“彼女は偉大な妻であり、偉大な母であった。しかし、文学上の仕事は、『みだれ髪』刊行からこの〇五年までの五年間がピークであった” 【与謝野晶子 意志的明治女学生の行動と文学】 『 「一九〇五年」の彼ら』 関川夏央 NHK出版

本書の第八章 『与謝野晶子 意志的明治女学生の行動と文学』
与謝野晶子は,その時代を生きた類いまれなる女性であると,つくづく思う.情熱的で,活動的で,歌に,夫鉄幹に,そして子育てに生きた女性である.強く逞しい.
私の好きな歌の数々.
 何となく君に待たるる 心地して 出でし花野の夕月夜かな
 その子二十 櫛にながるる黒髪の おごりの春のうつくしきかな
 筆硯 煙草を子等は棺に入る 名乗りがたかりわれを愛できと
P.150

 堺の街のあきびとの/旧家をほこるあるじにて/親の名を継ぐ君なれば、/君死にた
 まふことなかれ、/旅順の城はほろぶとも、/ほろびずとても、何事ぞ、/君は知ら
 じな、あきびとの/家のおきてに無かりけり。
「君死にたまふことなかれ」に強く反応したのは、軍でも警察でもなかった。当時の言論は現在から想像するより、ずっと自由であった。
 「さては宣戦詔勅を非議す。大胆なるわざ也」「世を害するは実にかかる思想なり」と「太陽」(〇四年十月号)で烈しく論難したのは、鉄幹の旧友大町桂月であった。

p.157

すでにこのときふたりの男の子の母となっていた晶子は、四十歳までに合計十一人の子を生み、育てた。彼女は偉大な妻であり、偉大な母であった。しかし、文学上の仕事は、『みだれ髪』刊行からこの〇五年までの五年間がピークであった。

P.162

しかし彼女の不運は重なった。たまたま同時期に谷崎潤一郎の『潤一郎訳源氏物語」全二十六巻の刊行が始まったのである。晶子訳が劣るというのではない。『源氏物語』に対するふたりの態度は最初から違っていた。
「(晶子訳は)一種の意訳ですけれども、読みこなしていらっしゃっての意訳ですから」(円地文子)
「谷崎訳は王朝物語として『源氏物語』を再現しようと努力しているのであり、与謝野訳は、小説として再生しようとしているわけである」(中村真一郎)
 晶子訳を出した金尾文潤堂は明治以来の老舗とはいえ、とうに落ち目であり、谷崎訳の中央公論社とでは、その販売力において勝ち目はなかった。「与謝野源氏」の評価が高まるのは、むしろ晶子の死後である。

P.165

晶子の没後、国文学者折口信夫でもある歌人釈湿空は、寛(鉄幹)と晶子について、
こう語った。
「鉄幹さんの、歌及び詩における実力というものは大したもので、晶子さんは、技巧の上においては、あれまでには達せずに了(おわ)ったかと思います。しかし、人間としては、晶子さんは、謂っては済まないけれど、鉄幹さんよりずっと上の人として伸しあがりました。鉄幹さんは、文学並に学問、或いは人間としての晶子さんの成長の為めに一生を費った人だ、というふうに見てもいいんです」
 晶子、寛、ともにもって瞑すべしであろう。ふたりは外見上変則的ではあったが、幸福な夫婦であった。そして晶子は、寛を最後まで愛しとおして死んだのである。
 今日もまたすぎし昔となりたらば並びて寝ねん西のむさし野
晶子の墓の棺蓋に彫りこまれた歌である。ふたりの墓は多磨霊園に並んで建っている。

【関連読書日誌】

  • (URL)漢籍的教養の上に西欧的教養を積んだものたちが「明治一五年以前生まれ」なら、白紙の上に西欧的教養を積んだのが「明治一五年以後生まれの青年たち」であろう。武士的道徳が消滅したのち、大衆的流行文化と経済万能主義の大波を浴びつつ人となった世代、ということでもあろう” 『 「一九〇五年」の彼ら ― 「現代」の発端を生きた十二人の文学者 (NHK出版新書 378) 』 関川夏央 NHK出版-(URL)
  • (URL)私は官邸で会議を重ね、ついに「財政構造改革法」という法律を作りました。梶山・与謝野のコンピで成し遂げた仕事のなかで、これは傑作中の傑作です” 『全身がん政治家』 与謝野馨, 青木直美 文藝春秋

【読んだきっかけ】
書店にて
【一緒に手に取る本】

与謝野晶子歌集 (岩波文庫)

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道浦母都子(選)というところが魅力
新選 与謝野晶子歌集 (講談社文芸文庫)

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俵万智が,与謝野晶子の歌に応ずる形で一種ずつ作歌したもの.俵万智の歌も好きなのだが,与謝野晶子の迫力に負けているような気がしてならない.与謝野の歌は,一つ一つが心をえぐり,深く訴える力強さがある.
チョコレート語訳 みだれ髪

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