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“歴史は生き残つた者たちの言葉で語られる。しかし戦争の最大の犠牲者は、言葉を持たぬ死者たちだ。あらゆる戦場において、家族への最期の言葉も、一言の文句も哀しみも、何も言い残すことすら許されず殺されていつた人たちの存在こそ、今、私たちが立ち戻るべき原点である” 『原爆供養塔 忘れられた遺骨の70年』 堀川惠子 文藝春秋

原爆供養塔 忘れられた遺骨の70年

原爆供養塔 忘れられた遺骨の70年

2016年6月16日追記
今月号(2016年6月号)の文藝春秋を買って初めて気がつきました。
http://www.bunshun.co.jp/award/ohya/
第47回大宅壮一ノンフィクション賞の選考委員会が4月6日(水)午後3時より「日本外国特派員協会」にて開催され、下記候補作品の中から書籍部門は堀川惠子さんの『原爆供養塔 忘れられた遺骨の70年』、雑誌部門は児玉博さんの「堤清二 『最後の肉声』」が授賞作に決まりました。
公益財団法人 日本文学振興会
読売オンライン [顔]大宅壮一ノンフィクション賞に決定 堀川さん より
http://www.yomiuri.co.jp/komachi/news/20160602-OYT8T50007.html
地元テレビ局を経て2004年にフリーになり、テレビドキュメンタリー、ノンフィクションで多くの受賞歴を持つ。今作を含む活動で、今年度の日本記者クラブ賞特別賞も受けた。取材の原動力は「怒り」。命が奪われ、それが単なる数字として扱われる。憤りが、死刑や戦争を巡る硬質な作品を生んできた。
 「本を出しても、番組を作っても、世の中が変わるわけではない。でも、どこかで爪を立てておきたい」。事実に近づくために、現場に足を運び続ける。(文化部 川村律文)

そろそろ、堀川惠子さんの新しい著作がでるころかなと思っていたところ、日曜日の朝日新聞書評欄で本書が取りあげられていた次第。安保関連改正法案が議論されていた5月の刊行。
広島と縁のない人にはほとんど知られていない、原爆供養塔にまつわる物語。供養塔を守り続け、語り部としての活動続けていた、佐伯敏子さんのこと。そして、佐伯さんが養護施設に入り、動けなくなった後、「自分がこれからどうするか、自分の頭で考えんといけんよね」という言葉を聞き、残された遺骨の遺族を佐伯さんにかわって探し歩く。そして、ここで終わらないところが堀川ノンフィクションの凄いところである。日本名と韓国名との二つの名前をもつ韓国からきた人たちの存在。遺骨が誰のものであるか、記録を残したのは誰かという問い。そしてその任にあたったのはが、生き残った少年特攻兵であったという事実。そして二次被爆の被害。陸軍幼年学校の生徒ではなかったということ。
 様々な何人もの人生の物語が綴られる。佐伯一家の歴史でもある。
見返しから

広島の平和記念公園にある原爆供養塔には、
七万人もの被爆者の遺骨がひっそりとまつられている。
戦前、この一帯には市内有数の繁華街が広がっていた。
ここで長年にわたって遺骨を守り、遺族探しを続けてきた
ヒロシマの大母さん」と呼ばれる女性がいた。
彼女が病に倒れた後、筆者はある決意をする―。

帯から、

尋ね歩くうち、万という死者たちの名前を
後世に書き残した少年特攻兵たちの存在を知った。
原爆供養塔にまつられた死者が生き返ることもあった。
そこに遺骨があることを知りながら、
敢えて引き取らなかった遺族の戦後にもふれた。
これまで当たり前のように信じていた事々が、
真っ向から覆されていった。 (本文より)

序章

当時の痕跡をかろぅじて残していた被爆逮物は次々に解体され、今や見る影もない。ビルの谷間に埋もれた原爆ドームは平和都市のシンボルとしての大役を果たしてはいるが、甚大な犠牲のほんの一点に過ぎない。原爆資料館では、訪問者に当時の凄惨な雰囲気を伝えてきた被爆者のケロィド人形が、二〇一六年には撤去されることが決まつた。

第一章 慰霊の場
P.30

多くの人にとつて、もの言わぬ遺骨の存在ょり、明日生きることのほぅがより困難で優先されるべき事象であつた。遺骨の数をめぐる曖昧な発表は、これから後もずつと続くことになる。死者ひとりひとりの存在は、この頃からすでに、おおまかな数字の中に回収されつつあつた。

P.40

佐々木銑の名前を記憶する広島市民は皆無だろぅ。行政があげた成果は往々にして、市長ら政治家の功績として伝えられる。しかし秀でた政治家には必ず優秀なブレーンがいる。一度は霞ヶ関に拒否された供養塔再建計画は、中央からやってきたキャリアの機転と行動力によって実現されることになった。

P.44

しかし戦後わずか数年で、森澤助役が見た東京の中心部と、まだ焼野原が残る地方の広島とでは、まるで別の国に来たかと思うほど、流れる空気がまったく違った。原子爆弾に焼尽くされた広島の生き地獄は、東京では早くも昔話になろうとしていた。

第二章 佐伯敏子の足跡
第三章 運命の日
第四章 原爆供養塔とともに

 この昭和五〇年といぅ年は、一五年にわたり泥沼の状態が続いたベトナム戦争でサィゴンが陥落し、米ソの冷戦がすつかり緩んだ時期だ。国内では初めて、戦後生まれが総人口の半数を超えた。同じ年、広島ではある々事件,が起きた。
(中略)
「広島への原爆投下を、どのように受け止められましたか」
 これに対して昭和天皇は、短く答えた(「昭和天皇実録」より)。

 原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾に思っておりますが、こ、っいう戦争中のことですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思っております。

 原爆投下を「やむを得ない」とした天皇の発言は、広島では衝撃をもって受け止められた。あの時の悲惨な無差別殺戮を、そして戦後も緩やかに続く放射線による拷問のような死を、やむを得なかったことにされてたまるものか。天皇がもう少し早く終戦を決めてさえいれば、原爆は落とされなかったのではないか。そんな怒りの声が方々から上がり、立場を異にするあらゆる被爆者団体が一丸となって抗議声明を用意した。

P.164

 敏子は、どこの被爆者団体にも、政治的な組織にも関与せず、距離を保った。その一匹狼ぶりに、「佐伯さんはつきあいが悪い」などとよく言われたが、地元で起こりがちな被爆者同士の争いや、ヒロシマを舞台に繰り広げられた思想的対立の場にも無縁で過ごした。

第五章 残された遺骨
P.192

数年して、ようやく地元の学校からの依頼もあり、保健婦の仕事を再開する気力がよみがえった。ところが故郷に帰って、思わぬ現実に直面する。町や村から広島に派遺された人たちがみな、あの日に見たことを一言も語ろうとしないのだ。思い出すのが辛いからではない。誰に禁じられたわけでもないのに“絶対に口にしてはならぬ”という互いを監視しあうような無言の空気が町中に満ちていた。
 (中略)
 貞安先生が落胆した沈黙の背景には、いくつかの事情が見えてくる。戦後、国内の新聞も雑誌もすベてGHQによる事前検閲を受け、広島の被害、中でも放射線がもたらした人体への影響については徹底的に発表が禁じられた。GHQは日本に対して右手で民主主義の旗を突き付けながら、左手では自国に不利な情報を封じ込めていた。ニ年後、事前検閲制度は廃止され、事後検閲へと緩められていく。だがそのことは却って、国内の報道機関による“自主規制”を強め、被爆の影響に閲する報道をタブー視する風潮は長く尾を引くことになる。

第六章 納骨名簿の謎
P.220

遺体の処理に当たった兵隊の多くは、確かに和田さんのような少年兵であったことは間違いなかった。しかし、人々の話に出てくるような「星の生徒」たちではない。そんな話が今も伝わることに、和田さんは残念でたまらないとこぼす。あの日、この世のものとは思えぬ生き地獄の真ん中で、ともに汗と涙を流したのは、北海道や青森、名古屋、広島、そして九州まで、全国の農村漁村から根こそぎ動員で集められた少年たち。簡素な特攻艇に乗り込み、間もなく海の藻屑と消えようとしていた、死への待合室に待機していた少年特攻兵たちだったからだ。

P.224

 こうやって幸ノ浦の秘密基地から、少年特攻兵たちが続々と大発に乗り込み、爆心の町へと送り込まれていつた。後に多くが二次被爆で命を落としたり、後遺症に苦しめられたりしたことを考えると、これもある意味での特攻だつたといえるかもしれない。

P.245

ボランティアの案内人が、「原爆で戸籍が焼けて分からない」と説明しているのをよく耳にする。しかし実際は、原爆が投下される前、広島市の戸籍簿はすべて疎開させていたため無事だった。時間をかけて継続的な追跡調査を行つていれば、四万人以上もの誤差(本来、四万といぅ数字は誤差の範疇ではないが)が生まれるよぅな試算にはならなかつたかもしれない。

第七章 二つの名前
P.262

被爆して亡くなったのは、日本人だけではなかった。私は、重要な事実をすっかり見過ごしていたことに気が付いた。

P.266

 丁さんは、その時に意外な事実を知った。それまで、軍事都市でもあった広島に暮らす一世たちの多くは、強制的に連行されてきたか徴兵されてきた人たちだろうと思っていた。しかし実際は、よく分からないまま日本に連れてこられたという人のほうが圧倒的に多かった。

第八章 生きていた“死者”
第九章 魂は永遠に
P.331

男性が語ったのは、『黒い雨』にも描かれた「甲神(こうじん)部隊」のことだった。
甲神部隊とは、広島県の甲奴(こうぬ)郡と神石郡の青壮年にょり作られた組織の名称で、軍隊ではない。昭和二〇年三月、国土の防空や空襲被害の復旧に全国民を動員する計画が閣議決定され、各地に結成された「国民義勇隊」のひとつだ。

P.344

佐伯さんは頷きながら、話を聞いていた。そして、「知った者は歩き続けなくてはならないのよ」と念を押すよぅに何度も繰り返した。

P.345

人は、忘れることで救われる。失ってしまった大切な人の哀しみの記憶が、遺族の中で薄れていくのは自然なことだ。しかし私たちが、あの戦争の犠牲となって殺されていった人たちの存在を忘れてはならない、と佐伯さんはいう。今を生きる人たちに「死者のことを忘れないで」と語り続けた人生は、救うことのできなかった家族、そして見殺しにした大勢の死者たちへの懺悔でもあったのだろう。

終章
P.350

 歴史は生き残つた者たちの言葉で語られる。しかし戦争の最大の犠牲者は、言葉を持たぬ死者たちだ。あらゆる戦場において、家族への最期の言葉も、一言の文句も哀しみも、何も言い残すことすら許されず殺されていつた人たちの存在こそ、今、私たちが立ち戻るべき原点である。

P.351

 人間は、愚かで弱い。強いものにすがりたくなる。行儀の悪い隣人がいて、それをやっつけろと責めたてる力強い声が上がれば、賛同したくなる時もある。いざ大きな潮流が動き始めると、どんな優れた政治家も著名な文化人も作家もマスコミも、みなその流れに呑み込まれ、むしろ加担していく。一旦、流れ始めた濁流にひとりで立ちはだかることができるほど、人は強くない。七〇年前、私たちはそのことを経験し教訓を学んだ。

あとがき

 戦後七〇年という節目を機に改めて、市井の人々が受けた痛みを知り、それを相手が受けた痛みへと重ね、あらゆる側面から戦争の周辺にある「記憶」と「事実」を冷静に見つめ直すまなざしが必要です。心地の良い「感情」だけを、事実を計る物差しに使う過ちだけは避けなくてはならないと思います。

   爆心地の碑に白菊を供へたり忘れざらめや往にし彼の日を

 敗戦から七〇年を迎えたニ〇一五年元日に発表された、天皇陛下の歌です。今の天皇陛下は皇室でただ一人、広島の原爆供養塔に足を運ばれた方です。皇太子だった昭和ニ四年、まだ粗末なバラック建てだった犠牲者の塚を訪れ、拝礼されました。原爆投下は「やむを得なかった」とした昭和天皇の発言から四〇年、「爆心地」という言葉が、この節目の年初に天皇の言葉として表れたことの意味を重く受けとめています。

【関連読書日誌】

  • (URL)“どのような過ちを犯した時も、どんな絶望の淵に陥った時も、少しだけ休んだら、また歩き出す力を持ちたい。人は、弱い。だからこそ、それを許し、時には支え、見守ってくれる寛容な社会であることを心から願う” 『教誨師』 堀川惠子 講談社
  • (URL)“土居の第一世代の弟子となった石川は、土居が亡くなる二〇〇九年まで四五年間、「土居ゼミ」に通い、最期まで師事した” 『永山則夫 封印された鑑定記録』 堀川惠子 岩波書店
  • (URL)“今こそ、私たちの来し方を振り返り、戦後の再スタートの土台に据えた精神を思いおこすべきだろう” 『チンチン電車と女学生』 堀川惠子, 小笠原信之  日本評論社
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  • (URL)“私たちは当たり前のように享受しているこの「戦後」を、二度と「戦前」に引き戻してはならない” 『日本の戦争 BC級戦犯 60年目の遺書』 田原総一朗監修 田中日淳編 堀川惠子聞き手 アスコム
  • (URL)“罪を犯すような事態に、自分だけは陥らないと考える人は多いかもしれません。しかし、入生の明暗を分けるその境界線は非常に脆いものです。” 『裁かれた命 死刑囚から届いた手紙』 堀川惠子 講談社

【読んだきっかけ】朝日新聞書評で刊行を知って。
【一緒に手に取る本】

教誨師

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裁かれた命 死刑囚から届いた手紙

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永山則夫 封印された鑑定記録

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チンチン電車と女学生 1945年8月6日・ヒロシマ (講談社文庫)

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死刑の基準―「永山裁判」が遺したもの

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