”アーレントはカント講義のなかで、判断力が機能するためには人間の社交性が条件であり、人間は「精神的諸能力のためにも仲間に依存している」と語っていた。つまり複数で生きる人びとが共通感覚をもつためには、相互の仲間を必要とするといぅことである。判断は他者との関係のなかでおこなわれ、他者の立場から物を考える「拡張された思考様式」を要請する。判断力は、他者の視点から世界がどのように見えるかを想像する力を前提としている” 『ハンナ・アーレント - 「戦争の世紀」を生きた政治哲学者 」』  (中公新書) 矢野久美子 

第六章 政治と思想
1 「論争」以後
P.195 

ベテルハイムは、『イェルサレムのアイヒマン』公刊後すぐに書いた長文の書評論文で、アイヒマン裁判で問題となっているのは犠牲者までをも巻き込んだ全体主義体制であり、それを反ユダヤ主義の最終章としてではなく、「技術志向の大衆社会」のなかで今後も生じる恐れがある全体主義の第一章として見なさければならない、と強調した。そして、この裁判は全体主義体制下の人間が自分の魂と生命を救いうるかどうかの分岐点が明らかになっていると書いた。アイヒマンは初めて絶滅収容所を訪問したとき失神しそうになったが、「自分の感情的な反応に注意を向けるかわりに」自らの義務として,割り当てられた仕事」を遂行しようとした。「これは、アイヒマンにとって戻り道のない地点であった」。

P.198

ヤスパースは、アーレントの著書が騒ぎになりはじめたころから一貫して親身になって彼女を支えていた。返事がこなくても手紙で励ましつづけている時期もある。彼は、彼女が「嘘にたてこもって生きてるあれほど多くの人のいちばん痛いところを衝いた」のだと述ベ、自分の発言がそうした人びとの「生きるための嘘」への攻撃ともなることに気がつかない彼女の「ナイーヴさ」に言及している。他方で、「レッシングにも似た」彼女の文筆家としての力量を称え、歴史的事実にかんして自身の知識やもっている情報や助言を惜しみなく提供した。
(中略)
ショーレムは、彼女の本に見られる「冷笑的で悪意に満ちた語り口」に異議を唱え、それがユダヤ人の受難や悲劇にとつてあまりにも不適切なスタイルであり「心の礼節」を欠くものだと批判し、「民族の娘」である彼女に「ユダヤ人への愛」が見られないことが残念だと述べた。アーレントは、自分は「民族の娘」ではなく自分自身以外の何者でもないと答え、さらには、自分が愛するのは友人だけなのであり、「なんらかの民族あるいは集団を愛したことはない」と書いた。また、政治における「心の役割」は真実を隠し、不愉快な事実を報告する者を責める状況にもつながると述べ、彼女自身の「大きな悲しみ」t見せるためのものではないとも伝えている。
(中略)
これらの諸論稿は、個人的には深い痛みをもたらした経験を心理的に解決するのではなく世界との関わりのなかで思考し、その意味を理解しようとするアーレントの姿勢を示してもいるだろう。
(中略)
「独裁体制のもとでの個人の責任」のなかで、アーレントは「公的な生活に参加し、命令に服従した」アイヒマンのような人びとに提起すべき問いは、「なぜ服従したのか」ではなく「なぜ支持したのか」という問いであると述べた。彼女によれば、一人前の大人が公的生活のなかで命令に「服従」するということは、組織や権威や法律を「支持」することである。「人間という地位に固有の尊厳と名誉」を取リ戻すためには、この言葉の違いを考えなければならない。

2 暗い時代
アンジェロ・ジュゼッペ・ロンカッリ(Angelo Giuseppe Roncalli)ヨハネ23世,ローマ教皇(在位:1958年10月28日-1963年6月3日)(Wikipedia, ヨハネ23世 (ローマ教皇), http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%8D23%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87) (optional description here) (as of July 9, 2014, 16:37 GMT). )
P,207 

ロンカッリは、謙虚で温和な人柄と他教会や他宗教との対話に積極的であつたことで知られている。アーレントは彼の『魂の日記』(一九六五年)の書評を書き、そのさいに記録や文献だけでなく伝え聞いた彼の言動に関する逸話も織り込んだ。一九六三年、ドイツの劇作家ロルフ・ホーホフートの戯曲で ローマ教皇ピウス 一二世のナチとの関わりとユダヤ人虐殺にたいする沈黙という歴史事実を描いた『神の代理人』が、アーレントの『イェルサレ厶のアィヒマン』と同様の激しい論争とカトリック教会からの反発を引き起こしていた。病床のロン力ッリはその書を読み、「どんな手が打てるか」という質問に「真実に対してどんな手を打てるのですか」と答えたという。アーレントはこのロンカッリ論をのちに『暗い時代の人々』の一つの章に組み入れた。

P,209 トンキン湾事件

現実、すなわちリアリティを欠いたまま歴史が進行しでいくことは、人問がみずからの尊厳を手放すことでもある。ところが、「問題解決家」と称するエリートたちによって,彼らの「理論」を優先する「イメージづくり」が熱狂的におこなわれた。事実や現実は無視されたのである

P.212 ヤスパース追悼式典でのアーレントによる追悼の辞

人間のもっとも儚いもの、しかし同時にもっとも偉大なもの、つまりその人の語った言葉や独特の身振りは、その人とともに死んでいく、でもそれらこそ私たちを必要とし、私たちが彼を忘れないでいることを求めているのです。追憶は死者との交わりのなかでおこなわれ、そこから死者についての会話が生まれ、それがふたたびこの世にひびきわたります。死者との交わりこれを学ばなくてはなりません、私たちはこの共同の追悼の場において、それをいま始めようとしているのです。(『アーレントヤスパース往復書簡3』)

P.216 

アーレントは「物語る」ということにたいして強い思い入れをもっていた。政治学会で自分の理論を「わたしの古風な物語り」(my old-fashioned story-telling)と呼んで、会員からほとんど無視されたことさえあった。「理論がどれほど抽象的に聞こえようと、議論がどれほど首尾一貫したものに見えようと、そうした言葉の背後には、われわれが言わなければならないことの意味が詰まった事件や物語がある」と彼女は言う。個々の事件や物語へと脱線し、多くの解釈が混在する「物語」よりも、理路整然とした論証のほうが理解しやすい、という知的先入見あるいは慣習のようなものがある。しかしそれだけでは人間の経験の意味を救い出すことはできない、と彼女は考えていた。アーレントは、「どんな悲しみでも、それを物語に変えるか、それについて物語れば、耐えられる」というアイザック•ディネセンの言葉をしばしば引用していた。

このディネッセンは,小説家で『愛と悲しみの果て』,『バベットの晩餐会』の原作の作者なんですね.
カレン・ブリクセン(Baroness Karen von Blixen-Finecke, 1885年4月17日 - 1962年9月7日)は、20世紀のデンマークを代表する小説家。デンマーク語と英語の両方で執筆し、デンマーク語版は本名のカレン・ブリクセン名義、英語版はペンネーム(男性名)のイサク・ディーネセンもしくはアイザック・ディネーセン(Isak Dienesen)名義で作品を発表した。作品によっては作品間の翻訳の際に加筆訂正がなされ、時には別作品ともいえる物になっているという複雑な作家である。現在のデンマークの50クローネ紙幣には彼女の肖像が使われている(Wikipedia, カレン・ブリクセン, http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AA%E3%82%AF%E3%82%BB%E3%83%B3 (optional description here) (as of July 9, 2014, 16:51 GMT). )
P.219

ヤング・ブルーエルは、アーレントが「思考」と「意思」の部分ではおもにハイデガーと対話し、「判断」の講義ノートではヤスパースおよびプリユッヒャーと共鳴していた、と書いているが、これは正しい指摘だと思う。ハイデガーは非凡な深みをもつが他者を欠く哲学者だったのにたいして、ヤスパースとブリユッヒャーは「判断力の範例」であった。アーレントはカント講義のなかで、判断力が機能するためには人間の社交性が条件であり、人間は「精神的諸能力のためにも仲間に依存している」と語っていた。つまり複数で生きる人びとが共通感覚をもつためには、相互の仲間を必要とするといぅことである。判断は他者との関係のなかでおこなわれ、他者の立場から物を考える「拡張された思考様式」を要請する。判断力は、他者の視点から世界がどのように見えるかを想像する力を前提としている。

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今こそアーレントを読み直す (講談社現代新書)

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人間の条件 (ちくま学芸文庫)

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戦争と政治の間――ハンナ・アーレントの国際関係思想

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