”アーレントは戦時中の体験から、「世界は沈黙し続けたのではなく、何もしなかった」と考えていた。大量殺戮が始まる以前の一九三八年の「水晶の夜」にたいする各国の言論上の非難は、難民の入国制限を進めるといぅ行政的措置と矛盾していた” 『ハンナ・アーレント - 「戦争の世紀」を生きた政治哲学者 」』  (中公新書) 矢野久美子  中央公論新社 (2/3)

第四章 1950年代の日々
1 ヨーロッパ再訪
2 アメリカでの友人たち
小説家,評論家のメアリー・マッカーシー(Mary Therese McCarthy, 1912年6月21日‐1989年10月25日)(Wikipedia, メアリー・マッカーシー, http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%BC (optional description here) (as of July 9, 2014, 14:47 GMT). )とは生涯の友人であった.そして,沖仲仕の哲学者.エリック・ホッファー(Eric Hoffer, 1902年7月25日 - 1983年5月20日)(Wikipedia, エリック・ホッファー, http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%83%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC (optional description here) (as of July 9, 2014, 14:50 GMT). )との交友.
なるほど,ホッファーね.何となくわかるような気がする.権威に依らず個に重きをなす立ち位置.
P.140

ホッファーによれば、世界の人間化、文明化は「衝動と実行との間隔」、「行動を起こす前のためらい」があって初めて実現する。ここでの「理解、洞察、想像、概念」とは、アーレントにおいては「思考」と置き換えられるだろぅ。ホッファーはそれらを可能にする「小休止」こそに「人間の生き残り」はかかっていると考えた。人間を自動化し自然化することは人間を予測可能な自動機械に変えることである。そのことを全体主義的支配者は理解していたし、現代社会でもその危険性は十分にある。思考や叙述のスタイルはまったく異なるが、ホッファーとアーレント現代社会にたいするまなざしには重なり合う部分があった。

3 『人間の条件』
P.145

さらにアーレントは、自分はとくにどの活動力を高く評価しているわけでもないと語り、自分はそのヒエラルキーの歴史的な変化を示そぅとしたのだと語っている。この書で彼女は人間の活動力を、労働labor、仕事work、活動actionに区別して考察した。

第五章 世界への義務
1 アメリカ社会
P.162 リトルロック高校事件(英:en:Little Rock Nine)(Wikipedia, リトルロック高校事件, http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF%E9%AB%98%E6%A0%A1%E4%BA%8B%E4%BB%B6 (optional description here) (as of July 9, 2014, 16:00 GMT). )への発言が批判を呼ぶ

アーレントは、何よりもまず黒人と白人の結婚を禁じる婚姻法などの差別的法律を廃止し、政治的平等を実現するべきだと強調する。他方で、平等や同権は政治的領域の事柄であって、社会的領域ではエスニック集団の差異や職業や所得による集団間の差異は不可欠なのだと述ベる。彼女にとって重要だったのは、差別を社会的な領域のうちにとどめておくこと、「差別が破壊的な力を発揮する政治的な領域や個人的な領域にはいり込まないよぅに」することであった。しかしこの区別もまた、彼女独自の思考に基づいたものであり、社会的差別を容認するような保守的な響きをもつたのである。

2 レッシングをとおして
P.174

「思考の動き」のためには、予期せざる事態や他の人びとの思考の存在が不可欠となる。そこで対話や論争を想定できるからこそ、あるいは一つの立脚点に固執しない柔軟性があって初めて、思考の自由な運動は可能になる。レッシングの動きのある思考は、たとえ世界と調和しなくても世界に関わり、多様な意見が共存することを重視する。それは、人びとが結合したり離れたりするような距離をもっていることと連関していた。

P.177

この場合、「人間であること」の強調は差別と背中合わせだったのである。また、こうして「人間性」が掲げられる一方で、そこでの社会は、ドイツ的教養を身につけたユダヤ人だからこそ「例外」として受け入れたという事情もあった。すなわち、当時の人文主義は、ユダヤ人を自分たちと同じ「教養」をもちながらも「ユダヤ人」である者として、さらには「抑圧された民族からの出身」であり「特殊性」を帯びた、「人類の新しい見本」として受け入れたのである。したがって、そのようにして受け入れられた教養あるユダヤ人たちは、ドイツ社会での「例外」であると同時に、ユダヤ民族のなかの「例外者」でもあった。

『マラーノの系譜』ですね.
P.178 レッシング賞受賞講演より

「ユダヤ人」といぅことでわたしが意図したのは、歴史的な負荷あるいは特徴をもった実在といぅことではなく、政治の現在形を認識することにほかならなかったのです。そこで命じられていた帰属のかたちは、まさしく個人的アィデンティティの問題を、匿名という意味で、すなわち無名という意味で決定づけていました。

3 アイヒマン論争
P.188

アーレントは戦時中の体験から、「世界は沈黙し続けたのではなく、何もしなかった」と考えていた。大量殺戮が始まる以前の一九三八年の「水晶の夜」にたいする各国の言論上の非難は、難民の入国制限を進めるといぅ行政的措置と矛盾していた。「ナチが法の外へと追放した人びとはあらゆる場所で非合法となった」のである。アーレントはナチの先例のない犯罪を軽視しているわけではけっしてないが、ナチを断罪してすむ問題でもないと考えていた。また、加害者だけなく被害者においても道徳が混乱することを、アーレント全体主義の決定的な特徴ととらえていた。アイヒマンの無思考性と悪の凡庸さという問題は、この裁判によってアーレントがはじめて痛感した問題であった。アーレントは裁判以後にこの問題をあらためて追及することになる。

P.190

亡命や無国籍状態、伝統との断絶といういくつもの亀裂を経験したアーレントにとって、個々の友人とのつながりだけが「生の連続性」を肯定するものだった。一九四五年、彼女はニューョークからイェルサレムのブルーメンフエルトに次のように書いたことがあった。

昔の友人に再会する不安は、わたしにはよく分かる。わたしたちのようなボヘミアンの場合、つまりどこにも根をもたなくて、だから自分の環境世界を持ち歩いているようなもっと正確にしえばそれをしつも新たに作り出すことを必要とせざるをえないようなそうした人たちの場合、この普通に人問的で自然な不安から簡単にパニックが生じてしまう。自分たちの感受性が(比喩的にいえば)蔵檐にも家財道具にも守られていないということが分かっているから。 (ブルーメンフヱルト宛書簡、八月二日)

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