“明治人は過剰なまでに果断であった。(略)明治日本もまた過剰なまでに果断であった” 【津田梅子 日本語が得意でなかった武士の娘】 『「一九〇五年」の彼ら』 関川夏央 NHK出版
「一九〇五年」の彼ら―「現代」の発端を生きた十二人の文学者 (NHK出版新書 378)
- 作者: 関川夏央
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来年の大河ドラマは,同志社大学創設者の新島襄夫人の八重だが,津田梅子は,津田塾大学の初代学長.岩倉使節団に随行して.6歳から11年間渡米!.wikipediaによれば,25歳の時(1889年)(明治22年)再び渡米.ブリンマー・カレッジ (Bryn Mawr College) で生物学を専攻する。3年間の課程を切り上げて終了させ、留学2年目には蛙の発生に関する論文を執筆。これは,へえー.
さて,敢えて取り上げるのは,欧米に追いつくために,明治政府がとった果敢な政策.武士の娘というのはこう言う育てられ方をするものなのか.
七〇年五月、北海道開拓使次官に就任した黒田清隆は、近代農業経営には教育ある女性の力が必要だと考え、少弁務使として渡米中の森有礼とかたらって日米両国で運動、翌年出発予定の岩倉使節団中に少女留学生を加えることに成功した。その計画に呼応した津田仙は、当初長女を送り出すつもりだったが長女琴子が離日をいやがったため、二歳下、六歳の梅子を応募させたのである。明治人は過剰なまでに果断であった。
東アジア中でただ一国、華夷秩序を重んじる思想から自由で、欧米文化を「差別」しなかった日本は、欧米からの知識吸収に必死であった。それだけが日本が植民地化から免れる方策であると考えたからである。明治日本もまた過剰なまでに果断であった。
帰国後の一九〇〇年、三十五歳で女子英学塾を開校してからは多忙をきわめた。教育実務のみならず、資金の調達、官との折衝に心を労した。しかし彼女は日本語が流暢ではなかった。ことに書くことは生涯不自由であった。彼女はその日常においても多く英語で話し、正式のスピーチと原稿はすべて英語で用を足した。
wikipedia によれば,父親の津田仙は,「同志社大学・青山学院大学・筑波大学附属盲学校の創立に関わる。また、日本で最初に通信販売を行った人物でもある。同志社大の創始者新島襄、人間の自由と平等を説いた東京帝国大学教授の中村正直とともに、“キリスト教界の三傑”とうたわれた。」また,「足尾鉱毒事件では田中正造を助け、農民救済運動に奔走した。」とも.
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