“人びとは、みなそれぞれ何かの檻に囚われているでしょう。けれど、一人一人が自分を解放するために、言葉と記録はあるのです” 『東京プリズン』  (河出文庫)  赤坂真理 河出書房新社

2012年7月単行本として刊行され、毎日出版文化賞司馬遼太郎賞、紫式部文学賞を受賞し、話題となった小説。2014年7月文庫化に際し、書店で見つけて購入。読みはじめて、没入しかけたところで、電車の中に置き忘れ。同時期、書店で見つけた同じ著者による『愛と暴力の戦後とその後』(講談社現代新書)先に読了。これはとんでもないすごい本であった。文庫本の重版まって再購入し、今年6月に読了。
 アメリカの高校に放り込まれた著者が、進級の条件として、ディベートへの参加を課せられる。お題は、天皇戦争責任。しかも肯定側の代表として。
 先の戦争について、知らなかったことがなんて多いことかと知らされた2冊でもある。池澤夏樹氏による解説の最後『 読み終わった時、戦後史について、日本という国の精神誌について、自分の中に新しい像が生まれていることに気づく。そして感心するのだ、小説にはこんなこともできるのかと。』がすべてを語っていると言えよう。
P.48 誤って撃ってしまった子鹿の死体を皆で分け合って隠す

わかったことがひとつあった。今のところ何の役にも立たないが。バラバラ殺人とうのは、猟奇趣味というより実用本位なのだ。つまりは、そうしないと持ち運べないし、隠せもしない。

P.194

 でも夢で電話に出てなんになる?私の理性が私に問いかけて体を重くする。もうそろそろ目をさまそうよ、起きて普通の社会人の生活をしようよと。
 でも思う。祈るほどに強くこう思う。
 夢だからこそ、何かの通路なのだ。それが何かは、今はわからなくても。あるいはたとえ、鬼や魔が通るのだとしても。
 助けて。

P.210

「また殆どの日本人にとってヒロヒトの肉声を聴くのはこれが初めての機会であり、ヒロヒトの声の異様さ(朗読の節、声の高さ等)に驚いたというのもしばしば語られる。また沖縄で玉音を聞いたアメリカ兵が日本人捕虜に『これは本当にヒロヒトの声か?』と訊ねるも、答えられる者は誰一人居なかったといぅ話が残る」
 “ヒロヒト”とは、誰だったのだ?

P.212

「思い出してみてよ。どんな風景だったの?」
「昭和二十年の五月二十五日に山の手空襲で、みんな焼けたわ」
 そんな話、聞いたことがなかった。

P.222

外国にいたり外国語が不十分だったりするときに感じるフラストレーションとは、つまるところ、こういう小さなことを伝えられないことだ
人の心の基本的なところは、こういう小さなことでできている気がする。どうしても、というわけではないが、私が私であるというような小さなこと。伝えたところで、面白がってももらえないと思うと、言う気も萎えるがこういうことは、ずっと外に出なくても大丈夫なのだろうか。

P.228

「味方にも多くの犠牲を出した一八六三年のゲティスバーグの戦いの後、リンカー大統領がゲティスバーグの激戦地を国立墓地にする式典で行った演説が、有名『peopleの、peopleによる、peopleのための政府』といぅやつだよ」
 えっ、あれは、大統領就任演説ではないのか!
「なぜ戦死者のために行ったのかしら!?」

P.319

 それはごくふつうの一瞬だった。しかしそのとき私は、民主主義というものに触れた気がして打たれた。感動でありショックな体験だった。ああ、民主主義というのはきっと投票や多数決のことじゃない、それはおそらく私たちの血肉から最も遠いというくらいにかけ離れた概念なのだ、と。そのことが骨身に沁みてきた。

P.328

悪意や、蔑視はあったかもしれませんが、だからってヴェトナム人を殺すために何千倍もの濃度にしてやるというのでは、説明がつきません。枯葉剤はあくまでも補助的な作戦ですから。枯葉剤濃度の説明はおそらく、高度です。農薬散布と同じ要領で、低く飛んで薬をスプレーしていきますが、低いなりにかなり高く飛ばなければ、撃ち落とされます。ゆっくり飛ぶわけだし。だから、濃度は、散ってしまう分を計算に入れたんだと思います。それでも、濃すぎはしましたが……おそらくそれは、結果です。

P.436

そういえば、徴兵(ドラフト)に対して志願兵を、ヴォランティアと言う。日本語の“ボランティア”と、同じ言葉とは思えない。クリ
ストファーはさながら、誇り高き志願兵だった。

P.464

 いわゆる「人間宣言」は「昭和二十一年年頭の勅書」と冒頭にあるだけで、「人間宣言」はメディアが勝手につけたタイトルだろう。「朕は人間である」などとはひと言も言っていない。「臣民」でなく「国民」という言葉が天皇の言として初めて使われたことが画期的な勅書だとはいえ、それは天皇が戦後の様子を嘆くというトーンが最も色濃く、長い戦争が敗北に終わった結果、国民がややもすれば焦りや失意に流れやすいなどといささか他人ごとのように語られたのち、朕と国民との袢は信頼と敬愛であり、神話と伝説ではない、などと淡々と続くだけで「私は神ではない」とさえ言っていない。

P.502

『間違った戦争』の間違たやり方により犬死にした者、犬死にした者たちに感応してあとを追うように犬死にした者たち。あるいは己を許されざる者と思っている心の罪人。死んだ意味がわからなかつた人たち。生き残ったことに罪の意識を感じる人たち。戦争を支持したことが間違つていたと自らを責める人びと。大規模な米軍基地に居座られたままの沖縄、その沖縄を見て見ぬふりをいるその他の日本の人びと、そしてそれらに対して口を閉ざす人びと。
 汝ら、勝った者たちに訊きたい。勝てば、正義か?

P.518

「それではあなた方に訊きますが、東京大空襲はどうです? 日本人は、関東大震災第二次世界大戦を、似通った風景として記憶しています。それもそのはず、東京大空襲は、関東大震災の延焼パターンを研究して、どこをどう燃やすと効率的に東京を焼き払えるのかを知って、それを実行したのです。民間人の住まう地域を、戦略的に焼く。どのように言ってもどのような大きな目標や高邁な理想があろうと、それそのもは、国際法違反でありますね?」

P.526

今、こう言えることを私は幸せに思つています。これは私を幸せな気持ちにするのみならず、記録として残るからです。記録として残れば、見知らぬ誰かを、その囚われた檻から解放できる可能性力あるからです。ネィティヴ・アメリカンも、ヴヱトナム人も、日本人も、アメリカ人も。人びとは、みなそれぞれ何かの檻に囚われているでしょう。けれど、一人一人が自分を解放するために、言葉と記録はあるのです。

P.530 解説 小説にはこんなこともできるのか 池澤夏樹

 小説は感情の器であって論理の装置ではない。だから小説は、社会制度・歴史の解釈・科学の価値などを扱わない。少なくとも直接的には。小説はその名のとおり「小さな説」である。
 しかし、世の中には個人の運命を通じて抽象的な大きな問題を考える小説も存在する。この手法には困難が多いけれど、うまくいけば傑作になる。たとえば「戦争と平和」のように。
(中略)
 読み終わった時、戦後史について、日本という国の精神誌について、自分の中に新しい像が生まれていることに気づく。そして感心するのだ、小説にはこんなこともできるのかと。

【関連読書日誌】

  • (URL)大日本帝国軍は大局的な作戦を立てず、希望的観測に基づき戦略を立て、陸海軍統合作戦本部を持たず、噓の大本営発表を報道し、国際法の遵守を現場に徹底させず、多くの戦線で戦死者より餓死者と病死を多く出し、命令で自爆攻撃を行わせた、世界で唯一の正規軍なのである。私が問いたいことはこうだ。 それは、正規軍と言える質だったのだろうか?” 『愛と暴力の戦後とその後』(現代新書) 赤坂真理 講談社
  • (URL)“私たちは当たり前のように享受しているこの「戦後」を、二度と「戦前」に引き戻してはならない” 『日本の戦争 BC級戦犯 60年目の遺書』 田原総一朗監修 田中日淳編 堀川惠子聞き手 アスコム
  • (URL)“今こそ、私たちの来し方を振り返り、戦後の再スタートの土台に据えた精神を思いおこすべきだろう” 『チンチン電車と女学生』 堀川惠子, 小笠原信之  日本評論社
  • (URL)“文学の責務は良心と道義的な覚醒に向けて、不正に対する憤りと被害者に寄せる共感に裏打ちされた敏感さの拡張に向けて、目覚ましのベルを鳴らす工夫をすることです” 『この時代に想うテロへの眼差し』 スーザンソンタグ, Susan Sontag, 木幡和枝訳 NTT出版
  • (URL)“銃口の向きを変えるためには、おのれの肉体の消滅を賭けて、思想の変革を果たさなければならない” 『イタリア抵抗運動の遺書―1943・9・8‐1945・4・25  冨山房百科文庫 (36) 』 P・マルヴェッツィ, G・ピレッリ編 河島英昭 他訳 冨山房

【読んだきっかけ】文庫化された本書を書店でみつけて。単行本の世評は知っていた。
【一緒に手に取る本】

モテたい理由 (講談社現代新書)

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ヴァイブレータ (講談社文庫)

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