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“人生の終わりに近づくと−いや、人生そのものでなく、その人生で何かを変える可能性がほぼなくなるころに近づくと−人にはしばし立ち尽くす時聞が与えられる。ほかに何か間違えたことはないか…。そう自らに問いかけるには十分な時間だ” 『終わりの感覚』 ジュリアン・バーンズ 新潮社

終わりの感覚 (新潮クレスト・ブックス)

終わりの感覚 (新潮クレスト・ブックス)

The Sense of an Ending

The Sense of an Ending

書評でさんざん取り上げられたブッカー賞受賞作.ジュリアン・バーンズ作.バーンズの世評は知っていて,何冊か持っているが,読むのは初めて.小説はあまり読まないのだが,これだけは,読んでみようと思った.そのもう一つの理由は,土屋政雄の訳だからである.カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』の訳者でもある.原題“The Sense of an Ending”,に相応しい秀逸なる小説.
裏表紙の宣伝文句

記憶がゆれる。「私」がゆらぐ。
精徹、深遠、洗練。四度目の候補にして遂にブッカー賞受賞。
英国を代表する作家の手になる優美でサスペンスフルな中篇小説。

川本三郎氏の評

生きることとほ過去を思い出すことをのかもしれない。年齢を重ねるほど過ぎ去った時がよみがえる。とりわけ多感な青春時代が。決して懐かしいのではをい。長く忘れていた、いわば「音信不通」だった過去はあくまでも苦く重い。リタイアした六十代なかばの主人公が青春時代を思い出してゆく。はじめての恋人。若くして自殺した頭のいい友人。そして隠された謎が明らかになってゆく。思い出すとほ悔恨に向き合うことなのだろう。

最初の一頁.なんだか意味ありげな象徴的な言葉の羅列.何のことだかわからない.でも,そこに書いてあることがすべてを語る.続く頁(P.6)本書の主題は,そこにすべて集約されている.
P.6

 人は時間のなかに生きる。時間によって拘束され、形成される。だが、私自身はその時間を理解できたと感じたためしがない。いや、曲がるとか、逆戻りするとか、どこかにパラレルに存在するとか、そんな理論上の時間のことではなく、ごく日常的な時間、時計にしたがって規則正しく進行する時間のことだ。チクタク、カチコチ…。秒針ほどあてになるものはないのに、一方で時間は伸び縮みする。ほんのちょっとした喜びや痛みがそれを教えてくれる。ある感情は時間の進行を速め、ほかは遅らせる。ときには時間が消失したかに思えることもあり、そして最後にはほんとうに消失して、もうもどらない。

学校時代のことにはあまり関心がない。ノスタルジアなど覚えようもないが、すべては学校で始まったことだから、いくつかの出来事には簡単に触れておく必要があるだろう。その出来事がやがて水増しされてエピソードになり、おぼろな記憶になり、時の経過による変形を受けながら事実になった。出来事そのものにはもう確信が持でなくても、少なくともそれが残した印象を忠実に語ることはできる。というか、私には、せいぜいそのくらいのことしかできない。

P.31 私の本棚とベロニカの本棚   ケストラーとラッカム!!

 本棚のほうがレコードコレクションより受けがよかった。ペーパーバックがまだ伝統的な装いを保っていたころで、フィクションはペンギンのオレンジ、ノンフィクションはペリカンの青。オレンジより青が多いのが真撃さの証明だった。私の本棚には、ホガート、ランシマン、ホイジンガ、アイゼンク、エンプソンなど、全体としてあるべきタイトルが十分な数だけあったと思う。ジョン・ロビンソン主教の『神かけて』まで−−ラリーの漫画本と一緒ではあったが−−並んでいた。ぺロニカは褒めてくれた。もちろん、私が全部読んだと思い込んでのことだ。手垢で汚れているのは古本屋で買ったもの、などと思いもしなかったろう。
 ベロニカ自身の本棚には、本綴・仮綴り混ぜて大量の詩集があった。エリオット、オーデン、マクニース、スティビー・スミス、トム・ガン、テッド・ヒューズ…。ほかに左翼ブッククラブ版のオーウェルとケストラーがあり、革装の十九世紀小説が数冊と、アーサ・ラッカム挿絵の児童書が二冊、何かあるたびに読む慰めの書、ドディ・スミス『カサンドラの城』があった。全部読んであることを、私は徴塵も疑わなかった。

P.45

そんななかで一つだけはっきり記憶していることがある。セバーン川の潮津波、セバーンポアを見た夜のことだ。地元紙にはボアの予定時刻と最適な観察場所が掲載されていて、それを参考に私も見物にいった。

The Severn bore is a tidal bore seen on the tidal reaches of the River Severn in England.[1] It forms somewhat upstream of Sharpness, and can be seen as far upstream as Maisemore and on particularly high tides has been known to reach Upper Lode Lock below Tewkesbury.(Severn bore, http://en.wikipedia.org/w/index.php?title=Severn_bore&oldid=508790168 (last visited Feb. 25, 2013). )
アマゾン川ポロロッカ(Pororoca)みたいなものはいろんなところであるんですね.
P.70

 それも人生…違うだろうか。多少の成果と多少の落胆。私には面白い人生だったが、周囲がそう思わなかったとしても驚かないし、文句も言わない。ある意味、エイドリアンはこれを見越していたのかもしれない。だが、私には、何かのためにこの人生をなげうつつもりはない。念のため。
 私は生き残った。「生き残って一部始終を物語った」とはよくお話で聞く決まり文句だ。私は軽薄にも「歴史とは勝者の嘘の塊」とジョー ・ハント老先生に答えたが、いまではわかる。そうではなく、「生き残った者の記憶の塊」だ。そのほとんどは勝者でもなく、敗者でもない。

P.99

これが、若さと老いの違いの一つかもしれない。若いときは自分の将来をさまざまに思い描く。年をとると、他人の過去をあれこれと書き替えてみる。

P.117

 私たちは自分の人生を頻繁に語る。語るたび、あそこを手直しし、ここを飾り、そこをこっそり端折る。人生が長引くにつれ、私が語る「人生」に難癖をつける人は周囲に減り、「人生」が実は人生でなく、単に人生についての私の物語にすぎないことが忘れられていく。それは他人にも語るが、主として自分自身に語る物語だ。

P.127

人格とは時間とともに形成されていくものだろうか。小説ではそうだ。そうでなければ、あまり語ることがない。だが、実人生ではそうか。さって、と思う。時間とともに人は態度や意見を変え、新しい癖や奇行を身につける。だが、そういうものは飾りで、人格とはちょっと違う。人格はたぶん知性ににているが、完成の時期が遅い。二十歳から三十歳の間か?そこで人格は出来上がり、以後はその人格で一生を過ごす。

P.172

君は言った−−人生を見つめて思索する責任ある個人は、求めずして与えられた贈り物を拒否する権利を持つべきだ、と。君の高貴な態度は、十年また十年と時が経つごとに、妥協に満ちたほとんどの人生の矮小さを際立たせた。ほとんどの人生の、私の人生の…。

P.183

人生の終わりに近づくと−−いや、人生そのものでなく、その人生で何かを変える可能性がほぼなくなるころに近づくと−−人にはしばし立ち尽くす時聞が与えられる。ほかに何か間違えたことはないか…。そう自らに問いかけるには十分な時間だ。

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