“はっきりさせておきたい。教育スキルを上げようとしてわざと感染してきたわけではないのだ” 『寄生虫のはなし わたしたちの近くにいる驚異の生き物たち』 ユージーン・H・カプラン 篠儀直子訳 青土社

寄生虫のはなし わたしたちの近くにいる驚異の生き物たち

寄生虫のはなし わたしたちの近くにいる驚異の生き物たち

たぐいまれなる希有の書である.特に日本においては.その理由は後述しよう.
原題は“What's Eating You?: People and Parasites”である.邦題は,宣伝向けにやや安っぽく脚色されたような印象を受ける.帯にある文言のうち,「おぞましくも美しい生命の不思議」は的を射ているが,「これを読めばあなたもきっと寄生虫博士になれる」はちょっと著者の意図と違うように思う.

本書を読むにあたり,次のような予備知識をもって臨んだ.

  • 生物進化において,その進化の結果ある今の生物たちの「高等」,「下等」の別は本来無い.人間も寄生虫も,ともに,長い進化の過程で生存競争を生き抜いてきた勝利者である.
  • 寄生虫は宿主(ホスト)の免疫システムによる攻撃から身を守らなければならない.これを守る手段には大きく二つあって,宿主由来の物質によって自分の体を覆ってしまうか,あるいは,自身を守る(囲う)物質を時間とともにどんどん変えていくことによって,宿主の攻撃をかわしていく,というもの.

さて,なぜ,たぐいまれなる希有の書か.本書のようなすばらしい生物学の本が現れることをどれほど待ち望んでいたことだろう.

本書は,著者が大学でおこなった実習,授業一回分を1章としてまとめたものである.このような生きた授業を実現できる環境が日本にあるだろうか.著者は,彼の授業(コース)を「生きた(ライブ)授業」「全面的(トータル)リアリティ・コース」と呼んでいるそうである.

さらに,こうした生きた授業の内容を,ユーモアあふれる一巻の教科書にまとめあげている,と言う点でも貴重な例であろう.どんな学術分野であれ,日本人の手になる教科書でこうした魅力に富んだものは残念ながらほとんど無いだろう.著者のユーモアは,「はじめに」の最後にあるこんな一文にも現れる.

理系学生にとって,些末な事柄に満ち満ちた講義は明らかに負担となるものだ.本書は,講義のあいだじゅう起きていてもらうため,何世代もの学生たちに語ってきた,数々のぞっとするような話しをまとめたものである.

つまり,読者(学生)を飽きさせないためのサービス精神満載なのである.

希有な書であるという3つめの理由は,各章末にあるイラストである.みみず,まなこ,カエルあたりでさえ,気持ち悪がって触れない現代人が多い中で,寄生虫なんてもってのほかである.だから,章末に必ずある,このイラスト群を採録することには若干の勇気を要したであろう.リアリティという点では,写真が望ましいが,コストの点で見合わないのと,生々しすぎて読者を失い兼ねない.イラストだけでも十分気味が悪いというひとが多いはずだ.だが,これがないと,寄生虫の本当の面白さはわからない.

第四に,本書は,エッセーではなく,図鑑でもなく,ちゃんとした哲学に則って書かれた,生物学の教科書である,と言う点である.おもしろがって手に取る人も,気味悪がってこわごわ開ける人も,まず,本書の冒頭にある,「はじめに」「謝辞」「おわび」「生命の神聖さについて」と,巻末にある「エピローグ」を是非読んで欲しい.この本が,確固たる哲学のもとに書かれた生物学の本であることがわかるであろう.

希有な書である理由をもう一つあげるとすれば,訳者が,篠儀直子さんという女性で,しかも,大学院で西洋史学と表象文化論を学んだ方であるという点である.性別や,専門分野で先入観を持つのは失礼であることは承知しているが,「生きた」寄生虫の数々の物語をどのよな気持ちで訳していったのか,ちょっと興味がある.


しかし,英国の子供達の間で唄われる童謡,リング・ア・リング・オー・ローゼズ(Ring-a-Ring-o' Roses)が,ペストの初期症状を唄ったものであったとは驚きました.

最後におまけを一つ.
19章「血を吸う野獣たち ヒル」のところで,

瀉血は昔の治療方法だと思われがちだ.しかし数年前,イスタンブールのスパイスマーケットをぶらぶらしていたときのこと,1ガロンもの汚い水の入った広口瓶が,低いテーブルの上に目立つように置かれているのをわたしは見かけた.(中略)この瓶に入っているのは,治療目的で売られているヒルなのだ...

という文章がある.昨年夏,私が,イスタンブールで撮影した写真がたまたま手元にあるので掲載しておこう.
大きな水タンクに集められたヒル.

その横にあった張り紙.利用方法の説明書きと思われる.

我が家の裏山は,ハイキングコースになっているのだが,近年,ヤマビルの侵蝕が著しく,被害者が多いらしい.ヤマビルに噛まれて血を吸われても,痛くもないし,病気になるわけでもない.しかし,気持ち悪がる人が多くイメージダウンにもなるということで,駆除対策が講じられている.我が家の息子も被害にあってからは,草刈を手伝ってくれなくなった.

エピローグの最後で

究極的な学習経験とは、対象を物理的に感じとることだ。触ること、匂いを嗅ぐこと、聞くこと,見ることである。

アメリカの大学の先生が,「教育」にどれだけの情熱と時間をかけているかを知る好例かもしれない.

【読んだきっかけ】
y-suke0419さんのブログでの紹介記事を読んで.
【一緒に手に取る本】
無脊椎動物の世界に是非触れて欲しいものです.

図説 無脊椎動物学

図説 無脊椎動物学

無脊椎動物の驚異

無脊椎動物の驚異