“仮説がいったん定説となって権威を持つと,ときに新事実を切り捨てる道具に使われる.” 『マイネカルテ―原田正純聞書』 石黒雅史 西日本新聞社

- 作者: 石黒雅史
- 出版社/メーカー: 西日本新聞社
- 発売日: 2010/01
- メディア: 単行本
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水俣病は,教科書で出てきて聞いたことがあっても,原田正純という医師,研究者,大学教授のことは,ほとんどの人が知らない,というのが現実であろう.水俣病の原因究明と患者救済にあれだけ大きな貢献をし,それによって朝日賞を受賞し,また,その著書は大佛次郎賞を受賞しているにもかかわらず,である.
本書は,西日本新聞の記者である著者が,原田医師にインタビューを重ね,それを一冊にまとめることにより成立した,「患者とともに歩み続けた医師の記録」である.
まず,帯の文句にも採用されている,著者あとがきの最後の文章を引用しておこう.
この本に書かれた物語は,決して昔話ではない.水俣病問題は現在進行形であり,今の地球環境問題も基本的に同じ構造を持っている.自然界に対する人間の立ち位置,ひとたび問題が発生したときに個人や組織が迫られる対処の在り方,家族とは,学問とは,差別とは….原田教授がそのつど悩み,考えを深めてきた未来へのメッセージである.
そして,「治らない病気を前に医者は何ができるのか」の答えを探し続けている一人の医師の,人間のドラマである.
この本から学び取るべきことはたくさんある.
第一に科学的真実とは何か,を明らかにすることがいかに難しいか.ここで明らかにする,とは,根拠となる証拠を得る,ことだけではなく,それを広く多くの人に納得させ,定説とする,ことを意味する.研究成果として得られた結果は,専門家の言葉によるものであり,だれでも理解できるものではない.しかも,専門家の間でさえ,見解が異なることはごく普通である.さらに,故意に,真実を隠蔽したり,曲げようとする人たちがいた場合にはなおさらである.
真摯に真実と立ち向かおうとした人であってさえも,科学的真実が何かを明らかにすることは簡単ではない.これは,原田氏の恩師,宮川九平太教授が,最後まで水銀説に否定的であったエピソードからもわかる.
第二に,定説は変わりうる,ということである.原田氏曰く,
定説とは,それまでに得た研究成果から導く仮説でしかない.しかし,仮説がいったん定説となって権威を持つと,ときに新事実を切り捨てる道具に使われる.
日本の水俣病が重篤者が多かったため,その水俣病認定基準は厳しいものとなり,水俣病の病像を呈する軽傷のひとたちへの対応が遅れたことを原田氏は気にしている.
第三に,行政のありかたである.水俣病以降の様々な公害訴訟や,薬害訴訟からも学ぶことはたくさんあろう.科学的真実を明らかにすることが非常に難しい中で,真に国民のためになる行政はどうあるべきか.
原田氏は最後に,「水俣の教訓を残していくために,忘れてはならない視点」としての次の三つをあげている.第一に,弱者の立場で考えること.第二に,バリアフリー.これは,「素人を寄せ付けない専門家の壁,研究者同士の確執,行政官の壁などが,患者救済や病像研究をどれだけ阻害してきたか」ということを意味する.第三に,事実は現場にしかない.原田氏の長年の経験から出てくるこの言葉は,どんな種類の職業であれ,教訓となることだろう.
その他,本書に書かれている内容で印象深いものに以下のようなものがある.
- エビデンスに基づく医療(evidence based medicine)という言葉が喧伝される昨今の中,次のような記述は記憶すべきであろう.
数量化しないと信用できないというのは,現場を知らない人の発想だ.現場に行かないと環境問題は分からない,と私は確信している.
- 優生学にかかわる記述.
七〇年代の反公害運動は,障害イコール不幸,だから公害を起こしてはいけない,というネガティブキャンペーンだった.新潟水俣病では,県が妊娠規制と中絶の奨励をして,胎児性患者の出生を抑制し,当時は評価された.だが,その考えは,障害者の否定に等しい.
この事実は,マイケル・サンデルの『完全な人間を目指さなくてもよい理由 遺伝子操作とエンハンスメントの倫理』の冒頭で紹介されている,耳の不自由な子供を敢えて産む選択をするエピソードを思い出させる.
- 1960年頃には,工場から排出される有機水銀が水俣病の原因であることが明らかになったにも関わらず,国が公害認定したのは,1968年であり,新潟水俣病の発生からも3年経っていたこと,原田正純氏は定年まで助教授であったことは,記憶しておいてよいだろう.ただ,助教授であったことで,余計な会議等に出席する必要がなく,研究に専心できたというから,面白い.
- 敗戦とそれに伴う教育改革の経験から,「権威とか,正しいと思っていることは,実は危なっかしいものであっていつでもひっくりかえるんだと」子供心に感じたとのこと.
- 恩師(立津政順教授,鹿子敏範教授,三浦節夫院長),同志(作家の石牟礼道子氏,工学者の宇井純氏,写真家の桑原成史氏),公害Gメン田尻宗昭氏,政治家の三木武夫,石原慎太郎など,原田氏と交流のあった人々とのエピソードはどれも印象深い.
(2011.2.19追記)
NHKの番組,ETV特集第312回 2010年5月16日(日)に,『“水俣病”と生きる 〜医師・原田正純の50年〜』が放映されているのを知った.番組の詳細はこちら.
【関連ブログ】
【読んだきっかけ】
たまたま手に取ったサンデー毎日2011.1.23号の連載,佐高信の政経外科576回で本書が紹介されていた.この回のタイトルは,『「水俣学」での朝日賞受賞おめでとうございます<原田正純さんへの手紙>』.
【一緒に手に取る本】

- 作者: 原田正純
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1972/11/22
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