“国家が選択を行うとき、指導者が行う選択がこの分かりやすい良識を反映するものであるとき、広島の教訓か生かされることになります。” オバマへの手紙 ヒロシマ訪問秘録 (文春新書) 三山秀昭 文藝春秋

オバマへの手紙 ヒロシマ訪問秘録 (文春新書)

オバマへの手紙 ヒロシマ訪問秘録 (文春新書)

オバマ大統領がまだ民主党候補の一人に過ぎなかった頃、オバマがいかに優れた候補であったかという論説を読んだことがある。すなわち、大統領としての職務を担うべくいかに研鑽を重ね、準備をしてきたか。
そのことは、今NHKBSで放映中の『オバマホワイトハウスオバマケア” 』(原題:Inside Obama’s White House Obamacare
制作:国際共同制作 Brook Lapping/Les Films D’ici/ NHK/BBC/ARTE France(イギリス 2016年))を見てもよくわかる
http://www6.nhk.or.jp/wdoc/backnumber/detail/?pid=161019
見開きより

オバマへの手紙 ヒロシマ訪問秘録 (文春新書)
ついにアメリカの現職大統領が被爆地・ヒロシマを訪れた。この歴史的快挙の裏には、ケネディ駐日大使、ケリー国務長官、岸田外相の「三人のK」の連携と、広以市民の「謝罪を求めない」心があった。裏方として尽力した現地メディア社長による秘話満載のルポルタージュ

著者は、読売新聞記者、ワシントン特派員、政治部長、経理局長などを経て、広島テレビ放送社長。オバマ大統領が広島へきたことの意味、価値を改めて認識。演説全文の、英語原文、公式和訳が付録としてつく。
プロローグ
P.7 「三人のK」

 オバマの広島訪問の道を切り拓き、政治的に編み込んだ功労者は、第一にキャロライン•ケネディ大使だ。彼女の経歴や父• J • F •ケネディ大統領から引き継いだ核軍縮への熱い思いは説明する必要もなかろう。彼女は、父がテキサス州ダラスで凶弾に倒れたあと、一九七八年に叔父のエドヮード•ケネディ上院議員とともに平和記念公園を訪れた。まだ学生の時だ。感受性の強い時に受けた印象は父の遺志とも重なった。また、オバマはJ.F.Kを知って政治の道に進んだ。そのことを知るケネディ大使は、ニ〇〇八年大統領選の指名争いの早い段階で「オバマ支持」を明確にして流れを作り、ニ〇一三年秋に駐日大使として着任してからは大統領の広島訪問の実現に邁進した。
 第二の功労者はジョン•ケリー国務長官ベトナム戦争に従軍した経験から、「反戦」に傾倒し、オバマ政権の二期目からは国務長官として、やはり歴史的なキユーバとの国交回復に道筋を付け、限定的ながらイランの核開発を阻止した。ケネディ大使とともにオバマの心を早くから汲み取り、一年以上前から、G7外相広島会合の際、原爆慰霊碑に献花することを岸田文雄外相に伝え、英、仏の核保有国を含むG7外相全員を献花へと先導し、大統領の広島訪問の露払い役を果たした。
 三人目はその岸田外相だ。まさに平和公園がある広島一区選出の代議士で、第二次安倍政権以降は一貫してて外相の任にあり、地道に裏で汗をかきながら広島とワシントンというデリケートな街に政治的なブリッジを架け、ケリー、ケネディとの長く深い親交を活用しながら、歴史的なオバマ訪問を組み立てた。
 この「三人のK」こそが、オバマ広島訪問の功労者だ。

第一章 アメリカにおけるヒロシマ
第二章 ヒロシマのアメリカ感
P.30 3・11 広島が行ったサポート

この時、広島は、他のどの県も行わなかったサボー卜をした。民間の有志が集まり、資金集めをして、すでに絶版となっていた『原爆市長ヒロシマとともに二十年』という本を、サブタィトルを「よみがえった都――復興への軌跡」と変更して復刻し、東北三県
の自治体などに寄贈したのだ。それは甚大な被害の前に打ちひしがれ、心が折れ、何から手をつけてよいか迷っていた各自治体の長や企業経営者に対し、勇気を与えた。

P.38 なぜ広島にはお好み焼きやが多いのか

「戦争未亡人説」はどうも納得できず、お好み焼きのソースで有名な「オタフクHD」の佐々木茂喜社長に取材したら、意外な答が返ってきた。
「戦争未亡人説はよく言われる俗説です。ご承知のように、広島も近くの呉にも機械製作所、造船所、軍事関連施設があり、それが空襲や原爆で灰燼になった。このため、そこら中に鉄板が散在しており、誰でも拾ってくることが出来た。戦前から一銭洋食という食堂はあったが、鉄板を下から練炭で熱すれば、街頭で屋台食堂が出来た」
「材料は?」
「そこがポイントなんです。鉄板と練炭だけではお好み焼きが出来ません。実はGHQメリケン粉(小麦粉)を広島に重点的に配給してくれたのが大きいんです」
「なるほど」
「戦争未亡人説が広く言われていますが、『みっちゃん』という店の名前は女性の名前ではなく、『満夫』で男性ですよ」

第三章 「広島にきてほしい」と言う前に
第四章 「平和へのひと筆」
第五章 オバマへの手紙第一便
第六章 ホワイトハウスへの直訴第一弾
第七章 「伊勢志摩」サミットに決まる裏ストーリー
第八章 ホワイトハウスへの直訴第二弾
第九章 「オバマへの手紙」特別版 被爆米兵と森重昭さん
第十章 G7外相広島会合でのハプニング
第十一章 直前までの激しい綱引き ケネディとライスのバトル
P.148 被爆遺品を見て「powerful」と

 当日は大統領の資料館滞在時間は十分間だったが、十二歳で白血病で亡くなった佐々木禎子さんが「折鶴を折ると病気が治る」と信じ続けた折鶴と被爆者で文化勲章受章者の平山郁夫氏の絵画を見て、説明を聞き、芳名録に記帳し、あらかじめ「少し助けてもらって」折ってきた四羽の折鶴をその場にいた小中学生に渡した。
 実は日米政府とも今日なお、公表していないが、被爆遺品の代表ともいえる、ご飯が原爆の熱で黒焦げになった弁当箱も大統領は見ていた。
「powerful」(心を動かされた)
 大統領は岸田文雄外相の説明にうなずきながらこんな言葉をつぶやいたといぅ。

第十二章 十七分間の広島スピーチ
P.153

 大統領は演説の後半部分で、このように再度、米兵捕虜の遣族を会社勤めの傍ら、独力で探してきた森さんのことに触れた。
「アメリカ大使館から大統領の演説の場に出るよう前日に連絡をいただき天地がひっくり返るほど驚きました」
森さんはこう話して会場入りし、指定された席の位置に驚いた。
「大統領のスピーチを遠くから聞くのだろうと思っていました。ところが最前列なのです。知事や市長よりも上席だったので大変驚きました」

第十三章 残されたもの
第十四章 「あとがき」ではなく「無題」
付録 ヒロシマナガサキの7つの?
 「原爆はパラシュートで落とされた」のではない。調査機材を載せたパラシュート3つを投下
 長崎に投下された原爆「ファットマン」にはアンテナが装備されており、これは日本製八木アンテナ
 想定外だった原爆症
 原爆ドームは楕円形。チェコ人ヤン・レッツェル設計
 被爆から15年後の1960年、原爆症で亡くなった16歳の少女による日記に「あの建物だけが、いつまでも恐るべき原爆のことを後世に伝えてくれるだろうか」と書いていたことが分かり、世論は保存に大きく傾き、1966年市議会が永久保存を決定、1996年ユネスコ世界遺産に登録された。
オバマ大統領の演説の最後

 国家が選択を行うとき、指導者が行う選択がこの分かりやすい良識を反映するものであるとき、広島の教訓か生かされることになります。

 この地で世界は永遠に変わりました。しかし、今日この町に住む子どもたちは平和な中で一日を過ごします。なんと素晴らしいことでしょう。これは守る価値があることであり、全ての子どもに与える価値かあることです。こうした未来を私たちは選ぶことかできます。そしてその未来において、広島と長崎は、核戦争の夜明けではなく、私たち自身が倫理的に目覚めることの始まりとして知られるよぅになるでしょう。

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