“宮中というと、どんな我が儘でも通らないことはないかのように、一般からは想像されがちだが、内情は思いのほか窮迫していた。皇室中心とか、国体明徴とか、いうことだけは大げさだったが、それは物資の裏づけのない、口先だけのカラ文句で、毎日の生活は窮迫の一語に尽きた” 『天皇の料理番』  (上・下)  (集英社文庫)  杉森久英 集英社

TBSテレビ60周年特別企画と銘打って、先日の日曜日に最終回となったドラマの原作。佐藤健(秋山篤蔵役)の名演もあって、ドラマの出来はなかなか。ややわざとらしく作り込んだ感動シーンが散りばめられているのが気になったが、それもご愛敬か。原作とドラマ、ディーテイルで少しづつ違っていた。原作は、淡々と書かれている感じの小説。作者杉森久英が1912年生まれということもあり、戦後生まれが知らない戦前の風景が実によく描かれていて、タイムスリップしたような気分になる。
上 P.216

 吉原は、大門から入ってまっすぐの大通りを仲の町(なかのちょう)といって、百三十間(二百五十メートル)ばかりあり、この両側に漢字の「非」の字の形に横丁が三本ずつあって、それぞれに江戸町(えどちょう)一丁目、ニ丁目、揚屋町(あげやまち)、角町(すみちょう)、京町などに分れている。
 仲の町はいわば、吉原の中央通りで、背骨に当る部分だが、仲の町という町があるわけでなく、道路の名称にすぎない。
 従つて、ここに軒をならべる揚げ屋は、それぞれ江戸町、揚屋町、京町などに属しているのだが、大店ばかりで、芝居の舞台にもしょっちゅう出てくるので、仲の町といえば、吉原を代表する名称になつている。吉原のことを「なか」ということがあるのも、仲の町を略したものである。
 仲の町は、「非」の字二本の横棒に当たるが、この「非」は横幅が広くて、縦棒の百三十間に対して、百八十間あり、ここに時代によって筯減があるが、二百の妓楼と三千の娼妓が密集して、不夜城といわれ、喜見城(きけんじょう)といわれ、晦日(みそか)も月の出る里と誇った。

上 P.237

 また、有名な団子坂の菊人形は入場料十銭ないし五銭。名人といわれた女義太夫の豊竹呂昇(とよかたけろしょう)一座が六年ぶりで東京へのぼり、新富座で興行したときの入場料は一等五十銭で、高すぎるという評判だったが、篤蔵の給料の十日分に当った。

上 P.245

 江戸ホテル、精養軒と前後して、日本の各地にホテル、レストランが雨後のタケノコのように生まれた。川副保氏編著、全日本司厨士協会西日本地区本部発行「百味往来」という書物によると、次のようである。
   慶応三年 江戸神田橋外に三河屋料理店開業
   慶応四年 (明治元年)江戸ホテル
   明治ニ年 横浜クラブ.ホテル(後年のセンター・ホテル)
        大野谷蔵、横浜に外国人相手のレストラン開業、まもなく閉店
   明治三年 精養軒
   明治四年 大野谷蔵、横浜に開陽亭開業
        神戸に兵庫ホテル
        栃木県鉢仁町に鈴木ホテル
   明治五年 横浜に崎陽亭、開化亭、西洋亭開業
        東京に資生堂
   明治六年 横浜にグランド・ホテル
        日光にカッテージ・イン(後の金谷ホテル)
        築地に日新亭
        横浜にプレザントン・ホテル
        日比谷見附に東京ホテル
   明治七年 新潟にイタリア軒
        神戸に水新
        横浜にオリエンタル・ホテル
        銀座の凮月堂、はじめてビスケットを製造
   明治八年 宮内省十五等出仕松岡立男を、西洋料理修業のため、横浜在住のフランス人ボナン方へ派遣するという命令が出た(洋風を拒否していた宮中でも、だんだん時勢の流れに抵抗できなくなったと見える−筆者)
   明治九年 九段上に富士見軒
   明治十年 神戸に外国亭
        小樽に越中
        この年はじめて玉ネギを輸入栽培

上 P.278

 「シャトー」は「城」、または「屋敷」の意味である。昔話の絵本なんかでよく見るように、フランスの古城には、隅々に高い塔があつて、その形に似たように切るから、シャトーというのだが、この切り方がむずかしい。
 まず、正しく七角形に切らねばならない。どこを切つても、切り口が七角になつていて、各辺の長さが同じでなければならない。長いのや短いのがあつたり、角がとがりすぎたり、広がりすぎたりしていたら、落第である。
 さらに、表面が平らで、艷がなくてはならない。それには切り落すとき、庖丁を中途で止めてはならない。止めるとかならず、そこで段になつて、表面がゆがむ。そんなのは落第である。

上 P335

 離れは母屋と短い渡り廊下でつながれていた。そのころ地方の農村の大きな家では、どこでもこのよう
な離れを持っていて、遠方からの来客を泊らせたり、病人を看護したりするために使つていた。農村では訪ねて来る人がすくなく、旅館を経営しても成り立たないので、手を出す者がない。しかしそれでは遠方から来た者が困るので、客の多い家では、自分の邸内に宿泊させる設備を持つ必要があった。

下 P.223

 味の素は、農学博士の池田菊苗(いけだきくなえ)という人が、サトウキビの蛋白質から抽出したグル夕
ミン酸ソーダを主体にしたもので、たった耳かき一杯くらいの分量で大量の鰹節や昆布と同じ効果を発揮するといって売り出したのだが、市場を奪われることに脅威を感ずる鰹節屋の妨害にあって、思うほど販路がのびず、苦境に立っていた。もっとも、苦境といっても、飛躍的な発展がないというだけで、京橋に三階建ての本社を持ち、多くの従業員をやとって、盛大に営業を続けていたことは事実である。

下 P.261

 もっとも、軍といっても、末端の召集兵などはそんなに充分食っていなかった。上層部に上前をハネられるからである。
 上層部へゆくと、文字通りの酒池肉林だった。肉、魚、野菜から、味噌、醬油、砂糖、調味料、さらに酒、ビール、ウィスキーが山と積まれていた。
 宮中というと、どんな我が儘でも通らないことはないかのように、一般からは想像されがちだが、内情は思いのほか窮迫していた。皇室中心とか、国体明徴とか、いうことだけは大げさだったが、それは物資の裏づけのない、口先だけのカラ文句で、毎日の生活は窮迫の一語に尽きた。

【関連読書日誌】

  • (URL)“そこに自分で作った料理の写真が載っているのだが、黒木瞳が子どもに作ったお弁当の写真とは違うのである” 『官能の人・伊吹文明 京都の四季の食卓』 お代は見てのお帰りに 連載223回 小倉千加子 週刊朝日 2012年9月7日号

【読んだきっかけ】娘がくれた。
【一緒に手に取る本】

天皇の料理番 [DVD]

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天皇の料理番 公式レシピブック (ぴあムック)

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味の散歩 (中公文庫)

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