“癩病患者の収容の歴史をふり返ってみるとき、瞭然と浮かび上がってくるのは、...諸外国への体面から癩者をまるで虫げらのように踏みにじってきた、ファシズムとしての医療のあからさまな姿である” 『火花―北条民雄の生涯』 高山文彦 七つ森書館

1999年初版の古い本である.文庫化を経て,七つ森書館という出版社2012年に出したノンフィクション・シリーズ“人間”の1冊.世評を聞いたことがあるが,本屋で手にとって購入.映画の「ベンハー」や松本清張の「砂の器」をあげるまでもなく,癩(ハンセン病)の歴史は長く,重い.科学がその暗闇を解く前の時代に,不運にもその闇に巻き込まれてしまった人たち.神谷恵美子の活動と著作岸恵子エッセーなども思いだされる.現代の「癩」に相当するものも私たちは多く抱えているはずだ.気がつかないでいるか,気がつかないふりをしているだけかもしれない.
P.41

親族は彼の存在を、墓石から完全に消したのだ。六十年まえのあの目、実父がどんな思いで息子の遺骨をこのふるさとへ持ち帰ったのかを考えるとき、墓石にさえその名をとどめることができなかった親族の痛みと、痛を得たそのときから血縁を絶たれざるをえなかった民雄の痛みが、この場所に吹き溜まっているように思われた。

P.91

田舎駅の待合室のような汚れたベンチがひとつ置かれたきりの殺風景なその建物が診察室だと聞いて、民雄はうすら寒さをおぼえた。まもなく五十嵐正(まさ)という眼もとの涼しい三十五、六歳くらいの女医がやって来て、民雄から聞き取りをしながら詳細な病歴カルテをつくり上げていった。五十嵐正は歌誌「遠つ人」の同人で歌名を北海みち子といい、なにかの事情で夫と別れ、小学生の娘ひとりを抱え、両親とともに院内の官舎で暮らしていた。美しい女医で、院内の因習を突き抜けた考えを持ち、以後、民雄のよき相談相手となった。

P.95

 癩病患者の収容の歴史をふり返ってみるとき、瞭然と浮かび上がってくるのは、明治以降の近代化の流れのなかで癩を近代国家にあってはならね病とし、諸外国への体面から癖者をまるで虫げらのように踏みにじってきた、ファシズムとしての医療のあからさまな姿である。
 そもそも収容の起こりは明治五年、ロシアのアレクセイ皇太子の来日を前日に控えて、明治政府が東京市中を徘徊する乞食たちの姿は不体裁だとして、およそ二百人の浮浪者を本郷にあった加賀屋敷跡の空き長屋に集め、給食や治療をおこなうようになってからである。二年後、これら二百人の浮浪者たちを中心として、東京養育院が開設された。その初代院長をつとめたのは、前年にわが国初の銀行として創設された第一国立銀行の初代頭取、渋沢栄一だった。
 日本資本主義の生みの親、育ての親として知られる渋沢栄一がなぜ東京養育院の院長になったのかといえば、ひとつには江戸時代末期に非常時の細民救済のために「七分金制度」と称して集められた基金が、明治になって東京府の管理下におかれ、渋沢の尽力によってつくられた第一国立銀行に預げられたという経緯があるからだ。その基金が養育院の運営資金にあてられた。

P.138 癩者からの手紙は消毒してから読むような時代である.

 この時代、民雄の願いをなんとか叶えてやりたいと思い、実行できるようを作家は、川端をおいてほかになかったたかもしれない。
(中略)
 それが川端の「孤児」としての生い立ちに由来するものであるとすれま、実家から籍を抜かれ、社会から隔離されてある民雄もまた「孤児」なのである。

P.166 北条民雄の小説を掲載した文學界

 以前、廃刊か存続かで同人会議をひらいたとき、大見得をきって存続を訴えた小林秀雄は、その責任から昭和十年の一年間を通じてずっと編集責任者を引き受けてきたが、年の瀬が近づいてくるにつれてなんとかしなければと思いつめ、妹の亭主である漫画家の田河水泡に千五百円の出資を頼み込んだ。大学卒の初任給が三十円、東京に二千円で家が買えた時代である。千五百円は大変な金額だった。

P.168 普通に生きることさえ難しい時代

「文事界」編集部員だった式場俊三は、こうふり返る。
「小林さんには、このままだと優秀な作家たちがつぎつぎに官憲に逮捕されてしまうという危機感がありました。あのころは、だれもかれも治安維持法不敬罪で引っ張られていきましたからね。思想性のない芸術指向の『文學界』にプロレタリア作家や詩人たちを引き込むことによって、検挙から守ろうという考えがあったのです。

P.267 選考委員の川端は,芥川賞に「いのちの初夜」を推さなかった.

 子息である川端香男里氏は、川端康成が民雄を推さなかった理由について、
「(川端は)北条さんだけでなく、自分の『弟子』と世間からみなされていた人を推したことは一度もありません。そういう節度を知っていたのです」
へんさん
と言う。川端香男里氏は新版の北条全集の編纂にもたずさわっており、民雄の記録を後世に伝えようという康成の遺志を引き継いだ人である。第三回の芥川賞は、鶴田知也と小田巌夫のふたりにあたえられた。

P.300

 民雄に死の兆候があらわれた六月、川端は『雪国』を創元社から出版した。民雄とめぐり逢った昭和九年から構想を練りはじめ、二年あまりにわたって各誌に分載発表してきたものに書き下ろしの新稿を加え、ようやく定本としてまとめられた。
 中国との開戦を告げる盧溝橋事件が起きるのは翌月。泥沼の戦争への突入を目前にして、雪国の美しい山河と男女のはかなく芳しい交わりを描いた『雪国』があの世の物語だとすれば、『いのちの初夜』はこの世にあってこの世のものではない煉獄の物語といえた。
 あの世の物語を川端が晴れて出版したとき、民雄は煉獄のなかで死の手に囚われていた。

あとがきより

厚生省の事務当局はただちに廃止に関する法案作成にはいり、平成八年一月、時の厚生大臣菅直人が全患協代表をはじめとする各支部長に向かって直接謝罪をおこなった。三月二十五日、廃止に関する法案提出の説明理由を国会で述べた菅厚相は、「旧来の疾病像診反映したらい予防法が現に存在し続げたことが、結果としてハンセン病患者、その家族の方々の尊厳を傷つけ、多くの苦しみを与えてきたこと、さらにかつて感染防止の観点から優生手術を受けた患者の方々が多大なる身体的・精神的苦痛を受けたことは、誠に遺憾とするところであり、行政としても陳謝の念と深い反省の意を表す次第であります」と語った。

文庫班へのあとがきより

 私には、いまもこころに深く刻まれた、ある出来事がある。渡辺さんの話が終わりに近づいたころ、恐れていたひとことを投げつげられたのだ。
「同じ痛みを知る人にしか、私たちの痛みはわからないものです」
 肋骨の裏側をほじくり返されるような、いやな痛みが走った。自分たちの痛みを知らぬ者に、北条民雄な、ど書げるわげがない、と突き放されたような気がした。

本シリーズのあとがきより

 旧訳聖書の時代よりこの方、呪われた人外のものとして差別の対象にされてきた人びとの、そのけっして表に出ることのなかった思いをひとり一身に引き受けるように、「私の眼には二千年の癒者の苦痛が映っているのだ」と日記にしるし、「俺は俺の苦痛を信ずる。如何なる論理も思想も信ずるに足らぬ。ただこの苦痛のみが人聞を再建するのだ」としるした若い北条の仁王立ちが、いまも各国をまわりながら私の胸に押し寄ぜてくる。

 私は癒文学などというものがあろうとは思われねが、しかし、よし癩文
学というものがあるものとしても、決してそのようなものを書きたいとは
思わない。今までにも書いたことのないのは勿論、また今後も決して書く
まいと思っている。我々の書くものを癩文学と呼ぼうが、療養所文学と呼
ぼうが、それは人々の勝手だ。私はただ人聞を書きたいと思っているのだ。
癩など、単に、人聞を書く上に於ける一つの「場合」に過ぎね。

 これは、北条の健康な文学精神をしめず言葉であって、それゆえに一般社会に向けて自己の文学そ発信していこうという、当時としては考えられぬ行動が生まれたのだろう。その北条をまるでマネージャーのように支え、励まし、一般社会に彼の文学をつないでいった川端康成の数年間の営為もまた、いまの時代に思い出したい出来事だ。

佐高信の解説より,著者の弁

「表現の仕方は難しいんですが、物を書く行為というのは大概人を傷つける行為だと思うんです。僕はそうした一連の場所から常に見ていくこと、せめてこのことを自分の中に置いておかなければならない。どのみち人を傷つけてしまうからこそ唯一の矜恃として持っていなければならないんじゃないか。

【関連読書日記】

  • (URL)今もなお部厚い悪評の層に覆われた笹川良一像の真の姿を掘り起こしてみたかった” 『悪名の棺―笹川良一伝』 工藤美代子 幻冬舎

【読んだきっかけ】
【一緒に手に取る本】

いのちの初夜 (人間愛叢書)

いのちの初夜 (人間愛叢書)

らい予防法廃止に至る歴史は次の2冊とのこと
全患協運動史―ハンセン氏病患者のたたかいの記録

全患協運動史―ハンセン氏病患者のたたかいの記録

笹川と川端は同郷,同級生
悪名の棺―笹川良一伝

悪名の棺―笹川良一伝