“道具は消費财ではないのだ。だから飽きるということと無縁だ。毎日使う庖丁を,自分で手入れすることはかけがえのない実生活に差し向かうということでもある” 『有次と庖丁』 江弘毅 新潮社

有次と庖丁

有次と庖丁

 大阪,京都の伝統によって守られている,庖丁の歴史.新潮社「波」に連載されていたものが,多くの魅力的な写真とともに本になった.単にしらべてまとめただけの本ではない.長く,大阪,京都の地に生活していた著者だからこそかけた本であろう.庖丁が欲しくなる,使いたくなる本でもある,
第1章 京都・錦市場の「有次」
関東から関西へ来て最初に戸惑うのが,きつねそば,たぬきうどんの無いことである.メニューに,きつねとかたぬきと書いてあって,うどんなのか,そばなのか分からないのである.ところがことははるかに複雑であった.
P.19 大阪と違う京都のややこしさ

たとえば「きつねうどん」と「たぬきそば」の話。甘辛く味付けした揚げをのせるきつねうどんは、全国どこのうどん屋でもグランドメニューとしてある。このきつねうどんに関しては、明治二十六年(1893)創業の大阪・南船場〔松葉家本舗〕(現〔うさみ亭マツバヤ〕)発祥が通説だ。きつねうどんは大阪・南船場から全国に広がった。そして本場・大阪では、うどん屋で「たぬき」といえば「きつねうどん」の「そば」バージョンである。
 けれども京都では事情がまったく違ってくる。大阪の「たぬき(そば)」は京都では「きつねそば」なのである。京都で「たぬき」というのは刻んだ揚げを具にして「あんかけ仕立て」にしたものだ。したがって「たぬきうどん」も「たぬきそば」もある。うどん王国の大阪人からすると、京都の「たぬきうどん」をしいてメニユー的に言うと「きざみのあんかけうどん」のはずであり、「そんなアホな」であるが、京都の友人から言わせると「それは、大阪が間違うてる」である

P.33 

 赤穂浪士大石内蔵助が世間を欺くために遊んだとされる「一力亭(茶屋)」は,本来「万亭(屋)」であり,「万」の字の「一」と「力」を離して「一力」にしたという.山村さんに[一力亭]からの「暖簾分けの暖簾」を見せてもらったことがあるが,真ん中に大きく染められた意匠文字は紛れもなく「万」である。
 日中戦争の最中、策謀渦巻く上海で阿片密売を仕切る「里見機関」を設立し、敗戦後民間初のA級戦犯容疑者となったフィクサー里見甫が、京都に潜伏していたとき、この〔万イト〕に入り浸っていたという話は、『阿片王満州の夜と霧』(佐野眞一著/新潮社)に詳しく書かれている。当時、少年だった山村さんも「いつも人きな志那鞄を持った周さんという中国人の豪商とジープで来てました」と回想する.

第2章 親戚の家の3本
第3章 「有次」のルーツをさぐる
P.67

 古代より良質な砂鉄が豊富で、それを原料にした「たたら」製鉄による玉鋼の長い伝統を持つ出雲地方は、庖丁はじめ高級刃物用鋼の代名詞となつている「安来鋼」の生産地である。近代的な日立金属安来工場がつくる刃物鋼は、不純物を極力低減した純粋な炭素鋼の「白紙」,タングステンやクロムを加えて熱処理特性や耐摩耗性を改善した「青紙」、それに錆びにくいステンレス系の「銀」といつた製品が知られている(「ヤスキハガネ」も「白紙」「青紙」「銀」も日立金属の登録商標である)。「有次」の庖丁も、その多くがその「白紙」や「青紙」を使つたものだ

第4章 庖丁屋としての「有次」へ
P.75

 京都の名だたる料理人、錦市場のフグ専門店や鰻屋などのプロの問で「よく切れる」「一生使える」と絶賛される〔有次]の庖丁の名声は、長年かけて獲得された。それは堺の鍛冶師である沖芝昂(のぼる)さん(84歳)が鍛造した、数々の庖丁によるものであるといっても過言ではない

P.79

 戦国時代の鉄砲、そして徳川時代初期「堺極(さかいきわめ)」印で幕府専売品として一世を風靡した煙草庖丁が、現在の打刃物庖丁の技術の基礎となっている。
 全国で「庖丁といえば堺」と定評になったのは、享保年問に煙草庖丁で他の産地を圧したこの「堺極」ブランドがあつてのことである。非常に硬くて切れ味鋭く石でも割れるとのことから「石割庖丁」と称されたほどだ。

P.80

 ちなみに、各の前で板前がパフォ―マンスよろしく新鮮な刺身を引き、美しい野菜を切る……といった庖丁捌きを見せる割烹スタイルの料理店は、大正十三年(1924)創業の大阪•新町廊の〔浜作」が嚆矢である(『カウンターから日本が見える――板前文化論の冒険』伊藤洋一泎・新潮社社)。新町の〔浜作〕はすでにないが、その系譜は現在も銀座本店〔浜作〕,京ぎをん〔浜昨〕と引き継がれている。

P.81

 ともあれ、大正になって京都から堺へ移った沖芝吉貞氏は、鋼と軟鉄を合わせる堺の伝統打刃物の庖丁の世界に、刀剣づくりの高い作刀技術を持ってきて、それを息子の昴さんが受け継いだのであった。
「いま“本焼き”は沖芝さんがやってくれてるんだけども、ほかの職人さんでは、ちょっとできない」(寺久保社長)
 まさに堺に日本刀の技術を持ってきた刀匠沖芝家伝来の名工の技である。そしてすでに美術品に変わっていたとはいえ、その優れた作刀技術を和庖丁に生かせると見抜いた〔有次〕は、地元京都の京料理のプロの世界で、圧倒的にな評価を得るようになる。

第5章 〔有次〕と堺
P.89

堺の伝統工芸である打刃物による庖丁づくりは分業制になつている。すなわち「鍛冶屋」が庖丁を鍛造し、「刃付け屋」が刃を付ける。刃を付けるというのは鍛冶屋で鍛造した半製品を研いで磨いて庖丁という製品にすることだ。柄は「柄屋(えいや)」、これもまた別の柄づくり職人が製作する。そして通常は、3つの業者や職人をアレンジした「産地問屋」が刃付けされた庖丁に銘を切り、柄を取り付けて完成品にして出荷する。これらのベースはどれもほぼ手代事で、だからこそ大量生産は不可能だ。

P.91

 魚の頭や骨を叩き切り捌くための出刃包丁,身を引き切り刺身にする柳刃包丁は、いずれも「菜刀(ながたな)」つまり菜切り庖丁から生まれているが、宝暦四年(1754)の『日本山海名物図絵』巻之さんには「堺庖丁」のページがあり、「出刃・薄刃・指身庖丁・まな箸・たばこ庖丁。いづれも皆名物なり」とl記されていて、江戸時代中期にすでにいろんな用途の庖丁が堺では製造されていたことがわかる。
 なかでも出刃庖丁は、それより半世紀前、上方町人文化が花開いた元禄時代には完成していたと言われる。これは大阪湾に臨む堺の名産であった鯛を捌くため専用に出来た庖丁と言っていい。

第6章 錦市場祇園の味。庖丁づかいの現場
第7章 大阪の〔有次〕
 福喜鮨
P.137

〔有次〕の庖丁については、「切れ味がいいし、研ぎやすいのが良い」と指摘する。というのも〔福喜鮨〕では、魚を捌く際の出刃庖丁は仕上げを「二枚刃」(二段刃とも言う)にする伝統があるからだ。二枚刃は庖丁を研ぎ終えて仕上げる際、切刃の先端のほんの少し(1mm前後)を鈍角に研ぐことで付ける。これで硬くて太い鯛の骨やアラ煮きにする頭などを叩き切る庖丁の刃が、欠けたりこぼれたりしにくくなる。

第8章 〔有次〕の蕎麦切庖丁
 北新地・喜庵,先斗町・有喜屋
第9章 板前割烹の誕生
第10章 海外へ
 東山・イル・ギオットーネ
第11章 ものをつくる、ということ。
 赤坂・燻
あとがきー庖丁という道具

道具は消費财ではないのだ。だから飽きるということと無縁だ。毎日使う庖丁を,自分で手入れすることはかけがえのない実生活に差し向かうということでもある。そういうふうに思いながら、世界一切れる〔有次〕庖丁に魅せられて本を1冊書く羽目になつた。

【関連読書日誌】

  • (URL)“それも全部、自分たちが飲み込みながら次にバトンを渡さなければいけない。そのときに“ノー”と言う姿勢で何かを渡せるかというと、何も渡せないんです” 『有次と包丁』 第10回 江弘毅 波 2013年 09月号 新潮社

【読んだきっかけ】
【一緒に手に取る本】