“人を信ずれば友を得、人を疑へば敵を作る” 『パンとペン 社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い』 黒岩比佐子 講談社

パンとペン 社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い

パンとペン 社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い

 大作,労作である.おそらく著者の頭の中には,大正から昭和にかけての世の中や社会の動き,そこに生きる文学者や政治家の動きが,手に取るように浮かんでいたのであろう.
 自らの主義,主張を変えることなく,冬の時代を生き抜いた堺利彦.そこには死と紙一重の幸運もあったが,その人生は「売文社」に象徴される,ユーモアと人間愛があった.ともすると,大逆事件幸徳秋水など暗いイメージでしか語られることのないこの時代に,堺利彦の売文社を通じて光をあて,したたかに,そして,強く生きた人々を甦らせた功績は大きい.
 著者の黒岩比佐子氏が,本書を仕上げて夭折したのが,返す返すも惜しい.

序章 一九一〇年、絶望のなかに活路を求めて
P.11

 私が堺利彦の一生でもっとも惹かれるのは、この売文社時代である。売文社時代にこそ、人間堺利彦の魅力が遺憾なく発揮された、と思っている。本書では、これまで歴史の裏側に埋もれていて、見えにくかった事実をできる限り掘り起こし、売文社の全体像に迫ってみたい。

P.13

 吉野作造らの民本主義で知られる「大正デモクラシー」という言葉のイメージは明るい。だが、それとは裏腹に、一九一〇年代における社会主義に対する弾圧は過酷で、彼らは言論・出版・集会・結社などの自由をほとんど奪われていた。こうした事実はあまり知られていない。

P.19

 語学の天才だった大杉は、学生時代にフランス語をマスターし、その後は、監獄に入るたびに一つの外国語を習得することを自分に課して、それを「一犯一語」と称していた。大杉は吃音だったが、堺利彦によれば、「昔エンゲルスは二十個国の語でドモったといふ話があるが、大杉も後に、仏、英、エス、スペイン、イタリイ、ロシヤ等、六七個国の語でドモルと云われていた」(「日本社会主義運動史話」)という。「エス」とはエスペラント語のことだ。

第一章 文士・堺枯川
P.30

 文化人類学者の山口昌男氏が『「敗者」の精神史』で述べているように、また、近代文学者の平岡敏夫氏が『北村透谷国木田独歩』で指摘しているように、明治のジャーナリズム、文壇、出版、宗教などの分野で活躍した人々は、藩閥や軍閥ヒエラルキーから排除された「佐幕派」「負け派」の諸藩の子弟が多かった。

第二章 日露戦争と非戦論
P.80

 当時の人々が実際に書いている文章は、手紙も日記も相変わらずほとんどが「候文」で、会話で使われる言葉とは大きく異なっていた。堺はこうした手紙などの日常的な文章を、従来の古めかしい「候文」ではなく、言分一致体で書くことを推奨したのである。

P.83

(白柳)秀湖は、自分は文筆人として啓発されたのは島崎藤村堺利彦山路愛山だったが、なお遡っては福沢諭吉の思想と文章だったと述べ、「福沢の文章と思想とを著者にすすめて呉れたのは堺利彦であつた。このことはあまり知られて居ぬが、堺氏は福沢の最も熱心な敬仰者の一人であった」と回想している(『歴史と人間』)

P.87

 「家族」という言葉の背景について少し述べておくと、「家族」の語自体は古くから中国にはあったが、「家の内」という意味だった。一方、「家族の共同体」=ホームという概念は、日本の近代に生まれたものだとされている。明治期の英和辞典でhomeの訳語として「家庭」が使われ始めるのは、明治二十年代に入ってからで、それ以後、一種のブームのように広まっていく。

1904(明治37)年2月4日御前会議によってロシアとの開戦を決定.
ロシアと同盟を組むことも考えていた枢密院議長伊藤博文は,アメリカ世論を味方にする目的で,貴族院議員金子堅太郎を渡米させる.先制攻撃を行って戦況が優勢なうちにアメリカの仲介によって講話に持ち込む計画.
結局日露戦争は長引き,約百八万の将兵を動員し,三十七万人以上の死傷者を出す.
第三章 “理想郷”としての平民社
P.124

 堺の『家庭雑誌』に寄稿していた和歌山県新宮の医師の大石誠之助は、地方の有力な同志の一人で、『平民新聞』に執筆しながら、地元で演説会を開催して反戦を訴えていた。

P.137

 秀湖は永井柳太郎、松岡荒村、山田滴海(本名・金一郎)らと「早稲田社会学会」を創立して、平民社に出入りしていた。永井柳太郎はのちに早稲田大学教授から衆議院議員となり、拓務大臣や逓信大臣を務め、その息子が教育社会学者として知られる永井道雄である。

第四章 「冬の時代」前夜
P.167

 秋水は十数日前に起こった足尾銅山暴動事件に触れ、田中正造が二十年間議会で叫び続けても古河の足尾銅山に指一本指せなかったが、足尾の労働者は三日間であれだけのことをやり、権力階級を戦慄させた、と述べた。

P.170

 意外かもしれないが、『大阪平民新聞』を財政的に援助したのは、『滑稽新聞』など多数の雑誌を創刊しては権力を風刺し、筆禍で入獄をくり返した“明治の奇人”として知られる宮武外骨である。

P.175

 経済学者の隅谷三喜男氏は、片山について「冷酷だ、頑固だ、偏狭だ、という非難の声も少なくなかった。ことに金銭に対して細かいことが、人間関係をまずくした」と述べている(『近代日本の思想家4 片山潜』)。

第五章 大逆事件

 「人を信ずれば友を得、人を疑へば敵を作る」
これは、生涯を通じて堺の信条でもあったろう。

第六章 売文社創業
P.243

 アメリカを代表する人気作家マーク・トウェインの作品は、明治中期から日本に紹介されているが、堺が『サンデー』に彼の短篇二つを訳していることはほとんど知られていない。

P.269

 『われわれの社会主義運動はインテリの道楽だよ、孝徳でも僕でも氏族出で本物の社会主義ではない、本当の社会主義運動は労働者や小作人の手で進められるものだよ…だからといってインテリの社会主義が無価値で、真摯でないとはいわんがね、道楽で命を落とす人はいくらでもいる…。』
 これは堺でなければいえない言葉だろう。自分の社会主義運動は「インテリの道楽」だと自嘲しながら、決して単なる遊びではなくそこには真摯なものがあり、道楽は道楽でも「命がけの道楽」だ、と堺は強調しているのだ。命を懸けた以上は一生かけてやり抜く、という覚悟も感じられる。

第七章 『へちまの花』
P.287

 出資者名簿を見ていくと、そのなかに意外な名前があった。「星一」と書かれていたのである。
 星一は星製薬の創業者で、SF作家の星新一父親としても知られている。単身で渡米して苦学し、雑誌の発行などをてがけた星一は、帰国後は製薬業に乗り出して大成功を収めた。その際、星は新聞に大きな広告を掲げて商品を宣伝し、特約販売店を通して売るという従来の日本にない方法を採用している。また、星はアメリカにいたとき、片山潜と知り合った。

P.318

 理想を追うためには、どうしても金銭が必要になる。その金銭を得るために何か手段を講じるのは当然で、座して死を待つべきではない。誤解を招くことを怖れず、批判を受けることも承知の上で、堺はこの時期に売文社の大拡張を推進していった。

堺は,1917年の総選挙に際し,数種の新聞雑誌に「日本社会党有志」の名義で推薦広告を出し,次の3項目を訴えた.そのなかには,普通選挙,言論集会の自由,結社の自由,婦人運動の自由,労働保険,養老年金,最低賃金,小児労働禁止,無料教育,無料裁判,死刑廃止,累進相続税などが含まれる.
P.323

 現在、右のかなりのものが実現していることを思うと、九十数年前はこれを主張しただけで危険思想とみなされ、印刷したビラの配布が禁じられたという事実に、驚く人も多いのではないか。

第八章 多彩な出版活動
第九章 高畠素之との対立から解散へ
P.364

 佐野眞一氏の満州を舞台にした二冊のノンフィクション『阿片王―満州の夜と霧』と『甘粕正彦乱心の曠野』にも茂木久平の名前が登場する。

P.393

 こうして一九一九年に「売文社」の名称は消滅し、人々の記憶から売文社は消え去っていく。
 だが、戦後になって売文社を舞台にした戯曲が書かれ、劇団民藝が公演することになった。題名は『冬の時代』。作者は木下順二、演出は宇野重吉である。

P.397

 ここで松本清張は、自分に古代史への興味を起こさせたのは白柳秀湖だ、と明かしている。

P.412

 ここに出てくる「棄石埋草」という言葉を、堺利彦は好んで使い、よく揮毫した。

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