“早期平和実現プログラム、またの名をフェニックス作戦。へたな冗談だ。多くの人間が早ばやと平和な永い眠りへと導かれた” 『犬の力 上』  (角川文庫)  ドン・ウィンズロウ 東江一紀訳 角川書店

同じ著者の『ザ・カルテル』の書評で、前作『犬の力』と合わせて5点(満点)がついていたので読む。両方で上下冊、2000ページを超える大作となる。しかし、一気に読みと通す。フィクションでであるものの、メキシコ、アメリカの麻薬戦争の現実、史実を踏まえたもの。
 しかしながら、これほど大勢の人間が死んでいく著作ははじめてだし、これほど凄惨な拷問が日常的に行われていく物語も初めてである。
 だがしかし、これが現在、麻薬を取り巻く犯罪世界、というより錬金術世界の現実。それが人間の現実だと認識して、冷徹に受け止めておく必要があるだろう。
 ここに描かれている物語がリアリティをもって感じられるのは、史実ときちんと重ね合わせたわけでもないのにそう感じられるのは、次の二つのことからである。
 春から夏にかけてヨーロッパを中心にテロが頻発したこともあり、リオ・オリンピック前に、社内でテロ対策講習会が開催された。リオデジャネイロ市内には、警察の統治権の及ばない無法地帯があるとの説明。仕事で出張した人たちは、防弾ガラスの装備された車を利用したらしい。
 また、オリンピック後に、「ウサイン・ボルトリオ五輪中に麻薬王の未亡人と浮気」というゴシップニュースが流れた。真偽は定かでないが、この2作の物語で語られた世界そのものなのである。いかなる手段を使ってでも、抱き込んでいくのである。
見返しにあるあらすじから

メキシコの麻薬撲滅に取り憑かれたD E Aの捜査官アー卜・ケ
ラー。叔父が築くラテンアメリ力の麻薬カルテルの後継バレー
ラ兄弟。高級娼婦への道を歩む美貌の不良学生ノーラに、やが
て無慈悲な殺し屋となるヘルズ・キッチン育ちの若者カラン。彼
らが好むと好まざるとにかかわらず放り込まれるのは、30年に
及ぶ壮絶な麻薬戦争。米国政府、麻薬カルテル、マフィアら様々
な組織の思惑が交錯し、物語は疾走を始める一。

P.17

 コンドル作戦、か。
 メキシコの空で本物のコンドルが見られなくなってから、もぅ六十年以上経つ。合衆国では、それ以上だ。しかし、どんな作戦も、名前がなかったら現実のものとは感じられない。だから、コンドル。
 アートはこの鳥のことを、少し本で調べた。コンドルは世界最大の猛禽で、といっても小鳥や小動物を襲って捕食するより狩りの跡をあさるほぅを好む。大きなコンドルなら小型の鹿を仕留めるぐらいの力を持つが、得意なのは、ほかの動物が殺した鹿を、上空から舞い降りてかすめ取ること。
 われわれは死者を食いものにしている。
 コンドル作戦。
 またベトナムの情景がよみがえる。
 空から降ってくる死。

P.24

「『早期平和実現プログラム』……」
「はあ」早期平和実現プログラム、またの名をフェニックス作戦。へたな冗談だ。多くの人間が早ばやと平和な永い眠りへと導かれた。

P.27

ついでに教訓を得た。YOYO。
自分の道は自分で拓け(ユーア・オン・ユア・オウン)。

P.33

シナロアで、聖ヘスース・マルベルデの伝説を知らない者はない。大胆不敵な希代の義賊。貧より出でて貧に施す大泥棒。シナロアのロビン・フッド。ー九〇九年に命運尽き、絞首台の露と消えた。その刑場の真向かいに、現在、廟が立っている。

P.339

 差し出せるわけがない。
 この世に、そんなものはない。すべてを失った男――家族を、仕事を、友を、希望を信頼を、祖国への愛着を失った男には、誰も何も差し出せはしない。何者でもない男に差し出すものはない。

P.368

 八年前、メキシコを百数十年ぶりに正式のローマ・カトリック国に戻すという使命を帯びて、バチカンから派遣されてきた。1856年に制定されたレルド法で、教会所有の広大な農場や-土地が差し押さえられ、翌五七年の革命憲法で、教会は完全に権力を剥奪された。バチカンが報復措置として、憲法に忠誠を誓ったメキシコ人を全員破門にしたという経緯がある。
 一世紀以上にわたって、バチカンとメキシコ政府のあいだには、不安定な休戦状態が存在した。公式の外交関係は一度も復活しなかったが、制度的革命党ー一九二九年以来、一党独裁の疑似民主制でメキシコを支配してきた大合同政党――の最も急進的な社会主義者たちですら、信心深い農民の多いこの国で、教会を完全に廃止しようとはしなかった。聖職者の正装の禁止など、細かい制限は加えられたものの、政府はおおむね消極的な歩み寄りの姿勢を示してきた。

P.455

そこで、パコは電話をかけ直し、コヨーテ峡谷沿いの、国境にあたる古びた金網塀のところで受け渡しすることで話をつける。
 中間地帯(ノーマンズ・ランド)だ。

なんとも皮肉な話ではあるが、メキシコ現代史のテキストにもなるかも。
メキシコと言えば、学生時代に読んだ『メキシコからの手紙―インディヘナの中で考えたこと―』(1980年、岩波新書)が懐かしい。ラストが忘れられない。

黒沼ユリ子さんは、今は日本に帰国し、御宿にいらっしゃるらしい。
http://sonegoronet.jimdo.com/芸術-文化/黒沼ユリ子/

一九六一年の夏休みに待望のギリシャ旅行が実現。アテネでパルテノンの丘を眺めつつ、私は「ここがホメロス叙事詩『オッデュッセイア』の世界だったのか」と、感動に浸っていた。ところが隣に立つ「道案内人」は一言「ここから世界がひっくり返り始めたのだよ」と、はき捨てるように言うではないか。
 が、むろんその時の私にはその意味を理解できるはずもなかった。その約十年後、メキシコ北東部のシエラ・マードレ(山脈)の山奥の村で、まるで現代文明から忘れ去られたような生活しかできない人々の間で暮らすことになるまでは…。(拙著「メキシコからの手紙」=岩波新書=参照)

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【読んだきっかけ】週刊文春書評『ザ・カルテル
【一緒に手に取る本】

メキシコの輝き―コヨアカンに暮らして (岩波新書)

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