“どのような過ちを犯した時も、どんな絶望の淵に陥った時も、少しだけ休んだら、また歩き出す力を持ちたい。人は、弱い。だからこそ、それを許し、時には支え、見守ってくれる寛容な社会であることを心から願う” 『教誨師』 堀川惠子 講談社

教誨師

教誨師

2013年の『永山則夫 封印された鑑定記録』(岩波書店)で第4回いける本大賞、2011年の『裁かれた命 死刑囚から届いた手紙』(講談社)で第10回新潮ドキュメント賞、2009年の『死刑の基準―「永山裁判」が遺したもの』(日本評論社)で第32回講談社ノンフィクション賞を受賞してきた、フリーのドキュメンタリーディレクターによる最新著作。受賞作の内容はNHK等でTV放映されてきたものであり、それも賞を受賞している。著者としては名を連ねていないが、2007年の『日本の戦争 BC級戦犯 60年目の遺書』も、実質的には、堀川惠子の手になる本と言ってもいいだろう。
 その堀川の次の作品に期待していたが、BC級戦犯教誨師を取材し、死刑制度を扱ってきた著者であるから、教誨師の存在に行き当たるのは、ある意味必然であったかも知れない。そこには、著者ならではの出逢いと、取材があった。とはいえ、これは重たい、あまりにも重たい取材であったに違いない。
 帯より

死刑囚と
対話を重ねた
ある僧侶の一生

戦後、半世紀にわたり死刑囚と向き合い、
「悟り」を説いてきた、ある僧侶。
死刑執行にに立ちあう過酷な任務に身を削りながら、
誰にも語れなかった懊悩。
人は人を救えるのか−−。

その僧侶が、「真面目な人間には教誨師は出来ません」「突き詰めて考えておったりしたら、自分自身がおかしゅうなります」と言い、くれぐれも「わしが死んでから世に出して下さいの」といって、重い口を開いたものがたりである。
P.13

渡邊との会話の糸口を探ろうと、世に出ている記録を調べると思わぬ事実に直面した。教誨師自身が自分の体験について書き留めた書物が、ある時期からぴたりと無くなっているのだ。最後に出版されたのは、『教誨百年』(教誨百年編慕委員会編・浄土真宗本願寺派本願寺大谷派本願寺)という重厚な上下二巻の本。宗教教誨にかかわってきた僧侶たちが明治以降の教誨の歴史をまとのたもので、発行は昭和四八年(一九七三)とある。ただし非売品で一般には出回っていない。
 これ以降、具体的な教誨にかんする書物は消えてしまっていた。背景には、拘置所の管理体制が強化され、獄内での出来事は一切、口外無用となつたことがあるようだった。法務省による通達で、教誨師は拘置所内で知り得た情報を口外してはならないと定められている。それは、家族や教誨師どうしの間であってもだ。

P.33

一方で、渡邊を「死刑囚の教海師」という世界へ誘うことになる篠田龍雄とはどのような人物だったのか。その人生を辿っておきたい。そこに見えてくる「型破り」とも言える足跡は、、当時の浄土真宗の世界でも知る人ぞ知る、後の語り草になるほどのものだった。
篠田は明治二九年(一八九六)、福岡・直方の浄土真宗・西徳寺の長男に生まれている。

P.82

死刑囚への教誨に限らず、現在、全国の拘置所、刑務所、少年院には約一八〇〇人の教誨師が活動している。決して楽ではない仕事だが、教誨師の職に就きたいと名乗り出る宗教家は多いらしい。新興宗教も、ある程度の組織が出来ると必ず教誨活動への参加を申し出る。その理由について渡邊は、「教誨師」という言葉は、宗教家として身にまとう肩書としてまことに美しい響きを持つているからだと嘆いていた。

P.125

 本来なら裁判で事件を犯すに至った経緯を詳しく調べ、曲がりなりにも彼らの言い分を聞き、止むを得ない気持ちも酌んでやった上で判決を下せば、たとえそれが死用判決でも彼らなりに納得して刑に服すことも出来るかもしれないのに、と渡邊はいつも思ったものだ。なぜなら、彼らは独房で幾度となく判決文を読み直すからだ。いわば判決文は、彼らの人生最後の通知簿だ。しかし、そこで情状酌量の余地など認めれば、ひとりの人間をこの世から抹殺する死刑判決など下せるはずもない。だから多くの死用判決は、そこら中に落ちている日常のちょっとした出来事まで殺人の背景を形づくる材料としてかき集め、一方的に断罪することに腐心しているように渡邊には思えた。殺人者の話に耳を傾けようとする者などいない。

P.194

その昔、検察官は自分が死刑を求刑した事件に限って立ち会いをしたというが、組織の運営上、人繰りがつかなくなり、今ではその検察庁へ着任した順の新しい方から機械的に選ばれるようになっていった。

P.202

 その背景には、法務省が一切情報を提供しないので考えようにも材料がないという事情があるのではないかと私が指摘すると、渡邊はこう漏らした。
「役所がね、情報を出したがらないのは、わしは理解できるんです。そりやあ、外に出せるようなもんじやないですよ、あれは。だから一般の人は死刑っていうものは、まるで自動的に機械が行うくらいにしか思ってないでしよう。何かあるとすぐに死刑、死刑と言うけどね、それを実際にやらされている者のことを、ちっとは考えてほしいよ」

P.205

 現行の絞首刑、つまり上から下へと人体を落として吊るす「ロング・ドロップ方式」は、明治時代、文明国であったイギリスの方式に倣って取り入れられた方法だ。鎖国を解いて開国した日本が列強諸国と対等に向き合うために、具体的には不平等条約を改正させるために、様々な分野で文明国のやり方を模倣していった。その一連の流れで「死刑」も、それまでの磔や火あぶり、釜茹で、晒し首といった野蛮な執行方法を改めることになった。

P.207

オーストリア法医学会の会長も務めたヴァルテル・ラブル博士は、絞首された人間がどのように死に到るかという少し変わった研究をしている研究者である。彼は、絞首された人間の意識は多くの場合、数分以上続いていることを示すデータを、五つの死因(動静脈圧迫による窒息、椎骨骨折、迷走神経損傷による急性心停止など)に分類して詳細に発表している。

P.208

 いずれにしても現在、死刑を存置する国々においても、その残虐性を理由に絞首刑は次々と廃止されている。もちろん、当時は文明国として最新の絞首刑を行つていたィギリスも、一九六九年(厳密には一九九八年)に死刑制度そのものを廃止した。
 “残虐性”を巡る定義は、時代の変遷、言い替えれば人類の文明の進歩と共に移り変わっている。「絞首刑」をいまだ維持し、毎年、執行し続けているのは、先進国では日本だけとなつた。そして、その現場に立ち会う人々の苦しみも今なお続いている。

P.222

 世間では、加害者が更生したかどうかを判断する時、「被害者から見て」心から反省したと認めた時、という条件をつけたがる。しかし「それは違うよ」と渡邊はよく言った。
(略)
 世間から完全に切り離され、どんなに反省しようとも死刑という運命しか与えられない彼らに、前述のような厳しい条件を克服することは不可能だと渡邊は言う。そして渡邊自身の教誨師としての心残りもまた、被害者と加害者をつなぐことが出来なかったことだと打ち明けた。

P.236
 いつ頃からか、渡邊は面接のためにと熱心に読み込んでいた死刑囚の身分帳にも、ほとんど目を通さなくなっていた。時間がなくなったからではない。庶務課のたった一枚の薄い扉を開けさせることを、体全身が拒んだ。その人間を深く知れば知るほど、最期の瞬間は耐えられないものになっていくからだ。

P.266
 しかしアルコール依存症になって、人生に足踏みをしてから気がついた。自分の教誨は一方通行だった。教誨の「誨」に、「戒」という字は使わない。それは、彼らを「戒める」仕事ではないからだ。「誨」という字には、ねんごろに教えるという意味が込められている。それなのに自分はいつも大上段に構え、何かを伝えなくてはと焦ってばかりいた。

P.277 終章

 私たちは、死に向かって生きるのではない。迷いを重ねながらも、最後の瞬間まで間違いなく自分という命を生き抜くために、生かされている。そうであるならば、どんな不条理に満ちたこの世であっても、限られた時間、力を尽くして生きたいと思う。どのような過ちを犯した時も、どんな絶望の淵に陥った時も、少しだけ休んだら、また歩き出す力を持ちたい。人は、弱い。だからこそ、それを許し、時には支え、見守ってくれる寛容な社会であることを心から願う。

【関連読書日誌】

  • (URL)“土居の第一世代の弟子となった石川は、土居が亡くなる二〇〇九年まで四五年間、「土居ゼミ」に通い、最期まで師事した” 『永山則夫 封印された鑑定記録』 堀川惠子 岩波書店
  • (URL)“私たちはまず、判断の材料となる「事実」を知ることから始めなくてはならない” 『絞首刑は残虐か(下)』 堀川惠子 世界 2012年 02月号 岩波書店
  • (URL)“私たちは当たり前のように享受しているこの「戦後」を、二度と「戦前」に引き戻してはならない” 『日本の戦争 BC級戦犯 60年目の遺書』 田原総一朗監修 田中日淳編 堀川惠子聞き手 アスコム

【読んだきっかけ】東京丸の内丸善で購入。その日の晩に読み切り。
【一緒に手に取る本】

永山則夫 封印された鑑定記録

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裁かれた命 死刑囚から届いた手紙

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死刑の基準―「永山裁判」が遺したもの

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