まる。主役は人ではなく大自然である。人はそのおこぼれに与かつて慎ましい生を得ているに過ぎない。知っていたつもりだったが、この事態を前に、初めて骨身に染みて実感したのである。

終章

世の流れは相変わらず「経済成長」を語り、それが唯一の解決法であるかのような錯覚をすりこみ続けている。経済カさえつけば被災者が救われ、それを守るため国是たる平和の理想も見直すのだといぅ。これは戦を図上でしか知らぬ者の危険な空想だ。戦はゲームではない。アフガニスタンの体験から、自信をもって証言しよう。

 極言すれば、私たちの「技術文明」そのものが、自然との隔壁を作る巨大な営みである。時間や自然現象さえ支配下に置けるよぅな錯覚の中で私たちは暮らしている。かつて知識や情報がこれほど楽に入手でき、これほど素早く移動できる時代はなかった。一昔前の状態を思ぅと隔世の感がある。だが、知識が増せば利口になるとは限らない。情報伝達や交通手段が発達すればするほど、どうでもよいことに振り回され、不自然な動きが増すように思われて仕方がない。

しかし、アフガニスタンの実体験において、確信できることがある。武力によつてこの身守られたことはなかつた。防備は必ずしも武器によらない。
(略)
そして、「信頼」は一朝にして築かれるものではない。利害を超え、忍耐を重ね、裏切られても衷切り返さない誠実さこそが、人々の心に触れる。それは、武力以上に強闽な安全を提供してくれ、人々を動かすことができる。私たちにとつて、平和とは理念ではなく現実の力なのだ。私たちは、いとも安易に戦争と平和を語りすぎる。武力行使によつて守られるものとは何か、そして本当に守るべきものとは何か、静かに思いをいたすべきかと思われる。

「天、共に在り」
本書を貫くこの縦糸は、我々を根底から支える不動の事実である。やがて、自然から遊離するバベルの塔は倒れる。人も自然の一部である。それは人問内部にもあって生命の営みを律する厳然たる摂理であり、恵みである。科学や経済、医学や農業、あらゆる人の営みが、自然と人、人と人の和解を探る以外、我々が生き延びる道はないであろう。それがまっとうな文明だと信じている。その声は今小さくとも、やがて現在が裁かれ、大きな潮流とならざるを得ないだろう。
これが、三十年間の現地活動を通して得た平凡な結論とメッセージである。

【関連読書日誌】

  • (URL)“癩病患者の収容の歴史をふり返ってみるとき、瞭然と浮かび上がってくるのは、...諸外国への体面から癩者をまるで虫げらのように踏みにじってきた、ファシズムとしての医療のあからさまな姿である”『火花―北条民雄の生涯』 高山文彦 七つ森書館
  • (URL)“古い病気に新しい治療法が見つかる.すばらしい.でも,無慈悲で,残酷な世界でもある.”『わたしを離さないで  (ハヤカワepi文庫) 』 カズオ・イシグロ  土屋政雄 訳 早川書房

【読んだきっかけ】
【一緒に手に取る本】

アフガニスタンの診療所から (ちくま文庫)

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医者、用水路を拓く―アフガンの大地から世界の虚構に挑む

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