“専門でない研究領域の人たちに,そして市民に,みずからも一個の研究者ではなく,同時に一人の市民でもある者として,どんなふうに語りかけてゆけばよいのか,とことん悩むこと。そのときの語りづらさというものを,研究者はこのあたりで,とことん経験すべきではないかとおもう” 『語りづらさの経験を』 鷲田清一 科学 2012年 04月号 岩波書店

科学 2012年 04月号 [雑誌]

科学 2012年 04月号 [雑誌]

2011年7月号の鷲田清一氏による巻頭言『見えないもの,そして見えているのにだれも見ていないもの』の続編とでも言えるもの.語ること,説くこと,それによってわかり合うことでしか,先に進む道はないだろう.ともすると専門家(どんな専門であれ)は,仲間うちの世界の中にとどまり,ある意味でのぬるま湯に浸かってしまう.いい心地のいい世界だから.だからこそ,そこから外に出て「語りづらさの経験を」という氏の主張は,重要であろう.すべては語り合うことからはじまる.

相手を説得する,あるいは説き伏せる。じぶんが構築した理論を公衆の前にさらし,反論に反駁することでさらに輩固なものに鍛え上げる。あるいは反論を受け入れてじぶんの理論をより広く妥当するものへと変容させる…...。そういう研究者としての欲望が痩せ細ってきているのだろうか。

環境保護やエネルギー資源開発,感染症予防など,衆知を集めて取り組まねばならないものがほとんどである。しかもその衆知には,他の専門研究領域の知識ばかりではなく,一般市民の意見や思いというものも含まれる。そんなときに,責任が問われないようにじぶんの専門領域に閉じこもるのは,研究者として失格だ。むしろ,だれの専門でもないがだれかが引き受けなければならない問題領域や次元に,他の専門研究者をけしかけ,巻き込んでゆかねばならない。

専門でない研究領域の人たちに,そして市民に,みずからも一個の研究者ではなく,同時に一人の市民でもある者として,どんなふうに語りかけてゆけばよいのか,とことん悩むこと。そのときの語りづらさというものを,研究者はこのあたりで,とことん経験すべきではないかとおもう。そこからやりなおさねば,この国の「だれも責任をとらない構造Jがますます修復不能なものになってしまうようにおもう。

【関連読書日誌】

  • (URL)むしろ専門的知識や技能を棚上げにして、現場に身をさらすこと。そのときに初めて、付き添いさんの知恵というか、眼力の要となるところがおぼろげながらも見えてきます” 『語りきれないこと 危機と傷みの哲学  (角川oneテーマ21) 』 鷲田清一 角川学芸出版
  • (URL)科学(者)への信頼は,何が確実に言えて,何が言えないか,それを科学者自身が明確に述べるところに成り立つといえる。科学とは,まずなによりも《限界》の知であるはずである” 『見えないもの,そして見えているのにだれも見ていないもの』 鷲田清一 科学 2011年 07月号 岩波書店

【読んだきっかけ】
【一緒に手に取る本】