“何千もの幸運な偶然によって、あるいはお望みなら神の奇跡によってと言ってもいいが、とにかく生きて帰ったわたしたちは、みなそのことを知っている。わたしたちはためらわずに言うことができる。いい人は帰ってこなかった、と” 『夜と霧 新版』 ヴィクトール・E・フランクル 池田香代子訳 みすず書房

夜と霧 新版

夜と霧 新版

ヴィクトール・E・フランクル,『夜と霧』の池田香代子の新訳による新版である.いまから30年以上昔,霜山徳爾訳の旧版を読んだ記憶がある.アウシュビッツについて特に予備知識を持っていなかった私にとって,本の真ん中に挿入されていた幾葉かの写真は衝撃的であった.それにくらべれば,写真のない新版は冷静に読むことが出来る.

原題「一心理学者の体験した強制収容所」に現れているように,強制収容所の報告,内幕ものではなく,過酷な極限的状況におかれた人間のありさまを冷静に観察し,考察した心理学者の記録である.

収容所暮らしが何年も続き、あちこちたらい回しにされたあげく一ダースもの収容所で過ごしてきた被収容者はおおむね、生存競争のなかで良心を失い、暴力も仲間からものを盗むことも平気になってしまっていた。そういう者だけが命をつなぐことができたのだ。何千もの幸運な偶然によって、あるいはお望みなら神の奇跡によってと言ってもいいが、とにかく生きて帰ったわたしたちは、みなそのことを知っている。わたしたちはためらわずに言うことができる。いい人は帰ってこなかった、と。

悪夢にうなされている人を起こしてあげようとして,しばし躊躇する.どんな悪夢であっても,この現実よりはましだと考えたからである.それほど,悲惨な状況の中,単なる気まぐれや運で,人の生死が決まっていく.
P.58

もともと精神的な生活を営んでいた感受性の強い人びとが、その感じやすさとはうらはらに、収容所生活という困難な外的状況に苦しみながらも、精神にはそれほどダメージを受けないことがままあったのだ。そうした人びとには、おぞましい世界から遠ざかり、精神の自由の国,豊かな内面へと立ちもどる道が開けていた。繊細な被収容者のほうが、粗野な人びとよりも収容所生活によく耐えたという逆説は、ここからしか説明できない。

P.119 内的時間について

一日は、権力をかさにきたいやがらせにびっしり埋め尽くされていているのだ。ところがもう少し大きな時間単位,たとえば週となると、判で捺したような日々の連続なのに、薄気味悪いほどすみやかに過ぎ去るように感じられた。わたしが、収容所の一日は一週間より長い、というと、収容所仲間は一様にうなずいてくれたものだ。

P.122 ビスマルクの警句「人生は歯医者の椅子に坐っているようなものだ。さあこれから本番だ、と思っているうちに終わってしまう」をひきつつ,

 「強制収容所はたいていの人が、いまにみていろ、わたしの真価を発揮できるときがくる、と信じていた」
 けれども現実には、人間の真価は収容所生活でこそ発揮されたのだ。おびただしい被収容者のように無気力にその日その日をやり過ごしたか、あるいは、ごく少数の人びとのように内面的な勝利をかちえたか、ということに。

P.134

自分を待っている仕事や愛する人間にたいする責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。まさに、自分が「なぜ」存在するかを知っているので、ほとんどあらゆる「どのように」にも耐えられるのだ。

巻末に,「『夜と霧』と私 − 旧版訳者のことば」と題する霜山徳爾氏の小文も掲載されている.著者フランクルとの邂逅をつづった文章なのだが,ウイーンのフランクルを訪ねている.

 その内でもっとも印象的だったのは、或る夜、彼に招かれて、ウィーン郊外の有名な旗亭アントン・カラスで、ワインの盃を傾けながら、彼からアウシュビッツでの語れざる話を聞いた時であった。謙虚で飾らない彼の話の中で、私を感動させたのは、アウシュビッツでの他の多くの苦悩の事実ばかりでなく、彼がこの地上の地獄の内ですら失わなかった、堅い良心とやさしいい人間愛であった。それは良質のワインの味すらも、全く消し去るほどのものであった。

新訳を出すにあたっての経緯などについては,朝日新聞2011年4月11からの連載(14回)『(ニッポン人脈記)生きること』に詳しい.
1:それでもイエスと言う,2:「夜と霧」を抱きしめて,3:最もよき人は帰らない,4:新訳、小さな苦しみ描く,5:心を開いてもいいんだ,6:苦悩と死があってこそ,7:人生の意味、求めずとも,8:良心に耳かたむける力を,9:とらわれず、人間みつめ,10:人生はあなたに絶望せず,11:集団への断罪に抗して,12:ユーモアも魂の武器だ,13:愛する人間に変わった,14:フランクルの灯をここに

【関連読書日誌】
“時代の断片を感性で見つけ出してそれを拡大したり深く入り込んだりしながらメッセージを発信していかなくてはなるまい” 『滅びのチター師―「第三の男」とアントン・カラス  (文春文庫) 』 軍司貞則 文藝春秋
【読んだきっかけ】
高校生の娘が,「夜と霧」なあい,とメイルをよこしたので購入.
【一緒に手に取る本】

夜と霧――ドイツ強制収容所の体験記録

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それでも人生にイエスと言う

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極光のかげに―シベリア俘虜記 (岩波文庫)

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征きて還りし兵の記憶 (岩波現代文庫)

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