“ニー世紀直前の東京で、通行人があからさまに外国人を凝視するようなことはほとんどない。それでも、日本の全国民から注目を浴びる対象であることを、外国人は常に感じている。人々は直視するわけでも、明確な好意や非難を示すわけでもない。単にちがうということを控えめに示すのだ。日本では、外国人は新たな国の市民――ガイジン――になる。もちろん刺激的ではあるが、精神的な重圧になる場面も多い” 『 黒い迷宮 ルーシー・ブラックマン事件15年目の真実』  リチャード・ロイド・パリー 早川書房

黒い迷宮 ルーシー・ブラックマン事件15年目の真実 (早川書房)

黒い迷宮 ルーシー・ブラックマン事件15年目の真実 (早川書房)

原著“People Who Eat Darkness: The True Story of a Young Woman Who Vanished from the Streets of Tokyo--and the Evil That Swallowed Her Up”(Richard Lloyd Parry) FSG Originals
ザ・タイムズのアジア編集長・東京支局長の著者が10年の歳月をかけて取材した内容をまとめたもの。日本在住が長いとはいえ、日本人ではない著者がよくぞここまでかけたものだと感心。英国、米国のいくつかの賞候補になったのもうなずけるし、帯に、高村薫宮崎学、吉岡忍各氏の賛辞があるのももっともである。
 被害者であるルーシー・ブラックマンを軸とした、個人史の集積であり、人間物語であるとともに、優れた日本文化論ともみなせよう。
プロローグより

当初はちょっとしたパズルだったこの事件は、時が経つにつれて難解なミステリへと変貌を遂げた。悲劇の被害者ルーシーは、最後には、日本の法廷での激しく苦々しい論争の主人公になった。事件は日本とイギリスで大きな注目を集めたが、人々の興味には波があった。誰も事件に興味を持たない時期が何力月もあるかと思えば、新しい展開にょって突如として再び脚光を浴びる時期もあった。概要だけを聞けば、ありふれた事件でしかなかった――若い女性が失踪し、男が逮捕され、死体が発見される。しかし詳細を調べてみると、それが非常に入り組んだ事件であることがわかってくる。異様で不合理な展開の連続で、型通りの報道ではすべてを伝えることなどできない。それどころか、ほとんど何も解決できず、新たな疑問を増やすだけだった。
(中略)
大学卒業後、私はほとんどの時間を東京で暮らし、アジアを中心に世界各国を取材してまわった。自然災害や戦争を報道する記者として、深い悲しみや社会の暗い闇を何度も目の当たりにしてきた。しかし、ルーシー事件の取材では、それまで眼にしたことのない新たな人間の側面を垣間見ることになった。まるで、普段いた部屋に隠し扉があり、その鍵を見つけたょぅな感覚だった。秘密の隠し扉の奥には、それまで気づきもしなかった、恐ろしく暴力的で醜い存在が隠れていた。それを知った私は、人知れず自分を恥じ、なんと浅はかだったのかと感じずにはいられなかった。経験豊かな記者であるはずの私から、大都市に潜む異様な何か――職業柄、知っていてしかるべきだった何か――が、すっぽりと抜け落ちていたかのような気分になったのだ。
(中略)
そこで私は、死ぬまえの彼女の人生を描くことによつて、ル―シー.ブラックマンに、あるいは彼女の記憶に、何か貢献ができないかと望むようになった。本書によって、普通の人間としてのルーシーの地位を回復させ、彼女は彼女なりに複雑で、愛すべき女性だったことを証明したいと思う。

P.79

ニー世紀直前の東京で、通行人があからさまに外国人を凝視するようなことはほとんどない。それでも、日本の全国民から注目を浴びる対象であることを、外国人は常に感じている。人々は直視するわけでも、明確な好意や非難を示すわけでもない。単にちがうということを控えめに示すのだ。日本では、外国人は新たな国の市民――ガイジン――になる。もちろん刺激的ではあるが、精神的な重圧になる場面も多い。「当たりまえに生きられないのがここでの生活。いつも何か発見がある」と、晚年まで日本に在住したアメリカ人作家ドナルド・リチーは著書に綴った。「そんな活き活きとした繫がりとともに、外国人がこの国に警戒しながら住んでいるのだ。起きているあいだは、電流が常に流れているようなもの。彼または彼女はいつも何かに気がつき、それを評価し、発見し、結論づける……私は、そんな当たりまえに生きられない人生が好きなのである」

P.196

どんな混乱と悲しみのなかにいても、彼には一歩うしろに引き、嵐のように入り乱れる自らの心理状態を俯瞰して見る能力が備わつていた。「いい買い物でした」とティムは言つた。が、同じ台詞を言う勇気と洞察力を持ち合わせる人間がいったい何人いるだろうか? 彼と同じ状況――普通であれば、詐欺師に辱められたと感じる状況――に置かれた人間が、果たして同じ台詞を口にできるだろうか?

P.492

事件後、ジェーンは心理療法士のカウンセリングを受け、同じように子供が殺害された日本人やィギリス人の母親たちと話をした。誰もが親切で同情的だったが、なんの助けにもならなかった。その後、彼女はEMDR (眼球運動による脱感作と再処理法)という治療に出合う。イラクアフガニスタンからの帰還兵のPTSD治療のために広く使われる手法で、完全なメヵニズムこそ解明されていないものの、その効果の高さには定評があった。

この治療法は、NHKのドキュメンタリーで紹介されていたことがある。
【関連読書日誌】
【読んだきっかけ】書店にて。書評を読んでいたので。
【一緒に手に取る本】

ルーシー事件―闇を食う人びと

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東京アンダーワールド (角川文庫)

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東京アウトサイダーズ―東京アンダーワールド〈2〉 (角川文庫)

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