『難治がんと闘う―大阪府立成人病センターの五十年 (新潮新書)』 足立倫行 新潮社

難治がんと闘う―大阪府立成人病センターの五十年 (新潮新書)

難治がんと闘う―大阪府立成人病センターの五十年 (新潮新書)

医学は日進月歩である.一昔前の常識は,気がついたら古いものになっている.しかし一方で,最新の治療法を探し当てることも難しい.最先端の医療・科学はどこかで試行錯誤しながら進んでいくものだからである.

では,さて万人の病いとなったがんの治療最前線を知るにはどうしたらよいか.がんというものの大きな全体像をつかむにはどうしたらよいか.本書はそうした目的のために適切な一書であろう.

本書を推薦する理由はいくつかある.まず第一に,著者.この著者のノンフィクションを読み続けてきたこともあるが,この著者には,『北里大学病院24時―生命を支える人びと (新潮文庫)』という医療ものの良書があり,その実績において信頼がおける.第二に,大阪府立成人病センターという一つの組織に密着した取材である点.よくありがちなのは,それぞれの種類の癌の名医を全国各地を取材したたぐいのものであろう.本書あとがきにも指摘があるが,各科の垣根を越えた治療体制ができているところが,このセンターの魅力であり,その魅力を活かした取材になっている.癌だって転移するのだから.

本書に登場するがんは,胃がん膵臓がん,肺がん,白血病,乳がん,卵巣がん,子宮頸がんなど.これに,外科治療,遺伝子診断,地域的な取り組みなども合わせて紹介されている.それぞれの専門医師へのインタビューによって構成されている.特に,印象深い記述は次のような点.

  • がんの診断から,最終的な死因に至るまでの系統的かつ大規模なデータ収集が重要.「地域がん登録」という形で実践.本来は,全国規模で組織的な取り組みが必要.日本のがん対策は世界的には遅れている,という.
  • がんの最大危険因子は喫煙.もはや煙草の害をPRする啓発普及の段階ではなく,個人の喫煙習慣に積極的に介入する段階.欧米でがんの死亡率低下などがん対策で成果をあげているところは,ほとんどがたばこ対策に率先して取り組んだ地域.
  • 術式の難しいがん,手術+化学療法など集学的治療が必要ながんは,医療機関による治療成果の差が著しい.医療機関ごとの5年生存率を公開すべし.

最終章での,加藤菊也医師へのインタビューでは,個々人のゲノム情報を利用した,遺伝子診断やオーダーメード医療の可能性に触れられている.生命倫理との関わりで重要な議論でもあるので,引用しておく.

− 両親の全ゲノムがわかってしまうと,子供に遺伝病が出る確率が事前にわかってしまうわけですね?
「そうです.当然,産むかどうか迷うことになります,両親も,社会も.非常に大きな倫理的問題になるでしょうね.」
− なるほど.個人の全ゲノムの情報というのは,究極の個人情報なんですね.
「しかも,そうした事態は近い将来に必ずやってきます.(中略)」
− もう止めるわけにはいかない,と?
「技術の進歩はそうです.先例としては,体外受精がありますね.不妊に対して体外受精という方法が提示された時,キリスト教を始め宗教界などから,“人間の自然性に反する”と激しい反対論が噴出しました.でも,現在はどうかというと,不妊治療の中の日常的な医療行為になっています.今回も同じように進むでしょうね.(中略)
 これからの時代は,患者さんへの遺伝子カウンセリングが欠かせないでしょうね.」
− 遺伝子カウンセリングですか?
「遺伝情報がすべて明らかになる時代,個々の遺伝的な問題に対してどう対処したらいいか.非常に難しいことですし,きわめて微妙で倫理的な問題でもあるのですが,我々医療者が遺伝子に関する知識を独占していて,患者さんが詳しいことを何も知らない,という状況はよくないと思うのです.できるだけ適切かつ誠実に説明しなきゃいけない.そういう時代が間もなくやってきます.」

まさに,『完全な人間を目指さなくてもよい理由?遺伝子操作とエンハンスメントの倫理?』の中で,サンデル教授が議論していることと同じ課題を抱えている.

この章で,個人の全ゲノム解析の費用は一人10万円よりずっと安くなるだろう,という発言がある.これに関連して,「ムーアの法則の息子」というのを紹介しておこう.ムーアの法則(Moore's Law)は,集積回路上のトランジスタ数は「18ヶ月ごとに倍になる」という有名な経験則であり,米インテル社の共同創業者であるゴードン・ムーアが発見した.(Wikipedia参照)

ムーアの法則の息子」は,「利己的遺伝子」で有名なリチャード・ドーキンス(Richard Dawkins)が,『The Next Fifty Years: Science in the First Half of the Twenty-first Century』という本の中のエッセーで紹介した法則.1塩基対あたりのゲノム解読費用は,25ヶ月で半分になっているという経験則.これに従えば,人間一人のゲノム解読に要する費用は,2050年に1000ポンドになることになる.この本については,紹介HPがある.これは,この手の本の中では,なかなか魅力的な仕上がりの本であり,以下の研究者による書き下ろしエッセーを集めたもの.(Peter Atkins, Samuel Barondes, Paul Bloom, Rodney Brooks, Mihalyi Csikszentmihalyi, Paul C. W. Davies, Richard Dawkins, Nancy Etcoff, Paul W. Ewald, David Gelernter, Brian Goodwin, Alison Gopnik, Judith Rich Harris, Marc D. Hauser, John H. Holland, Stuart Kauffman, Jaron Lanier, Joseph LeDoux, Geoffrey Miller, Martin Rees, Robert Sapolsky, Roger C. Schank, Lee Smolin, Ian Stewart, Steven Strogatz )


【関連ブログ】

【読んだきっかけ】書店にて.登場する医師の中に面識のある方がいたというのも理由の一つ.
【一緒に手に取る本】
単行本は,1989/11刊.

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完全な人間を目指さなくてもよい理由?遺伝子操作とエンハンスメントの倫理?

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