“統計は全体を俯瞰する方法であって、わたしを知る方法ではない” 『百万回の永訣―がん再発日記 (中公文庫)』 柳原和子 中央公論新社
- 作者: 柳原和子
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2009/03
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単なる闘病記ではない.医療過誤や癌患者を取材し,医師たちと正面から議論を重ねてきた著者だからこそ書けた本.癌を再発した著者が,死に向かいながら,最良,最善の治療を求めて,医師とともに格闘し,悩んだ記録である.
親しい医師から「わたししか言わないと思うから敢えて言うけど,ドクターショッピングはもう止めた方がいい」とまで言われる.だが,最良の医師たちと,最善の治療について,時間をかけることができる,そうした関係を医師たちと築いてきた著者だからこそ,そうしたきろくだからこそ,見えてくるものがある.
P.105
若き日にカリエスを患い、長く臥って亡くなった正岡子規は、『病床六尺』に記している。
悟るとは、どんなことあっってもいつでも死ねるということかと思っていたがちがってていた。どんなことがあっても生きていられること、と。
P.130
じつは、誰もが末期の癌の患者とは会いたくないはずだ。多くの人が、二人だけで会おう、とは言わない。誰かと連れだって来る。その微妙な空気の変化に、しばしばこらえきれなくなる。弱くなったわたしを直視し、かつての関わりを平然と続ける難しさを、みな感じている。
P.158
統計は全体を俯瞰する方法であって、わたしを知る方法ではない。
がん=不可解=個別の底知れなさ、深さはここにある。
ここに医療の本質があるのだと思う. evidence based medecine があり,少しでも多くの事例をもつことで,より確からしい治療法が見えてくるのは事実.でもそれは「わたしを知る方法ではない」
P.173
京都で最初に驚いたのが、小さな町屋に住むおばあさんの暮らしだった。おばあさんはその家に嫁に入って以来、自宅前の小さな路地を毎朝欠かさずていねいに、舐めるがごとく掃除する。おそらくは数十年、京都の町から外へ出たことはなく、家族や幼な友だち、親戚筋の冠婚葬祭の日以外のほとんどを、変わらぬ日課ですごしてきたにちがいない。
早朝に聞こえてくる箒の音、昼下がりに暗い家を出て玄関先の植木を眺めながら木陰で過ごすたたずまい、夕刻に豆腐の引き売りのおじいさんを呼び止める声…。
わたしはため息をつき、ひとり考えた。
世界中を廻って何かを見た、わかった気になっているわたしと、おばあさんがそうじをしながらわかっていることを比べると、かなりの確率でおばあさんのほうが深い…。
一心不乱に道を掃くおばあさんを目にするたびに、同じ感慨にふけっていた。
P.211
わが家を訪ねてきた若き気鋭の作家・黒川創は呟いた。
「金があればいい治療を受けられる、っていうのも地獄だなあ。際限なく治療法を追い求めて、世界の果てまで、治る治療を探し歩いて…。金がないっていうのが死ぬ覚悟を促す、諦める大きな力ってことかもしれないなあ」
佐原病院の本棚でグレアム・グリーンの「情事のおわり」をみつけ読みふける.
こういう,たまたまの出会いというのはけっこうあるものだ.
P.334
がんとともに捨て去ろうとした過去の重たさをグレアム・グリーン『情事のおわり』の愛と別離、その後の憎しみ、神との契り、死への道程を絡め、手術までのこころの動きを語りつくした。
グリーンのこの小説,というよりこれを映画化した,ニール・ジョーダン監督による「ことのおわり」は大好きな映画.
P.343
情愛はいつも小さな不信から破局を迎える。
おそらく信頼とは感情ではない。本能でもない。理性と知性と忍耐の創造物だ。
感情はいつも破壊的に作用する。
世間の価値観と離れた少数者である、ということについて、経験がある。
医師たちの会合に講演者として招かれる。往々にして、失敗する。流れている空気が、わたしとは異質で、耐えられぬと直感するからだ。異分子を排除したい、との眼差しを、直感するからだ。
時に、うまくいくことがある。そうしたとき、参加者は、必ず言う。
「柳原さんはヒステリカルじゃないからいい、医師を批判する患者は往々にして感情的に過ぎる」
これだ…、とわたしは俯き、絶望の笑いを浮かべる。
冷静だからいい、人のため、客観的に語れるからいい、論理的だからいい、科学的だからいい、私利私欲ではないからいい、人のため、社会のために語っている姿勢だからいい…。
評価するのはいつも、少数派の患者や被害者ではない、多数派なのだ。
多数派に認められた者たちの声だけが選ばれて、採りあげられてゆく。
P.374
素朴に考えても、狭い医療界のなかで同業者への配慮が働くだろう。医師としての誇りも微妙に影を落とす。優れた医師であればあるほど、手技の切り売りを嫌悪する。患者の全体を診ながら治療戦略を構築・想像していくことに最高の喜びを見い出す。彼らにとって医療は創造的な世界だからだ。技術はそれを保証するための、重要ではあるがひとつのツールでしかない。
P.416
からだと魂のさまよいから自由になろう。
自由は浮遊とはちがう…。人生と、長いがん闘病の過程、そして、松村さん、福島さん、柳原さん、竜さんをはじめとするわたしに関わってくれた数々の医師が教えてくれた。
自由とはきわめて意志的なもの、と。
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