“人類はいまだに闇や死を恐れている。だからことさら自らを鼓舞して、万物の長のような顔がしたいのだ。そして地球を守っているように思いたいのである。しかし懐中電灯の電池が切れてしまえば、人間は闇の中で途方にくれるしか能がない生き物である。” 『マリス博士の奇奇想天外な人生 (ハヤカワ文庫 NF) 』 キャリー・マリス, 福岡伸一訳  早川書房

マリス博士の奇想天外な人生 (ハヤカワ文庫 NF)

マリス博士の奇想天外な人生 (ハヤカワ文庫 NF)

Dancing Naked in the Mind Field

Dancing Naked in the Mind Field

著者キャリー・マリスはPCR法でノーベル化学賞を受賞した研究者.PCR法はDNAの塩基列を高速によみとる方法であり,生物学に革命をもたらした.原著は1998年刊.邦訳は2000年刊.
以前より気になっていた人物でもあり,文庫本がでているのに気がついて,読んでみたがところ一気に読み切った.著者のキャリー・マリスは,奇人変人という風評もあるが,子どものように純粋な科学者という印象.かれの人生観は,巻末にある訳者福岡伸一氏とのインタビューに典型的に表れる.
P.322

福岡:あなたを形容する言葉として、ヱキセントリック、奇行、不遜などいろいろなものがあるのはよくご存じだと思いますが、もっともご自身を形容するのにぴったりした言葉があるとすればなんでしょう?
マリス:うーん、そうだな……オネスト(正直)だね。私はオネスト・サイエンティストだよ。そもそも私の、世界へのアプローチは、この世界になにかグランドデザインがあってそれを証明しようとする、というものではないんだ。仮説を証明するデータがほしいんじゃない。むしろ世界がどうなっているか知りたいだけなんだ。それは子供のころガレージで実験していたころからまったく変わっていない。だから最初に考えていたとおりにならなくても全然かまわない。むしろ、あれPそうなんだ!という展開の方が楽しいよ。でも現在の科学はそうはなっていない。みんな自分の描いた世界を証明しようとしているんだ。エイズがレトロウイルスによって起こる、人間の活動によってオゾンが破壊されオゾンホールができる、地球が温暖化している。これらはみんな仮説だよ。そしてやろうと思えばそれを支持するデータを集めてくるなんてことは簡単なんだ。でもそれは世界の成り立ちを知ろうとする行為ではない。

P.37 日本国際賞でのエピソード,かれの人柄をあらわすよい例.

私は日本に向けて出発した。重荷から解放されて軽快な気分だった。授賞式では天皇と皇后に会うことができた。日本の皇后に向かって「スウィーティ(かわい子ちゃん)」と挨拶したのはたぶん後にも先にも私だけだろう。皇后は私の無礼に対してもまったく寛容な態度を示してくれた。私は皇后ととても楽しく会話した。他の国の皇后とはお知り合いですか?私はたずねてみた。世界に皇后の称号をもつ方は私を含めて三人しかおりません、と彼女は答えた。あとの二人はどなたかと私はきいた。その答えを聞いて、私はその人たちがガールフレンド候補とは考えにくい方々だと言い、皇后もそれに同意してくれた。
それから皇后は彼女の来し方について語ってくれた。彼女の義理の父にあたる昭和天皇第二次世界大戦での降伏を宣言し、やがて現在の彼女の夫である、当時の皇太子がクローズアップされるようになってきた。そのお妃となった彼女は当時の皇室のしきたりから言うと、まったく新しい存在となった。なぜなら彼女は華族の出身ではなかったからである。当初、彼女は思ったことを率直に発言し、それが問題となったこともあった。彼女は自発的な言動を慎まなくてはならなくなった。彼女はどのように振る舞うべきかを学ぶことになった。自らを律し、その結果、皇后として期待される姿をみごとに演ずることができるようになった。同時に、自らの地位に囚われることになった。しかし彼女はそれをやりとげた。彼女が完壁なまでに皇后として振る舞うのを見たマスコミは、今度は、彼女があまりにも皇室然としすぎだ、親しみがもてない、と批判しだすしまつだった。実際のところ、皇后はとても素敵な、そしてエレガントな女性だった。
皇后陛下の生活で楽しみというとなんですかP」私はきいた。「お買い物や映画鑑賞など行かれることもありますか?」
皇后のスケジュールは完全に管理されていて、すべてがあらかじめ予定されたものだという。皇后自身が判断を下す局面はほとんどないと言ってよい。私は自分が読んだ本のうち、彼女もきっと楽しめると思った本の名前を言ってみた。すると彼女は、自分の読むものは、まず、お付きのものが目を通す習わしになっているのだと説明した。
私には信じられないことだった。「それでは私が、あなたに直接ご本を送付してさしあげましょう」
「どうでしょう。郵便物は私のもとに直接届くわけではありませんから……。すべてのものは、しかるべき手続きを通過せねばなりませんので」彼女は答えた。

P.43 ノーベル賞学者も人の子.こういうエピソードは気持ちがよい

その日の午後になってようやく母に連絡がとれた。私は母に、もうDNA関係の切り抜きを送ってくれなくてもいいよ、と言おうと思った。なんといってもそのDNAに関する専門的成
果を認められてノーベル賞をとったのだから、と。私の母は《リーダーズ・ダイジェスト》に「DNA研究の進展」といった記事が載るたびに、それを送ってくれていた。どんなに説明してもダメだった。僕ならそんな記事なんかわけなく書けるんだ、そういう一般雑誌の記事になるようなDNA研究の進展は、実はほとんどみんな僕の発明のおかげなんだ。いくらそういっても母はその意味が理解できないのだった。母はたぶんこう思っているのだ。ノーベル賞をとったので、これでやっと息子も《リーダーズ・ダイジェスト》に記事が書けるようになったんだと。,

マリスは純粋な疑問を発し,それに対する答えが自分の納得がいくかどうかで.自分の判断をする,というごくまっとう生き方をする.だから,権威とかに価値を置かない.
P.48 受賞後,ホワイトハウスに呼ばれて

当時、彼女はアメリカの医療保険制度の改革という大任を背負っていた。この女性が自分のしていることを本当に分かっているのかどうか、私にはいささか疑問だった。たとえば、オーストラリアの医療保険制度はどうなっているのか、この女性は果たして知っているだろうかPもし私がそう質問すれば彼女はきっと、「それについては、私のスタッフのなかに専門家がいますので」などと言って逃げるにちがいない。で、私はその質問をしてみた。ヒラリーは、オーストラリアの医療保険制度について非常に正確に教えてくれた。「なるほど」私は言った。「ではアイルランドはどうです。アイルランド医療保険制度はどうなっていますか」ヒラリーは、アイルランド医療保険制度について非常に正確に教えてくれた。私ば彼女を見直した。たいした女性である。ダンナの方は確かに大衆受けする魅力があり、背だって思っていたよりずっと高い。つまり大統領に選ばれやすいタイプだ。しかしヒラリーは違う。彼女は本物だ。

P.70

化学者はつねにこう思ってている。オレたちの方が生化学者より賢い。そして物理学者はこう思っている。オレたちの方が化学者より賢い。数学者はこう思う。オレたちの方が物理学者より賢い。そして哲学者は、オレたちの方が数学者より賢いと思っている。しかし今世紀、哲学者がいったい何をしたというのだろう。

P.79

鳥といえば読者の皆さんはきっとご存じないはずだが、鳥と霊長類だけがDNAの最終的な分解産物として尿酸を排泄しているのだ。猫や犬などの他の哺乳類はそうではない。尿酸を排泄するという点は、不思議なことに霊長類と鳥だけの共通点なのだ。

P.166 温暖化議論に対する批判から

私たちは自分の頭で考えねばならないのだ。誰かが七時のニュースで地球上の気温が上昇傾向にあり、海洋が汚水で満たされ、物質の半分が時間を逆行していると言っても、それを鵜呑みにしてはならない。メディアは科学者の思いのままだ。科学者の中には、メディアを実にうまく言いくるめる能力にたけた人々がいる。そしてそのような有能な科学者たちは、地球を守ろうなどとは露も思っていない。彼らがもっぱら考えているの
は、地位や収入のことである。

P.172 

もし、誰かが食品中に毒性成分が含まれていると言ったとしよう。私なら、その毒性成分がなんという化合物なのか説明してもらい、それを食べるべきか否か、自分で判断したいと思う。科学とは一種の方法であり、その方法によって科学者が導き出した結論は、実験的なデータによって支持されていなければならない。つまり、導き出された結論を確かめてみたいと思う人がいれば、その人には実験の手順を知る権利がある。そして自分の手でチェックしてみることができる。したがって科学においては、科学者が単
て自分の手でチェックしてみることができる。したがって科学においては、科学者が単にそう思うというだけで、結論を導き出すことは許されない。

P.181 代替フロンも疑問を呈する

冷蔵庫やエアコンに使おれているクロロフルオロカーボン、その代表的商品名はフロンである。アメリカにおけるフロンの生産特許が期限切れになるのと同時に、フロンの使用が禁止されることになった。これは偶然にしては驚くべきタイミングのよさである。世界各国でようやくロイヤリティを払わずにフロンの生産が行なえるようになった矢先に、禁止令が出されたのである。そのかわり、新しい代替化合物が登場した。むろんそれは特許で守られている。フロンはこの新製品に置き換えられ、これを生産する企業には再び金が入る仕組みになっているのだ。

P.185 こうした考え方が彼の真骨頂だろう.

われわれは白衣を身にまとった科学者たちの御託宣を神妙に拝聴する。御託宣はかつて教会の司祭たちが執り行なっていた行為である。司祭たちは、もし使命とあらば、残虐非道な行為でも実行した。科学者もまた、求めに応じて非道な行動に手を貸す。この傾向が強まるのは、われわれが科学者に対し次々と技術革新を要求するからである。科学者はいまや、弁護士と同じくらい始末におえないものと化してしまった。

P.209 以下も同様に重要な指摘.彼が経験した超常現象を彼は信じる.

しかしだからといって起こったことを否定するつもりはない。科学ではこのような現象をアネクドータル(anecdotal)と呼ぶ。つまり、再現できないようなやり方で立ち現われた、一回限りの現象のことである。でも、それは確かに起こったことなのである。

P.240

ある時、一人の壊血病者がとある島に打ち捨てられた。幸いなことに、島には柑橘類の木があった。オレンジを食べると彼はみるみる病から回復した。なんとか英国に戻った彼は、到着するとただちに海軍に出頭して申し立てた。壊血病は伝染病ではありません、なんらかの栄養素不足です、と。かくして船々には必ずライムを満載した大きな樽が積みこまれることになった。これ以降さ英国の船員はライミーと称された。ライムの補給は英国海軍の海上活動を飛躍的に向上させた。そもそもこれが、人を栄養素のとりこにする嗜矢だったのである。今日、栄養素をめぐる狂奔は、ほとんど狂騒的頂点に達している。

P.241 不飽和脂肪酸批判も納得しない

なぜ健康のためにはミルクセーキや飽和脂肪酸や動物油をとってはいけないのか、なぜEPADHAといったオメガ三脂肪酸がそれほど重要なのか?なぜチョコレートも卵もピザもハンバーガーも食べたらだめなのか?飽和脂肪酸不飽和脂肪酸がいったいなんだというのか?どれにも確たる根拠はない。ここにはとてつもない論理の飛躍があるだけだ。

P.256

LSD禁止の影響はまず、刑務所が人であふれかえることになったことである。しかしさらに深刻な問題は、LSDの力をかりて、真摯に物事を探求していた人々の研究活動や芸術活動に終止符をうってしまったことである。現在でも許可を受けてLSDの作用を研究している科学者はいるだろう。しかし彼らはLSDを服用したこともなければ、LSDのなんたるかもまったく分かっていない連中なのである。薬物に関しては、科学書籍まで検閲を受けることになった。こんなことは歴史上初めてのことである。『有機化学事典』のような化学合成の標準的な参考文献からも、LSDメタンフェタミンの記述すべてが削除された。なんという暴挙だろう。一群の化学物質が、突然この世から消されてしまったのである。アメリカの暗部はさらに闇を増しつつある。

P.282 HIVエイズの原因であることも信じない.納得できる証拠が提示されていないから.

コンコード調査と呼ばれる、ヨーロッパにおける大がかりな研究調査によってもこの事実が示されていた。AZTはエイズには無効であり、発病していない患者には害作用がある。実はこの調査には、グラクソ社も多大な資金協力をしていたのである。それにもかかわらず、このような結論が出たのだ。彼らが私に講演依頼をしてきたときも、実際、私がAZTに対してどのような見解をもっているのか、知っての上なのかどうか、いぶかったものだった。

P.304 純粋なサイエンティストにはむかない仕事

だが、私は実はあまりそういうことに向いていない。実験室での才能イコール重役会での才能ではないのだ。これはどんな技術分野にも言えることである。研究現場の技術者、もしくは科学者としてキャリアを積んできた年長者は、そのうち人間を使う側にまわされる。研究者が研究者を使うことはそれほど難しいことではない。なんといっても、それはかつての自分自身だから。しかし管理職になった者が関わるのは研究者だけではない。会社の経営や経理、特許、広報、マーケティング、そういったもろもろの専門家と渡り合っていかなくてはならない。これは並大抵のことではない。
なんとかしてほしい。

P.314 哲学的

 人類はいまだに闇や死を恐れている。だからことさら自らを鼓舞して、万物の長のような顔がしたいのだ。そして地球を守っているように思いたいのである。しかし懐中電灯の電池が切れてしまえば、人間は闇の中で途方にくれるしか能がない生き物である。

福岡伸一氏の訳とあれば,マリスの科学的見解,エイズ,温暖化,不飽和脂肪酸等に関する現在の定説を合わせてコメントしておくべきではなかったかと思う.
【関連読書日誌】
【読んだきっかけ】
INAXブックギャラリで発見.
【一緒に手に取る本】

エイズを弄ぶ人々 疑似科学と陰謀説が招いた人類の悲劇

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